今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「障害者」を言い換える別の言葉

大西 赤人       



 僕は中学生時代は車椅子で過ごしていたし、現在も歩く時は松葉杖を使っており、手帳を交付されている身体障害者だ。大きな肉体的ハンディキャップがあることはたしかなので、物理的な不自由はもちろん折々に味わうけれど、それを自分の生きる上での根本的な引け目に感じる部分はまず皆無に等しい。実際、友人などにも“大西は身体が悪いのだから”と保護的に遇されることは子供の頃から滅多になくて、むしろ“もう少し大事に扱ってもいいだろ”と言いたくなる(?)時のほうがある。要するに、必死に強がっているわけでは毛頭ないものの、こちらが“僕は身体が悪いんです”というアピールをしないしオーラも出さないもので、周囲もその事実を殊更《ことさら》に意識していないのだろうと思う(念のためだが、これはあくまでも僕個人に関しての話であり、障害者は身体が悪いことをアピールすべからず、オーラを出すべからずと一般論として主張するつもりはない)。

 昔から人の障害を形容する言葉は数々あるけれど、それらの大部分は差別語と位置づけられ、表立った使用を次第に忌避されるようになった。たとえばテレビなどで誰かがそれらの言葉を口走ってしまったなら、“先ほど番組内で不適切な表現があったことをお詫びします”とアナウンサーや司会者が半ば機械的に謝罪して頭を下げる――皆さんにもお馴染みの光景だろう。しかし、このような自主規制が行き過ぎると、表現の自由を抑圧する「言葉狩り」として批判を浴びる場合もある。

 実際、盲従や盲信、片手落ち、つんぼ桟敷というような古くからの慣用句は死語と化しつつあり、「めくら将棋(盤や駒を使わず、頭の中だけで将棋を指すこと)」は「目隠し将棋」と何とも煮えきらない言葉へと言い換えられる。また、僕のように足の悪い人間については、以前ならば「びっこを引く」という言葉が普通に使われていたわけだけれど、今では「足が不自由」と無難な――その代わり、一種ボヤけた――形容が用いられる。ところが、その反面、競馬の競走馬が脚に怪我をした時などには、「跛行《はこう》」という用語がメディアでも何の問題もなく使われており、しかし、この「跛」という文字は、まさに「びっこ」そのものなのだから奇妙な話ではある。

 言葉が差別意識を伴なうか否かは、最終的には当事者の感覚によって決定される。即ち、その言葉を用いる側が“私は、その言葉が指し示す障害を持つ人自体を差別する気持ちは一切ありません”と言ったとしても免罪はされない。一方、“いや、私はその言葉を見聞きしてもどうもありませんよ”という当事者も存在するだろうけれど、併せて気にかける当事者が居る限りは、差別語として成立してしまう。たしかに僕も、「びっこ」ならば平気だけれど、別のもっと生々しい言葉の場合は不快を覚えることもある。また、その言葉が一般的な形容として登場する場合と、当事者に対して面と向かって投げつけられる場合とでも、印象は大きく異なってくる。

 米国で暮らす黒人については、過去に用いられていた「ニグロ」「ニガー」が1960年代の公民権運動以降は差別語と位置づけられ、近年、アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)という呼称が一般的になりつつある。ただし、「アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として『ニガ(nigga)』が使われる事も多々あり、その傾向は特にラップ音楽において顕著である」(ウィキペディア)けれども、「アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる」(同前)というのだから、なかなか微妙。同様、米国における先住民たるいわゆるインディアンについても、ネイティブ・アメリカンという呼び方が広まったが、「歴史的呼称としての『インディアン』に誇りをもつインディアン達はこれをあくまで自称とし、またその名称を替えること自体が差別的である」(同前)として、あえてインディアンという呼称のほうを選択的に用いる活動家も少なくないらしい。また、エスキモーの場合は、カナダでの動きを受け、日本でもイヌイットへの言い換えが定着しているけれども、「アラスカにおいては『エスキモー』は公的な用語として使われており、使用を避けるべき差別用語とはされていない」(同前)という。

 ことほどさように言葉とは扱いが難しいわけだが、日本においては、大きな枠としての「障害者」という一語自体、以前から論議の的となっている。「障害」の「害」は印象が悪いので、これを「障碍」に換えるべきではないかというわけだ。ただ、「碍」は現在の常用漢字に含まれていないので、「障がい」とひらがなにする動きも見られる。

「文化庁文化審議会の国語分科会で論議されている常用漢字の見直し案で、『碍《がい》』の追加を求める意見や要望が目立っている。
 『障害者』ではなく『障碍者』と書けるようにするためで、印象の悪い『害』は嫌われているようだ。しかし、『害』も『碍』も、意味はほとんど同じ。障害者団体では『「しょうがい」という言葉そのものの見直しを検討してもらいたい』と訴えている。(略)
 『害』も『碍』も、『さまたげる』ことを意味するが、『害』は『害毒』『害悪』『公害』などの熟語に用いられ、負のイメージが強い。このため、山形、福島、岐阜、三重、大分、熊本県などの自治体では、担当部署名や広報文の表記を『障がい』に切り替えている。昨年4月から『障がい』を使う岐阜市では、『賛否両論あるが、障害という言葉を考えるきっかけにはなっている』と説明する。
 民間会社でも同様の動きがあり、マイクロソフト社(東京都渋谷区)も今年4月から、社内文書では『障碍』を使っている」(7月2日付『読売新聞』)

 「碍」という文字は、古い本などでは「障碍物競争」という具合に使われているけれど、現在でも思い浮かぶ例としては、電線にくっついている碍子《がいし》――電線と電柱とを絶縁するための主に磁器製の器具――が一般的だし、また、融通無碍《ゆうずうむげ》――考え方や行動が自由であること――という成語にも含まれる。いずれにせよ、先の記事中にある通り、「『害』も『碍』も、『さまたげる』ことを意味する」のだから、「障害者」を「障碍者」に換えることで決定的な異同を伴なうとは考えにくい。それでは、「障がい者」はいかがかとなれば、そもそも見た目に据わりが悪いし、ひらがなに逃げただけの姑息さも感じる。その上、「支障」や「罪障」、「故障」に使われる通り、やはり“邪魔”や“妨げ”を意味する「障」のほうは構わないのだろうかという気にもなる。前出の記事は、当事者側の見解を次のように伝える。

「『日本発達障害ネットワーク』の山岡修副代表は『「障害者」という言葉に抵抗はある。ただ、変えるなら、新しい言葉を考えるべきだ』と力説する。日本障害者協議会の藤井克徳常務理事も『「しょうがい」という言葉について、国語学者も交えて新しい言葉を考えてほしい』と求めている」(同前)

 「『障害者』という言葉に抵抗はある」という想いを全く理解できないわけではないけれど、何かしら「新しい言葉」を作り出すことによって、どれほどの変革を期待し得るのか? ひとまず字面からはネガティヴなイメージを伴なわない呼称「××××」が広まったとしても、その「××××」が指し示す対象――心身に何かしらの制約を抱える人々――の本質的な“居場所”が確立されない限り、遅かれ早かれその「××××」も言わば新たな差別語と化してしまうのではなかろうか。「障害者」を別の言葉に言い換えようという方向性に対し、僕は当事者の一員としての立場を含めても、今のところ賛同しようとは思わない。
(2009.8.25)