今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

野茂英雄の引退とポケベル

大西 赤人       



 とうとう野茂英雄が引退した。これまで彼については本欄でも何度か触れたことがあり、最も近く(colum361.htm)は、今年復帰したロイヤルズから自由契約となった後、「率直に言って痛々しく、“潮時”との印象を否みがたい」と記した。野茂自身も、今回の引退発表に当たって「現役続行への未練はないか」との問いに「自分の中ではやりたいが、プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う」(18日付『スポニチアネックス』)と答えていた通り、一部で囁かれていた日本球界への復帰説を消し去った選択。「引退する時に悔いのない人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」(同前)という当人の想いはむべなるかなにせよ、客観的には、妥当な決断であったと感じる。

 「太く、そして長かった野球人生」(同前)と評された日米通算19年間に渡る現役生活。しかし、改めて振り返れば、日本(近鉄バッファローズ)での実働は僅か5年、大リーグでも、本来の姿には遠かった2004年(4勝11敗、防御率8.25)、2005年(5勝8敗、防御率7.24)、それ以降(勝敗なし)を仮に除けば、35歳だった2003年までの実働は9年に過ぎない。日本人大リーガーとしての圧倒的な貢献、二度のノーヒット・ノーランなどの実績は今更並べ立てるまでもないけれど、あの力で押す豪快なピッチングは、それゆえにこそ、年輪を重ねた緻密な技巧派への転進をついに許容し得なかったというところだろうか。

 野茂が大リーグに第一歩を記した1995年を想い起こすと実際の年月以上に隔世の感があるけれども、当時、僕はパソコンも携帯電話も持っておらず、従って、当然ながらインターネットという存在とも縁がなかった。また、テレビといえば当たり前の地上波だけで、野茂の投げる試合の中継(衛星放送)を見ることも不可能だった。一方、ちょうどその頃、僕の住む地域(東京都小金井市)ではケーブルテレビの設備工事が進められており、地上波の空いているチャンネルではデモンストレーション放送が行なわれていた。テレビ画面が縦横四つずつに16分割され、その一つ一つに異なる番組が映っており、要するに“ケーブルテレビに加入すれば、こんなに色々な番組が見られますよ”と宣伝・勧誘していたのである。そしてその一角にNHK衛星も組み込まれていたもので、いつしか僕は、野茂の中継も映っていることに気がついた。何せ、平凡な21型テレビ画面の16分の1だから、現在ならば携帯電話のディスプレイ程度の大きさに過ぎず、しかも画質は遥かに劣っているので、点数やボール・カウントの細かい表示などはロクに見えない。それでも、大よそのプレーは判るし、インターネットもない中では、リアルタイムの情報は非常に貴重だった。まあ、すぐにケーブルテレビに加入すれば話は簡単だったわけだが、そこまでのモティベーションはまだなかったので、野茂が投げる日は、その小さな画面に眼を凝らしながら一喜一憂することになった。

 さて、ここで話に加わってくる人物が、地元の知人・Mさんである。彼もむしろ僕以上の野茂ファンだったから、ゲームの様子が気になって仕方ないものの、家に居ることが多い当方とは違って、あちらは会社へ行かなければならない。当初の野茂の所属は西地区のロサンゼルス・ドジャースであり、時差の関係で試合開始は日本時間の午前11時くらいが多く、必然的にMさんが出社した後になる。ところが、Mさんは、僕が――例の16分の1の画面で――中継を見ていることを知っていたもので、野茂の登板日には、途中経過を知るために電話をかけてくるようになった。“今、どうなってる?”“6回表で2対1、勝ち投手の権利は得たよ”“おぉ、リリーフがどうかだな”――そんなやり取りを交わす。ただ、とりわけ接戦ともなれば、向こうも仕事中に何度もの電話は厄介だし、こちらもその度に応答するのは少々面倒。そこで僕は一計を案じた。もちろん、今ならばメールを打てば済むことであり、これまた時代を感じさせる話なのだが、仕事柄、Mさんは携帯電話とともに「ポケベル」――ポケットベルも持っていたため、そこに情報を送ってあげることにしたのである(数字の語呂合わせで意味を含ませるポケベルの使い方が一時期大流行したが、言ってみれば、その応用)。

 なるべく簡潔にするため文面は数字を並べるだけ、イニング、ドジャースの点数、ゼロ(“対”の代わり)、相手チームの点数の順にすることを前もって決めておいた。即ち「3200」なら「3回、ドジャース2対0で優勢」、「6204」なら「6回、ドジャース2対4と劣勢」という具合だ。電話のやり取りよりは双方手間が省けるし、新しいメッセージがなければイニングが進んでいるだけで状況(点数)は変わっていないということになる。Mさんも喜んでくれて、しばらくそんな調子が続くうち、ある時、僕は失敗をやらかした。ポケットベルは相手の番号をプッシュして情報を送るわけだが、たまたまMさんの番号を打ち損なったのである。しかも、誤った番号が実在していたようで、僕の打った「3402」だったか「5202」だったか、ともかくそんな具合のメッセージは、見も知らない相手にそのまま届いてしまったのだ。先方の誰かさんは、突然に舞い込んだ奇妙な4ケタの数字を見て、さぞや不思議に思ったことだろう。もしかしたら何らかの謀略に巻き込まれたのかと頭を悩ましたかもしれない……(そこまではないか)。今やスッカリ昔話となった他愛ない出来事である。
(2008.7.29)