今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

ミステリとして話題の一冊、湊かなえのデビュー作『告白』は、決定的に“志《こころざし》”の低い作品である

大西 赤人       



 “勝てば官軍”という考え方には与《くみ》しないけれど、そこら中から足を引っ張られながらの朝青龍の優勝は痛快だった。たしかに彼にも欠点や不備は様々多いにせよ、27歳の時期に二場所出場停止という――実質、本場所の“勘”としては半年近くに及ぶ――ブランクを科しておいて、元に戻れと求めるほうが本来は酷だろう。今場所とて、初日の対稀勢の里戦で危機一髪の相撲を凌いでいなかったらどうなっていたかとは思うものの、場所の終盤に到ると、日頃から朝青龍に批判的な北の富士や舞の海が、NHKの解説者としてはいかがなものか(笑)と感じさせるほどの露骨さで白鵬に肩入れしながら話している様子が面白かった。

 また、優勝決定戦を制した後の朝青龍の両手を挙げた“ガッツポーズ”に対しては、翌日の横綱審議委員会において複数の委員から行き過ぎと問題視する声が上がり、「結果は認めたいが、横綱の品格はゼロと言ってほしい」(山田洋次委員)、「今までの横綱でガッツポーズした人なんか一人もいない」(沢村田之介委員)など厳しい意見があったという(26日付『読売オンライン』)。しかし、土俵上で踊りまわったとでもいうのならばともかく、少なくともあのガッツポーズには「風格」はあったと思うし、そんなに「品格、品格」と騒ぐのであれば、サッサとクビにするか、芸術点と技術点を分けて採点するフィギュア・スケートのように、相撲にも勝負点と品格点でも設ければいいではないか。先に土俵を割ったけれど、品格では大きく上回っていた××山の勝ち……さぞや国技にふさわしい充実した相撲になることだろう。

 閑話休題。年の変わり目には、様々なベストテンが発表されるものである。このところ、ミステリとして話題の一冊は、書店でも平台に積まれて目立つ湊かなえのデビュー作『告白』(双葉社)で、既に「発行部数も25万部に達した」(11日付『産経ニュース』)と伝えられている。僕が買った昨年11月頃は、沈んだ色調の装丁と“共地”の帯中央に「愛美は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」というコピーが控えめに置かれ、端っこに「第29回小説推理新人賞受賞」と小さく記されていただけだったのだが、最近の版では、カラフルな活字のキャッチ・コピーが白地の帯全体を派手に埋めている。曰《いわ》く――

「デビュー作にして、堂々のランクイン!
『週刊文春'08年ミステリーベスト10』第1位
『この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー』(TUTAYA)第2位
『ミステリーが読みたい!'09年版』(早川書房)第3位
『このミステリーがすごい!'09年版』(宝島社)第4位」

 本書は、昨年9月にTBSテレビ土曜昼の『王様のブランチ』で(特に優香の絶賛とともに)採り上げられてから一気に売れ行きに勢いがついたらしい。もっとも、僕はその番組を見ていないし、直接には大きな新聞広告を眼にして購買意欲をそそられたのだが、物語の内容に関する予備知識は――帯の文句以外には――全く持っていなかった。

 さて、一読の結果、僕は、この本ひいては作者に対して非常に強い根元的不審を抱いた。本来ならば、とりわけミステリの内容やトリックなどを明記してしまうことはルール違反であろうけれども、そこに触れないまま話を進めることは不可能なので、以降、本書の内容に詳細に――“ネタバレ”的に――言及する旨を前もってお断わりしておく。

 『告白』は、六つの章――第一章『聖職者』、以降、『殉教者』、『慈愛者』、『求道者』、『信奉者』、『伝道者』――によって構成された小説であり、巻末の記載によれば、前半の三編は順に雑誌(『小説推理』)に掲載され、後半の三編は書き下ろされている。そもそも第一章の『聖職者』が、帯に記された「小説推理新人賞」受賞作であり、この部分だけで一つの短編として完結している。そして、第二章以降は、第一章で描かれた出来事が、別の登場人物(たち)の立場・視点から捉え直される。しかし、物語のよって立つ基盤は、あくまでも第一章『聖職者』にある。実際、本書に向けられている感想の少なからぬ部分は、この第一章がもたらす衝撃の大きさを指摘している。ネットから読後感の幾つかを拾ってみるならば……。

「第一章にこの物語のすべてがあるといっていいでしょう」
「第一章の完成度は秀逸なのだ」
「確かにこの告白の第一章は恐ろしい。これだけで十分かもしれない」
「第一章の完成度が群を抜いて高く」
「第一章『聖職者』を読み終えたときは背筋が寒くなるような収縮を憶えた」
「第一章の告白は、わざと段落を少なくした圧倒的な活字の多さで、息が詰まる思い」
「とにかく、第一章が素晴らしい」
「この『聖職者』という第一章だけを読むために本作を買っても損はないような気がします」
「なんと言っても、第一章の先生の『告白』が、強烈な印象を投げかけます」
「冒頭の『第一章 聖職者』から度肝を抜かれました」

 正味50ページ弱である『聖職者』は、全編、S中学校で一年B組を担任してきた三十歳の理科教師・森口悠子が、一学年の終業式当日に生徒たちに向かって語りかける形で進む。今年度のS中学校は「厚生労働省・全国中高生乳製品促進運動」のモデル校に指定されたため、クラス全員が毎日個人名の記入された紙パック入り牛乳200ミリリットルを飲みつづけた話。「世直しやんちゃ先生」と呼ばれ、病を押してテレビなどで活躍している熱血教員・桜宮の話……。とりとめない話題から彼女の“告白”は始まるのだが、これらは実は、第二章以降も含め後々の展開へとつながる重大なポイントである。先に述べておくならば、このような多くの伏線のさりげない張り方はなかなか巧妙だ。後に明かされる要素をも組み込んで大雑把にまとめると、おおよそ悠子の話はこうなる。

“私は今月一杯で教師を辞める。私はシングルマザー――未婚の母だった。結婚式を目前に妊娠が判り、ついでのように婚約者が健康診断を受けたところ、HIV(エイズウイルス)に感染していた。感染していなかった私は結婚を求めたけれど、彼は世間から受ける偏見を危惧して拒んだ。生まれた娘・愛美も陰性で、私は何よりも大事な存在として育ててきた。けれども愛美は、皆も知っている通り、ひと月ほど前に亡くなった。職員会議で遅くなる水曜日だけ、娘を保育所から迎えて学校で遊ばせていたのだが、水が張られたままのプールに落ち、水死してしまった。原因は私の監督不行届であり、警察も事故死と判断した。久々に告別式で会った婚約者はとうとう(エイズを)発病していて、愛美の遺体を抱き締め、自分を責めながら一晩中泣いた。でも、本当は、愛美は事故で死んだのではなく、このクラスの生徒に殺されたのだ”

 そして悠子は、クラスの二人の男子生徒をA(修哉)、B(直樹)と呼んで話を続ける。事故後、たまたま生じた疑念に基づき、彼女は二人を問いただして真相を知った。実は、彼らの取った行動によって、悠子の娘は死に到ったのである。「母親としてはAもBも殺してやりたい思い」だけれども、「教師には子供たちを守る義務」もあると彼女は言う。また、まだ13歳の彼らは、改正された少年法よってさえも刑事罰の対象とはならず、警察に突き出したところで、保護観察処分――事実上の無罪放免になりかねない。そこで、「AとBの処罰を法に委ねたくなかった」悠子は、二人に「命の重さ、大切さを知ってほしい。それを知った上で、自分の犯した罪の重さを知り、それを背負って生きてほしい」と考え、一つの決断を下した。

 悠子は、最近の子どもには亜鉛不足による味覚障害が増えているという一見無関係な話をした後、「AとBの舌はどうなのでしょう? 牛乳、全部飲み干しているようですが、違和感、たとえば鉄臭いなとか、変な味がするなとか、感じませんでしたか?」と問いかけ、それからこう続ける。

「私は二人の牛乳に今朝採取したての血液を混入しました。私の血液ではありません。二人がいい子になるように、そんな願いをこめて世直しやんちゃ先生、桜宮正義先生の爪の垢ならぬ血液をこっそりいただいてきました」
「効果が出ているかすぐにはわかりません。ぜひ二、三ヶ月後、血液検査を受けてみてください。出ていれば、通常五年から十年と言われていますが、そのあいだじっくりと命の重さと大切さを実感してみてください」

 即ち、HIVに感染し、今ではエイズを発病している婚約者とは桜宮のことであり、悠子は彼の血液を紙パック入りの牛乳に密かに混ぜてAとBに飲ませ、二人にHIVを感染させようとしたというのだ。しかも、彼女の復讐は即座に発動するものではなく、潜伏期間が極めて長いというHIVの特質に基づく極めて陰湿かつ粘着的な性格のものとなっている。この結末は、言わば悠子の私的制裁及び復讐であり、人の血液を知らず知らず口にするという生々しさをも含めて、血みどろの殺人描写などとは大きく異なる生理的な恐さを呼び起こし、“牛乳が飲めなくなった”という類《たぐい》の読後感をも引き出している。

 長編『告白』は、その後の各章では、クラスの委員長である女子生徒・美月、直樹の姉・聖美、直樹自身、修哉自身それぞれの一人称から出来事がたどり直され、最終章では悠子の電話の語りというもう一つの結末を迎える。“自分はHIVに感染したのか? 死んでしまうのか?”という直樹と修哉の切迫した想いが中心となって物語は進んで行くわけだが、当然ながら総ては第一章『聖職者』をベースとしているから、「小説推理新人賞」受賞の選考経緯は寡聞にして知らないけれども、教師(成人の被害者)が生徒(未成年の加害者)にエイズ患者である“夫”の血液を飲ませてHIV感染を企図するという部分が、本作のポイントとして衝撃とともに受け止められたことは間違いないだろう。

 だが、この構造に対し、すぐに違和感を持つ人も居ると思う。まず、以前に較べれば発症を予防する薬剤の進歩によって慢性病化しつつあるとはいえ、未だに深刻な疾病《しっぺい》であり、社会的な偏見差別の対象ともなりがちなエイズが、ストーリーにインパクトを与えるための恰好《かっこう》の道具立てとして使われている点だ。作者は、悠子の言葉として、HIV、エイズに関する言及を幾つか挟み込んでいる。

「握手、せきやくしゃみ、入浴やプール、食器の共用、蚊やペット、そういったものから感染することはありません。軽いキスでも感染することはありません」
「確かに性交はHIV感染経路の一つですが、百パーセント感染するわけではありません」
「世間ではHIV感染者に偏見の目が向けられています。たとえ子供が感染していなくても、父親がHIV感染者だと知られたらどのような扱いを受けるのか」

 そもそも、エイズ患者の――紙パック入り牛乳、生徒の味覚障害(?)という伏線を踏まえても自《おの》ずから混入には限界があるはずの微量の――血液を“飲む”ことによってHIVが感染し得るのかとなれば、ほぼ起こり得ない確率であろう。実際、理科教師である悠子は、自分の行為について最終章で次のように述べている。

「私のとった行動では、HIVに感染する確率は極めて低い、ということは最初からわかっていました。しかし、ゼロではない限り、正しい裁きが下されると信じていたのです」

 ここで彼女の言う「正しい裁き」とは、自らの告白により、「一番残酷な判断を下すであろう」クラスの子供たちの間にHIVに感染したかもしれない直樹と修哉を「放り込む」ことと説明される。自らの愛した相手であり、死んだ娘の父親である桜宮がエイズを病んでいるにもかかわらず、その血液を復讐の手段として用いる悠子の心の動きは極めて不自然にも感じられるのだが、そこはひとまず措《お》こう。

 実は、悠子の行動に関しては、第二章において早々と一種の種明かしが行なわれる。教師の告白を聞いて疑いを抱いた化学好きの美月は、二人が飲んだ牛乳パックを回収し、血液の存在を示す試薬を落としてみるのだが、反応は出なかったのだ。しかし、彼女はその事実を誰にも言えず、胸にしまい込む。その経緯は、第六章に到り、悠子が聞いた桜宮――終業式の一ヵ月後、病状が悪化して亡くなっている――の死に際の言葉によって説明される。

「きみを犯罪者にすることだけは阻止しようと思った。終業式の日、きみが俺の血液を採取していることには気付いていた。何かたくらんでいるのだろうと、すぐわかった。学校に行くと、きみが、牛乳パックに血液を混入していた。恐ろしい復讐だと思った。牛乳は、きみが去った後すぐに、新しいものに取りかえた」

 終業式当日朝の桜宮は眠っていたとされているが、大の大人に覚られないように(注射器で?)血液を採ることを試み得るものなのか? 桜宮は、勤め先でもない学校に入り込み、自由に動き回れるものなのか? 不可能ではないとしても、この顛末は、かなり御都合主義的である。短編として書かれた第一章を長編として膨らませるに当たり、とりわけ、血液を牛乳に混入するという行為のショッキングな色彩を“実際には感染の危険は回避されていた”と位置づけることによって薄め、エイズを道具立てに用いている倫理的危うさへの非難を回避しようとしたのではないかとも想像される。しかし、それは結局は上辺だけの手当て――彌縫策《びほうさく》――に過ぎず、“エイズ患者の血液が混入された牛乳を飲んだことによってHIV感染に到る(かもしれない)”とする登場人物を動かす根本の構図は、最初から最後まで揺るがない。

 先にも述べたごとく、エイズは薬剤の進歩によって、少なくとも先進国においては相当程度コントロールが可能になり、以前のような死に直結する病気ではなくなった。もちろん、依然として完治することはなく、その感染拡大の防止や早期発見(早期治療)を目指した施策、啓発は盛んに続けられている。ところが、『告白』の中での直樹と修哉は――修哉などはインターネットを自在に使いこなす少年と描かれているにもかかわらず――リアルタイムの情報に触れる機会が全くないまま、昔ながらの“HIV感染=近い将来における死の確定”という図式にひたすら則って考えつづける。特に直樹は、家族への二次感染を恐怖するがゆえに自分の部屋にひきこもりがちに変わり、食事、洗濯、入浴にも異常に気を使うようになる。そして、ついには、息子が殺人に関わったことを知って悲観した母親に心中を迫られ、逆に彼女を殺害してしまう。要するに、仮に彼らが少しでもエイズの現在を調べて実情を知ってしまっては、物語の図式が崩れ、そのインパクトが弱まるのである。

 小説でも映画でもテレビでも、ことフィクションであれば、作者は、つまるところ自分の都合で登場人物を動かし、生かしも殺しもする。それは、かく言う僕も同じである。従って、病気にもさせる。都合よく難病にかからせたり、交通事故に遭わせたりして物語の舞台から消してしまったりもする。けれども、曲がりなりにも何ものかを表現しようとするならば、そこに一定の“志《こころざし》”があって然るべきであろう。『告白』の場合、そこが決定的に怪しい。“どうせミステリなんだから、堅い事は言いっこなしでしょ”と見る向きもあるかもしれないが、それはミステリに対して失礼というものだろう。しかも、『告白』は、シングルマザー、HIV、少年法、味覚障害、いじめ、ひきこもりというような現代的キーワードを巧みにちりばめながら、むしろ社会的な切り口によって描かれた作品なのだ。“エイズ患者の血液=死への凶器”という基本プロットを立て、登場人物に終始それを追認させ、そのイメージを作者として最後まで否定せず、かえって増幅させつづけることによって読者にも恐怖を与えるという仕組みの『告白』は、僕にとっては決定的に“志”の低い作品と感じられ、この本が高い評価を得ている状況に対しては、ここに強く異議を唱えておきたいと考えるのである。
(2009.1.26)