今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

北京五輪「星野JAPAN」の完敗──書店のポップから生まれたベストセラー矢口敦子の『償い』──まずまず面白く読めた五十嵐貴久の『誘拐』

大西 赤人       



 北京五輪・野球決勝トーナメントにおける「星野JAPAN」の完敗を見て、前回のコラムを予選リーグの段階で書いておいて本当に良かったと思った。心身両面にわたって何人もの選手に大きな傷を負わせた星野監督は、“全責任は自分にある”と見えを切る口の下から“ほかの世界で野球をしているような……”“ストライクゾーンが……”“審判が……”と不平を並べた。これには、ロサンゼルス大会(公開競技)で優勝した日本代表監督・松永怜一が「初戦のキューバ戦で星野監督が審判に猛抗議したシーン。国際大会に慣れている者には、考えられない行動だった。審判団は試合後に反省ミーティングを開く。『日本はいったいなんなんだ!!』となったのは必至で、ストライクゾーンなど日本へのジャッジが最後まで辛めだったことは、決して偶然ではないだろう」(『8月24日付『サンスポ・コム』)、社会人野球を統括する日本野球連盟の松田昌士会長も「どこも同じ条件。言い訳をしてもらいたくない。負けてもひきょうな日本人になっては困る」(8月28日付『スポニチ・アネックス』)という具合に苦言を呈する始末。

 本職は遊撃手の選手を三人も四人も並べた内野メンバー、“出たいのか! 出たくないのか!”と気合ばかりで引っ張って故障を悪化させた病み上がり組の招集、本来9回1イニングを抑えさせるべき藤川や岩瀬の中途半端な起用など、素人目にも首を傾げる部分が多かったとはいえ、特に韓国やキューバのパワーに溢れた打撃を見れば、短期決戦での力負けは明らかだった。帰国後の記者会見でも「バッターがストライクゾーンに対して、不信感というのか、怖さを感じたと思う」(8月24日付『産経新聞』)と述べた星野の後で、宮本主将はほとんど監督に喧嘩を売っているかにさえ見える以下のコメント。
「−−アテネと北京を比較してストライクゾーンに違いは
 宮本『そんなに感じていない』」(同前)
 アハハハ……(もっとも、投手の上原や和田は、監督の見解に賛同していたようだが)。

 中継のアナウンサーや解説者も星野に倣《なら》うかのごとく異口同音に「気持ち」「気持ち」を連発していたけれども、五分五分ならば「気持ち」で勝てるはずだし、四分六分でも「気持ち」で互角の勝負になるだろう。しかし、それ以上のカバーを期待することは、昔ながらの“神風”頼みか“特攻精神”でしかない。前回も触れた選手たちの「丸刈り」は象徴的だ。

「高校時代には丸刈りを“強制”され、抵抗感がある選手もいるはずだ。それでも1次リーグで2敗を喫し、必死の思いがプロのスター選手たちを丸刈りにさせた。
 髪を切って勝てるわけではないが、星野監督は言う。『勝負で、一番大事なのは気持ちや』」(8月20日付『読売新聞』)

 ちなみにこの記事は「野球の5人、丸刈り青々…似合う?似合わない」と題されており、ダルビッシュ、田中、阿部、川崎とともに――その後のゲームで信じがたい三つの失策を左翼手として演じることになる――GG佐藤も、既にこの時点で「丸刈り」になっていたらしい。そうだとすれば、何とも皮肉な結果……。

 上位三ヵ国には大会を通じて五戦全敗という惨憺たる結果に終った日本チーム――とりわけ指揮官に向けられた非難・批判は、世間的にもかまびすしい限りである。これまで星野に対して密かに苦虫を噛み潰す想いだった人たちの憤懣が、ここぞとばかり噴出している状況には違いないにせよ、“水に落ちた犬は叩け”という言葉もあるように、終ってからの悪口ならば、何のリスクもなく幾らでも並べられる(ウェブ上において不特定多数が書き込みながら作り上げる百科事典「ウィキペディア」では、準決勝戦後、岩瀬仁紀に関して、削除されるまでしばらくの間「北京五輪で一人で3敗し、2008年8月22日にその責任を取って自殺した」と記述されていて唖然とさせられた)。そもそも僕には、金メダルを獲得することが出来なかった“から”という理由で「星野JAPAN」――正確には星野仙一個人――を貶《おとし》める気持ちは少しもない。また、これによって、短絡的に日本(プロ)野球の全体的レベルが韓国のそれよりも下になったなどとも思わない(準決勝の日韓戦後、両チームが並んで次々に握手をして行く際、憮然たる表情を浮かべる敗軍の将・星野をあくまでも先人と遇し、韓国の選手や首脳陣が帽子を取って礼を尽くしていた光景は印象的だった)。

 オリンピックはスポーツの一究極形であり、たしかに娯楽として最高級に面白い。選手たちの頑張りを見て、思わず知らず感動させられることもある。しかし、あえて、あえて言えば、ただそれだけの事だ。日本人選手が金メダルだろうと銀メダルだろうとあるいは予選落ちだろうと、我々の生活に何らの本質的影響もない。もしもこれが、「星野JAPAN」の活躍次第でたとえば今後の消費税率が決まるとかガソリンの値段が変わるとか新型インフルエンザへの特効薬が出来るとか(!?)というのであれば、ヘソ曲がりの僕とても、眼の色を変えて応援もするだろう。しかし、そんな事はあるはずもない。日本人選手にとどまらず、ボルトが陸上100mで9秒7の壁を切ったところで、イシンバエワが棒高跳びで世界記録を1センチ更新(5m5cm)したところで、我々に――ひいては人類に――とっての何かしらの寄与をもたらすだろうか? グルジア問題が少しでも好転するのか? 地球温暖化に幾らかでも歯止めがかかるのか? 何もない。

 つまりは、裏返せば彼らは、あくまでも「自分自身のために」競技を行なっているし、行なうべきなのであり、それが仮に「国民のために」「国家の名誉のために」と追い込まれるとしたら――そういう例は現実に存在するであろうけれども――実は極めて不幸な歪んだ事態と言わなければならない。従って、星野や宮本をはじめ、こと野球に限らず、不本意な成績に終った選手たちが口にする「申しわけない」という言葉は、心境は判るとはいえ全く筋違いである。もしもこのような謝罪を我々が受け容れるとしたら、逆に彼らが金メダルを獲得した時には、日本人は彼らに平伏して感謝しなければならないことになる。何と馬鹿馬鹿しい。世界的にはむしろマイナーな野球という競技において日本が優勝したところで、“日本はスゴい国だ”と評価を高める人々が世界にどれほど居るだろう? 大体、金メダルを一杯手にした国が偉いのならば、少なくとも今大会の結果を踏まえ、当面、日本は中国に全く頭が上がらないことになってしまう。でも、そんなふうに納得する日本人は決して多くあるまい。そして、他の国と日本との関係で言えば、逆もまた然りだ。

 ともあれ、オリンピックが終ったばかりで、星野采配を含めての総括もあったのかなかったのかという現在、早くも世論は、来春に予定されている第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チーム監督人事を巡って喧々囂々《けんけんごうごう》。さすがの星野オーラも色褪せたものと思っていたら、読売ジャイアンツ・渡辺恒雄会長の“(星野以上の人材が)他に居るか”という早々の擁護発言もあり、その就任の目は決して小さくないようだ。星野自身は自らの公式サイトで「監督としてのわたしを知ってくれていれば人選、組閣、起用、采配に関しての基本的な考えは多少はわかってくれるのではないかと思っているんだけれど、結果しだいですべてが批判の対象になる。テレビではまた多少話はしたけど、これ以上いろんな批判や疑問に答えれば答えるほど、どうしてもいい訳になりかねないので本当のところはもう話も控えるようにしたいと、思っているんだが」「敗軍の将にもいっ時、気休めの時間をもらいたいけど、それもいかんか?」(8月28日)と煮えきらない釈明(?)を連ねた一方、「そしてひとこと、みなさんにはいっておきたい。『星野はこれまで通り、なんにも変っていませんよ』と」(8月29日)と宣言している。まかり間違えば、“北京のリベンジ”などと一層の精神論的盛り上がりでWBCを迎え、自ら「星野ジャパン」を商標登録している御本人の懐をも一層潤わせかねないのかと想うと、考えるだけでも全くもって疎《うと》ましい。


 連続したスポーツ絡みの話はこの辺で終え、日々の雑用にかまけて読書量が減り恥ずかしい限りながら、最近読んだ本の話を久しぶりに書きたい。

 最近のベストセラーは、それまで地味な存在だったのに、書店員の手作りポップをキッカケとして人気沸騰するというケースが少なくない。

「未曾有の不況にあえぐ出版業界。そんな中、販売の最前線に立つ書店員がベストセラー誕生のきっかけをつくる例がここ数年、目立っている。書店員の投票で選ばれる『本屋大賞』の成功をはじめ、書籍販売における彼らの力は増すばかりだ(宮川まどか)」(7月8日付『中日新聞ウェブ)

『白い犬とワルツを』『世界の中心で、愛をさけぶ』『B型自分の説明書』……。ネット社会、デジタル社会の今日《こんにち》、“カリスマ書店員”とまで呼ばれる彼らの実にアナログ的な手書きポップがブームを作り出すというのは面白いし、個々の本に潜在する力がなければ起こり得ない出来事のはず――絶賛ポップがくっつきさえすれば売れるというわけではない――とは思うものの、この圧倒的な“拡大”にはどこかしら不気味さも感じる。

 さて、『償い』(矢口敦子・幻冬舎文庫)もまた、そんなポップによって生まれたというベストセラーの一冊。単行本は7年前、文庫初版も5年前の発売だったのに、昨年から今年にかけて一気に売れはじめた。

「『ごめんなさい! 今までこんな面白いミステリを紹介していなくて』『こんなにも悲しくてでも温かいミステリに出会えて本当に良かった』。昨年9月末、新宿の2軒の書店にそれぞれ掲げられた手書きのPOPが火付け役となり、4年以上重版のかからなかった作品が、幅広い読者層を獲得、今や30万部に届く勢いのベストセラーに(瀧井朝世)」(3月30日付『アサヒ・コム』)

 その後も人気は衰えず、直近の広告によれば65万部を突破したそうだ。これまで、この人の作品を読んだとこはなかったのだが、「胸に迫る感動」「息を呑むどんでん返し」なる帯の惹句《じゃっく》(とりわけ後者)にも惹かれて手にしてみた。

 主人公は36歳のホームレス・日高英介。過去には立身出世を求め家庭を顧みない医師だったが、白い巨塔に裏切られ、また、不幸な経緯から妻子をも喪ってしまい、世捨て人となっている。そんな彼は、十三年前、当時二歳だった一人の男の子の命を救ったことがあり、それを自らの「たったひとつの善行」と誇りにしてきた。日高は、あてのない日々を過ごすうちに、少年を助けた東京のベッド・タウン――埼玉県光市に辿《たど》り着き、そこで社会的弱者ばかりが犠牲者となる幾つかの事件に遭遇。それらに何かしら関わりを持つ中学三年生・草薙真人を知る。少年は、日高が救った男の子の成長した姿だった。「僕って、天才なんです」とサラリと言ってのける彼に対して、日高は恐ろしい疑念を抱きはじめる……。

 幾ら元医師とはいえ今はホームレスの日高に捜査状況を易々と語って協力を求める警察署長や刑事の不自然、街を歩く日高が関係者の誰彼と頻繁に出くわす都合よさあたりは我慢するとして、僕は、全編のモティーフとなる主人公のレトロスペクティヴ(後ろ向き)な自問――「十三年前、私はとんでもない過ちを犯したのだろうか。善だと信じた行為が、悪への加担だったのだろうか。ひとつの命を生かして、いくつもの命を奪う結果となったのだろうか。十三年前、私は、真人を救うべきではなかったのだろうか」――に共感する部分を見出せず、「胸に迫る感動」を覚えることはなかった。二歳の子供を死から救い、その子が成長して犯罪者となったからといって、過去の行為自体が「救うべきではなかった」と変質するはずなどない。もちろん、作中人物の心情として悩むことはあり得るとしても、それを読み手までもが考えるべき重大な命題のごとく作者から提示されては、正直言って興醒めである。それならば、手を触れただけで相手の未来を知ってしまうがゆえにプロスペクティヴ(前向き)に苦悩する男を描いた映画『デッドゾーン』あたりのほうが遥かに切実だ。

 もう一冊は、少なくとも今のところポップとは関係ないようながら、「超絶のドンデン返し」「超驚の警察小説」という帯に惹かれた『誘拐』(五十嵐貴久・双葉社)。この人の作品は、パスティーシュ集『シャーロック・ホームズと賢者の石』(光文社)が結構面白かったのだが、長編を読むのは初めてだった。犯罪の中でも誘拐は実に卑劣な部類に属するけれども、映画や小説の素材としてならば魅力的である。実は僕自身、誘拐をテーマとした小説を少しずつ書き進めているもので、ストレートな題名を眼にしては、『これは読んでみなければ』と思った次第。

 冒頭、組織再編に揺れる旅行代理店の人事部に勤める秋月孝介は、上司から命じられてリストラを告げた同僚社員が、将来を悲観して一家心中を図ったとの知らせを聞く。夫婦は死に、中学生の娘は生き残ったものの、重体となった。その子と友人だった孝介の娘は父の仕事を非情と詰《なじ》り、マンションの部屋から発作的に飛び降りて命を落とす。失意の孝介は妻と別れ、会社も辞めてしまう……。数ヵ月後、歴史的な日韓友好条約締結のために韓国大統領が来日するという厳戒態勢の中、(安倍晋三を想起させるような)強硬な政治姿勢を貫いてきた佐山首相の孫娘が誘拐される。身代金三十億円と条約締結中止の要求が届き、政府や警察は北朝鮮の妨害工作と確信するけれども、実はこれは、秋月と彼の部下だった女性社員とが長い時間をかけて立案・準備・実行した周到なプランだった……(ストーリーは、犯行者の正体を明示した倒叙形式で進む)。

 警察小説や政治小説を思わせるような細部の描写が重ねられ、弱者を虐《しいた》げる現代の日本社会のあり方を強く批判している社会派作品のように装われているけれども、その構造自身が「ドンデン返し」を成立させる大きな道具立てなので、必ずしも本筋とは関わりない描写が多い。秋月たちの完全犯罪計画は――予想通り――最後に露見するが、そのキッカケとなる失策はあまりにもお粗末であり、それまでの緻密さとは大きくかけ離れている(僕は、その失策には裏の意味があるのかと該当箇所を読み直したほどだが、何もなかったようだ)。ネット上での感想によれば、「ドンデン返し」については途中で見抜いたという人もあるものの、僕は最後まで見当がつかなかったので『なるほど、そういうことだったのか』と思わされた。

 ただし、誘拐計画が実行に移されたあたりで二つほどひどく引っかかる描写があり、その疑問が解消されないまま話が進んで行くので、『これは作者の大きなミスないし錯覚なのではないか』とさえ感じていたところ、「ドンデン返し」に到って、それらが意図的なもの――言い換えれば、書き手として避けがたい欠落――であったことが判った。つまりは、これらの疑問をもっと突き詰めていれば真相に到達し得たということにもなるだろうか。読み終って、爽快にだまされたというよりは、作者は読者が気づかないことを消極的に期待したのかなとの印象が残り、ミステリとしてはやや弱点かもしれない。それでも、まずまず面白く読むことの出来る一冊だったと思う。
(2008.9.1)