今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

出河雅彦『ルポ 医療事故』、JR西日本福知山線脱線事故──この種の問題のキーワードは、要するに「納得」なのだと考えはじめている

大西 赤人       



 個人的に知人でもある『朝日新聞』編集委員・出河雅彦氏が書いた『ルポ 医療事故』(朝日新聞出版・刊)を読んだ。新書版ながら、約400ページというボリュームを持った本である。著者紹介にも記されている通り、これまで出河氏は、表題となった医療事故をはじめ、薬害エイズ事件、医療制度改革、介護保険制度など、主に医療、介護問題を担当してきており、本書は、年来の取材を総括的にまとめた読み応えのある一冊となっている。出河氏は、「はじめに」で次のように述べる。

「すべては1999年に始まった。
 この年の1月11日、横浜市立大学病院で肺の手術をする患者と心臓の手術をする患者を取り違える事故が起きた。翌2月11日には東京都立広尾病院でリウマチの手術を受けた患者が消毒薬を注入され死亡する事故が起きた。
 その後も次々と大病院での事故が明るみに出た。(略)
 事故を繰り返さないためには原因や背景要員を徹底的に分析し、再発防止のための教訓を引き出す営みが必要だ。そのために社会としてどんな仕組みを新しく整えればよいのか。その答えを見つけるには、これまで実際に起きた医療事故の原因がどのように解明されてきたかを振り返ることが必要ではないかと思う。(略)
 不幸な事件や事故が起きたとき、一部の関係者に制裁を加えて一件落着という風潮がこれまでは強かった。しかし、原因の解明をおろそかにすれば再び同じことが繰り返される。いま必要なのは『検証の文化』を育み、社会に根付かせることではないか。被害者の遺族や事故の当事者の声に耳を傾けることを通じて、そのための具体的な方策を考えてみたい」

 こうして本書は、京大病院、埼玉医大総合医療センター、慈恵医大青戸病院、東京女子医大病院、福島県立大野病院など、近年、日本の医療が激しい非難を浴びるに至った9つの有名病院における医師、看護師らの医療事故を詳細に分析し、加害・被害という図式的な二分化ではない事態の「検証」を試みる。当事者(家族、遺族)の証言やメモにも基づいて跡付けられる事故の推移は、決して読み手の情緒へ訴えかけるあざとさではなく客観的な筆致に終始しているにもかかわらず、真に迫って引き込まれるものだ。そして、本来の医療の目的とは真逆に人の生命を断ってしまうという最悪の結果が、いかに単純なヒューマンエラー(の積み重ね)によって発生するかが伝わってくる。水を加えるべきだった人工呼吸器へのエタノール誤注入、生理食塩水と消毒剤との注射器取り違え、抗がん剤過剰投与、未経験・未熟な医師による手術ミス、手術器具の誤作動……。それらの事例を読み進める限りでは、怒りを覚えるよりも、むしろ“どうしてこんな事が起きてしまうのだろう?”と呆れてしまうくらいである。

 2005年4月25日に発生して107名が亡くなったJR西日本福知山線脱線事故の原因は、未だに確定していない。ただし、少なくとも当該車両が制限速度を大幅に超えた走行状況であったことは記録によって判明したため、当初から運転士(死亡)の何らかの過失が想定・指摘された。しかし、運転歴11ヵ月に過ぎなかった同運転士を心理的に追い込んだJR西日本の体質が次第に明らかになり、同社も強い批判を浴びることとなった。(http://www.asahi-net.or.jp/~HH5Y-SZK/onishi/colum281.htm)

 先頃、この事故を契機に設立されたというJR西日本安全研究所の研究成果が報じられていた。

「『人はミスを犯すもの』。こんな前提に立ったJR西日本安全研究所の研究成果が注目を集めている。研究所は平成17年の福知山線脱線事故を機に3年前、立ち上げられた。信号機の点呼確認はすべて必要か、上司が部下をほめる効果はあるのか。成果は、従来の『事故は気合で防ぐもの』という鉄道界の体質を変え、自衛隊や病院、航空会社など畑違いの分野でも職員教育に取り入れられている。(森本充)
 福知山線脱線事故後、JR西は、ヒューマンエラー(人為的ミス)への取り組み不足の反省から研究所を設立し、体質改善に取り組んだ。(略)
 社内教育向けに作られた冊子だったが、口コミで評判が広まり、建設会社や銀行、医療機関などから問い合わせが殺到。実費(1冊300円)で配布し、現在までの社外配布は4万6千冊にのぼる」(6月30日付『産経新聞』)

 「人はミスを犯すもの」――しばしば言われる言葉である。どれほど緻密なシステムが機械的に構築されていようとも、単純なヒューマンエラー――たとえば数値の入力ミス――一つによって崩壊してしまうことさえ起こり得る。近年、医療現場などでは、事故防止のため「ヒヤリ・ハット」――「重大な災害や事故には至らないものの、直結してもおかしくない一歩手前の事例の発見」(ウィキペディア)――が重視されており、これは、「重傷」以上の労働災害が1件あったら、その背後には、29件の「軽傷」を伴う災害、300件の「ヒヤリ・ハット」が存在しているという「ハインリッヒの法則」に基づくものだ。『ルポ 医療事故』に記された事例の幾つかも、同程度のミスが仮に日常生活の一場面で起きていたのであれば、“あー、やっちゃった”で通り過ぎてしまいそうな些細な出来事が基となっている。急いで料理を作っていて、似た容器に並んでいた塩と砂糖を、あるいは醤油とソースを間違えて鍋に入れてしまったとしても、“何だ、これ? 味、変だぞ”“ゴメン、ゴメン、間違えた”で済むけれど、薬品と身体との間では命にも係わりかねない。

 知人の医師と医療事故に関して話していて、“専門家なのに、どうしてこんなミスをするのでしょうね?”と訊ねると、“どんなに気をつけていても、ヒューマンエラーは必ず起きるよ。医療の現場も例外ではないさ。だから、ミスをするなと個人を責めるだけではなく、万一の際、それが二重三重にチェックされ、フォローされるシステムを作っておかないと意味はないんだ。大西さんは、医療者に対して厳しいけど、作家にはヒューマンエラーはないの?”というふうに言われたことがある。たしかにそれはそうだ。手書きの頃は字を間違えたし、ワープロになってからもタイプ・ミスをしているし、幾ら原稿を丹念に読み直したところで、言葉使いや名前を誤ったまま活字になってしまったことも皆無とは言えない。しかし、ひとまずそれらが人の生死に直接結び付きはしないというだけのことだ。

 当然ながら、医療者たるもの、それだけの責任と矜持《きょうじ》とを持って職務に当たるべきではあろうし、『ルポ 医療事故』で触れられた裁判の判決においても、「医師免許は、人の生命を直接左右する診療行為を行う資格を与えるとともに、それに伴う社会的責務を課するものである」「医師から投与を指示された薬剤を取り違えないことは、いついかなる場合においても、看護婦の患者に対する基本的な義務であり、怠ることの許されない義務である」「医師の専門性の名の下に免責を主張し、医学上の常識などという言葉を多用して責任を免れようとすること自体が、本来の意味での医師の専門的裁量性を脅かし、医師の専門性に対する国民の信頼を深く傷つけるものである」というような厳しい非難がなされている。実際、同書においても、悪質とも感じられるショッキングな事例に比較すれば、「モデルになった事故調査」として事後の対応が肯定的に描かれている幾つかのケースでさえ、“どうしてこの程度の対策が事故の「前」には実現され得なかったのか?”といささか色褪せたものに見える。

 しかし、テレビのバラエティー番組などで医師の肩書きとともにタレントめいて登場する連中に代表される虚栄に似た一種の社会的ステータスは限られたものであり、人材的にも経済的にも医療の現場が深刻な状況に陥りつつある現実は、近年、医療(者)バッシングへの裏返し――言わば異議申し立て――として次第に指摘されるようになってきた(コラムNo.324)。極端な話、プロ野球の試合中に――文字通りの――“エラー”を犯す度に、あるいはサッカーのゲーム中にシュートを失敗する度に誰かしらが傷を負ったり、最悪命をなくしたりするとしたら? それ以上に、場合によってはプレイヤー自身が「業務上過失傷害(致死)」の容疑を受けて逮捕・訴追される可能性があるとしたら? たとえ何億円、何十億円の年俸を保証されるとしてさえ、選手のなり手は激減するのではないだろうか?

 健康を維持・回復しようと試みる医療に対して、人は大きな期待を抱き、その延長線上には、ほとんど限りなく完全無欠に近い成功を願い、信じがちであろう。従って、医療者が全力を尽くして芳しい結果が得られなかった場合でさえ不満を抱きかねないし、ましてそこに何らかのヒューマンエラーが介在したとなれば、眼前の事態を到底許しがたい・受け容れがたいという心境に至る。最近、僕は、この種の問題のキーワードは、要するに「納得」なのだと考えはじめている。「納得」とは、改めて見るとどこか奇妙な言葉である。「承知すること。なるほどと認めること。了解」(『広辞苑』)、「他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること」(『大辞林』)――このような辞書の説明にも、幾許《いくばく》の違和感が漂う。ここには、たとえば“1+1は2である”と論理的に把握することとは異なる色彩があるように思う。つまり、むしろ人の「納得」とは、時と場合によっては“1+1が3”であったり、“1+1が1”であったりすることさえ是とする性質のものではないのか? そしてその裏返しとして、人は“1+1は2”と示されても、「理解」こそすれ「納得」はしがたいことがあるのではないか……?

 医療の世界では、「インフォームド・コンセント」という概念が重要視されている。従来、この用語は「説明と同意(合意)」と訳されてきたけれども、2003年に国立国語研究所外来語委員会は、いみじくも「納得診療」なる言い換えを提案したそうだ。既に社会に一定程度根付いた「インフォームド・コンセント」が「納得診療」に移行するかどうかは疑わしいが、その言い換えの意図はよく判る。ただし、なるほど患者の納得する医療は理念としては結構かもしれないけれど、現実には、「同意」でも「合意」でも「理解」でもなく「納得」を目指す作業とは、途方もなく困難なものと想像される。そもそも、こと医療ばかりではなく、近年の世の中は、「納得」という言葉が大流行り(?)なのである。試しに、ここしばらくの報道を眺めてみよう(個々の内容を論評するためではないので、記事の詳細、ソースは原則的に略す)。

大阪府知事・橋下徹「庁内調査の中間報告について『本当にうっかりミスなのか。うっかりミスが連続するということは納得できない』」
読売新聞・社説「鳩山代表側は、秘書が支持者への寄付の依頼を怠り、それを隠そうとしたと言うが、とても納得できる説明ではない」
妊娠中の女性「出産予定の病院で2週間に1度、妊婦健診を受けるが、その費用に納得できない」
衆議院議員・鳩山邦夫「西川善文日本郵政社長の再任について『(日本郵政には)国民共有の財産が棄損されるような事態がいっぱいあって、納得は全くできない』」
再審が決まった「足利事件」元受刑者・菅家利和「少しは肩の荷が下りた気がするが、捜査の問題点が明らかにならなかったのは納得ができない」
衆議院議員・戸井田徹「地元の兵庫県姫路市内で街頭演説し、麻生首相の対応を『納得できない』と批判した」
歩行者巻き添え死亡事故(横浜市)の被害者遺族「【危険運転致死傷罪の見送りを受け】『検察から納得のいく説明はなかった。普通の事故と変わらない扱いになるのか』と憤った」
伊那市長・小坂樫男「『工事費の検証なしにCルートに納得はできない』と不満感をあらわにした」
食中毒で営業停止処分を受けた居酒屋(さいたま市)経営者「『証拠がないのに処分は納得いかない』と不満を漏らす」
軽乗用車水没死亡事故(鹿沼市)の被害者遺族「成立の見通しだった市と遺族側との和解をめぐり、遺族側が撤回を申し出て、白紙となったことが分かった。取材に対し遺族側は『これまでの話にどうしても納得できなかった』としている」
三菱電機・株主「都内の会場では、株主から『配当減額は納得できない』との声が上がった」
集団暴行死事件(前橋市)の被害者遺族「求刑通りの判決を期待したので納得いかない気持ちが大きい」
十日町市市長・関口芳史「超過取水分だけの賠償では市民は納得しない。過去の清算ができない限り、次へのステップ(水利権の再取得)はない」
出産処置ミス訴訟(名古屋市)被告側・病院理事長「適切に処置、手術したにもかかわらず、裁判所の判断は医療側に極めて過酷。臨床の現場を無視した判断で、納得できない」
八ッ場ダム(長野原町)訴訟の原告「『不要で危険で無駄な公共事業だと立証してきたが、司法は行政の主張を認め、住民の主張を認めない。到底納得できない』と怒りの声を上げた」
岡山駅・突き落とし殺人の被害者遺族「なぜそこまで少年を守らないといけないのか納得できない。世間に少しでも苦しみを知ってもらいたい」
原爆症認定訴訟の原告「『納得できず裁判は続くだろう。再改正を求める運動を進めていく』と話した」
松本サリン事件の被害者遺族「『とにかく真実を知りたかったが、一番の首謀者からは何も聞けなかった』と納得できないままだ」
山梨県営射撃場(甲州市)移転に反対する市民団体代表「『近くで住民が生活している所に造るのは理解できない。また、多額の税金を使うことも納得いかない』と話した」
信濃毎日新聞・社説「『脳死は人の死か』という命にかかわる重い問いを、あまりに乱暴に決めてしまった。とても納得できない」
広島少年院暴行陵虐事件の被害者家族「『謝罪もないまま、教官が逮捕されてしまい、納得できない』と憤った」

 ……これくらいにしておこう。キリがないほど例は見つかるのだ。それらの中には、単純に物事を「理解」するという意味合いで使われている場合もあるけれど、上記を見渡しても、合理的な判断の域を超えた曖昧なニュアンスが――とりわけ、何かしらの被害を蒙った人たちの表明する感情的な鬱憤が――一種ガス抜き的に提示されているように感じられてならない。たしかに裁判などは、必ずしも「1+1」が2に収斂《しゅうれん》とは限らない物事の解決手段なのだから、元より当事者(双方)が完全に「納得」する判決などあり得ないかもしれない。とはいえ、ここまで「納得」が強調されるようになると、“人間、「納得」は出来なくても、あえて「理解」しなければならない時と場合もあるはずなのではなかろうか”と懐疑的に考えさせられるのである。
(2009.7.2)