今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

太田農水相の件が霞んでしまう「失言」を連発した、麻生新内閣の中山国交相

大西 赤人       



 前回、僕は、いわゆる「事故米」「汚染米」に関連した“(国内は心配ないが)消費者、国民がやかましいから徹底する”“(人体に影響はないので)あんまりじたばた騒いでいない”などの発言が顰蹙《ひんしゅく》を買って農林水産大臣を辞任するに至った太田誠一のことを「日本語の不自由な大臣」とあえて非礼に表現した。でも、これは実のところ、必ずしも全的侮蔑ではなかった。友人などとの間では、“別に鬼の首獲ったように叩く事でもないだろう”と話していたのである。もちろん、いかに転んでも賞賛に値する物言いではないとはいえ、たとえば人が“ウチの親父がやかましくてさあ”などと口にする時には身内らしい幾分の気安さが含まれたりもするし、「じたばた」が一文字違いの「どたばた」や「ばたばた」だったら、ここまで非難を浴びることはなかったかもしれない。正式な答弁・作文ならばともかく、テレビ番組でのコメントだったわけだし、要するに大臣なんて言葉を操る専門家とは言いがたいのだから、それこそ口が滑ったという種類のこの手の「失言」を理由に詰め腹を切らせずともよかろう――それよりはむしろ、行政を司《つかさど》る者としての責務を全うさせるべきだろう――という気がしたのだ。

 ところが、その太田農水相の件が霞んでしまう「失言」を連発したのは、麻生太郎新内閣における中山成彬国土交通大臣。

「【成田空港反対闘争に関して】『ごね得』というか、戦後教育が悪かったと思うが、公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった」
「【外国人観光客の誘致策に関して】外国人を好まないというか、望まないというか、日本はずいぶん内向きな、『単一民族』といいますか、世界とのあれがないものだから内向きになりがち」

「【教育問題に関して】ついでに言えば、大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ。日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ」(9月26日付『アサヒ・コム』)

 第二次小泉内閣時代には文部科学大臣を務めた中山とはいえ、この時期、所管外の事柄についてこれほどまで気勢を上げた真意については色々な臆測が飛び交った。ともあれ、当初は「自分の出処進退は自分で決める。今晩、女房(中山恭子首相補佐官)と2人でゆっくり相談する」(27日付『産経ニュース』)なる少々自家撞着したコメントを発したりもしつつ、就任僅か五日にして、たちまち辞任。大臣在任期間の短さでは、竹下内閣において四日で辞めた長谷川峻法務大臣に次いで惜しくも歴代二位に甘んじたが(笑)、その余波で議員生活にも今期限りで終止符を打つことになったようだ。しかし、曲がりなりにも東大を出て、大蔵省での(多分)錚々たる官僚経験があり、議員として二十年以上を過ごし、別に初めて大臣の椅子に坐って舞い上がったというわけでもなかっただろう政治家の発言を捕まえて「失言」と表すること自体、極めて不適当と思う。第一、「失言」といえば、「言うべきではないことを、うっかり言ってしまうこと」(『大辞泉』)とか「不都合なこと、まちがったことなどをうっかり言ってしまうこと」(『大辞林』)であり、これは、太田についてはまだしも、中山の場合には世間的にも「確信犯」という表現が多く見られたように全く相応《ふさわ》しくない。

 中山は、「ごね得」については「言葉足らずというか言いすぎた点を含めて撤回する」(同前『産経ニュース』)、「単一民族」についても「誤解を招くと思い撤回した」(同前)などとして謝罪。しかし、大分県教委への直接の言及こそ撤回したものの、日教組自体に対しては同組合の抗議も受け付けず、かえって「撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」(27日付『時事通信』)、「私が全国学力テストを提唱したのも、日教組の強いところは学力が低いと思ったからだ。だから学力テストを実施する役目は終わったと思う」(28日付『読売新聞』社説)とまで言い募っていたのだから、これは(善くも悪しくも)政治家としての“信念”と見なすべきであり、これを“すいません、口が滑っちゃいました”的な「失言」と一緒くたに騒ぎ立てて「辞任」という一種の口封じをもって幕引きとすることは、むしろ問題の本質を曖昧にしてしまう。実際、中山はテレビ番組において、「言葉には気をつけなければいけないが、言葉狩りばかりしていると政治が活性化しない」「私の命がけの行動は国民の皆さん方の理解を頂けるんじゃないかな。命を捨てて訴える、そういう自民党なんだ、と」(29日付『アサヒ・コム』)と逆に胸を張っていたようだ。

 中山の暴走(?)には、与党でさえ――現世的利害が強く先行しているにせよ――眉を顰《ひそ》め、ましてや野党、あるいはメディアの大半は極めて批判的だったけれども、ネットの世界では“正論だ”“撤回する必要はない”等々の擁護論が決して少なくない。先に引いた『読売』社説にしても、「単一民族」に限っては「事実誤認」と明記しつつ、それ以外については必ずしも誤りとはせず、「節度を欠いた発言」「矩《のり》をこえた発言」「一般的に、中山氏の言うような『風潮』は、なくはないだろう」「不適切な発言」「的を射ている点もあるとしても、教育にかかわる問題は、国交相の所管外のこと」「軽率のそしりを免れない」という具合に微妙な表現を重ねている)。

 これまでにも、僕が本欄で政治家のいわゆる「失言」を採り上げたことは何度もあるが(column77.htmcolum144.htmcolum334.htm)、攻撃を避けて口先だけ、上辺だけは綺麗事を並べながら裏では陰湿に何らか工作を進められるくらいなら、あからさまに内心を吐露されるほうが――皮肉ではなく――マシだと思う。そして、たとえば本当に日教組が「日本の教育のガン」なのかどうかを国民全体で検討し、当否の判断を形作って行けばよろしい。そうでないと、“正論ではあったけれど、TPO的にまずかったので圧殺された”というような言説ばかりが燻《くすぶ》り、堆積《たいせき》してしまう。ただし、一方では、休日に支持政党の機関紙(共産党『しんぶん赤旗』号外)を配った一公務員(元・厚生労働省課長補佐)の行為さえもが「公務員の政治的中立性に強く抵触」し「自由に放任すれば行政の中立的運営に対する国民の信頼が損なわれる」(9月19日付『毎日新聞』)性質として有罪とされているのだから、いわんや大臣たる者が仮に偏向した認識――「政治的中立性」とは、そもそもその認識の当否に関わりないとも言えそうであり――に基づいて全国規模の学力テストを実施したなどという因果関係が自ら述べた通りに事実であるとすれば、単なる「失言」どころではなく、職権濫用にも当たる所業として厳重に断罪されるべきであろう。
(2008.10.5)