今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

鳩山法相を「死に神」と揶揄した朝日新聞「素粒子」の軽佻浮薄と、犯罪被害者・遺族の抗議

大西 赤人       



 世界で二番目に古い法典――ハンムラビ法典(紀元前18世紀頃)の中に存在したという「目には目を、歯には歯を」なる言葉は大変有名だが、一般には、“やられたらやりかえせ”的な復讐の概念は古来から正当・当然なものだったとして位置づける目的で引かれることも多い。しかし、この一節の意味するところは、むしろ行き過ぎた報復の禁止との解釈が本来のようだ。つまり、10の被害に対しては同等の10の懲罰を与える――15や20の仕返しは行なわない――ということであり、もっと言えば、その趣旨に則る限り、10の懲罰自体も必須絶対ではなく、どんなに厳しくとも最大限10の範囲に留めるという抑制された意思のように感じられる。

 人間にとって死刑制度の是非は長らく続く大きな問題であり、国際的には――とりわけいわゆる先進国、民主主義国においては一層――廃止への流れが拡大しているけれども、我が国では、未だに存続を望む人々のほうが多数と伝えられる(五年ごとに行なわれている内閣府世論調査の2004年度の数字によると、設問の問題点には眼をつぶれば、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた者は6.0%、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者は81.4%であり、前者の減少傾向、後者の増加傾向が続いている)。メディアによってもたらされる凶悪犯罪(増加)の印象、被害者感情の強調が加わり、当面、極刑をも避けるべからずとの大勢に変動はありそうにない。

 日本では、明2009年夏からの裁判員制度実施が決まっているけれども、米国、英国などにおける「陪審制」とは異なり、裁判員は有罪無罪の判断に加え、量刑をも決定する。これはイタリアやドイツなどで行なわれている「参審制」に似ているが、参審員が(審査を経て任命される)任期制であるこれらの国とは違い、日本における裁判員は事件ごとに選任される。実際、最高裁判所のホームページには、「裁判員制度は、参審制・陪審制のいずれとも異なる日本独自の制度だと言うことができます」と述べられている。

 もちろん、法律の非専門家の判断であっても専門家のそれを凌駕する傍目《おかめ》八目となる場合もなくはないだろうし、とりわけ死刑を選択するに当たっては、心理的に躊躇することも想定されるから、現状以上に極刑が増えるとは限るまい。しかし、既に次のような報道も現われている。
「年内に導入される犯罪被害者や遺族が裁判に参加する『被害者参加制度』が、来年5月開始の裁判員裁判にどのような影響を与えるかを検証する模擬裁判が4日までの2日間、東京地裁で開かれた。裁判員役の市民たちは遺族の処罰感情を重くみたり、被告に一方的に不利にならないよう冷静に受け止めたり、量刑のバランスに苦慮する様子がうかがえた」(5日付『日経ネット』)

 この模擬裁判の場合は「飲酒運転して車線をはみ出した車が対向車と正面衝突、相手男性を死亡させた危険運転致死事件」(同前)というので死刑という量刑はあり得ないものの、より重罪と目される事例においては、先に述べた近年の傾向にも基づき、裁判員の心情が裁判官以上に被害者側に寄り添う結果となることは、容易に想像される。そして、当然ながら裁判員には、死刑判決をも下す可能性が生じるわけだが、要するにこれは、ごく一般的な――あえて言えば法律的には素人の――国民が、無作為の選定によって義務と権限を付与され、間接的ながらも他の国民の生命を奪うことの合法化である。しかも、仮に個人としては死刑制度に反対の裁判員であろうとも、法を遵守《じゅんしゅ》しようとするならば、人の命を奪うことへの同調――荷担を選択せざるを得ない。極めて苛酷な行為と考えられるが、司法制度改革という美名のもと、このような責務を一般国民が負わされることは実におかしい。

 とはいえ、冒頭の「目には目を、歯には歯を」が単純な厳罰主義でないとしてさえ、人の命を奪った者に対しては、同等の死をもって処するという考え方はあり得るわけで、実際、“他人の命を奪うという最大の罪を犯した者には、自らの命をもって償わせることが当たり前”と見做《みな》す向きは少なくない。たしかに、極端な話、発作的な犯行も計画的な犯行も区別なく、故意犯と過失犯とにも差を設けず、情状酌量の余地(正当防衛の成否)や反省の程度も無視し、引いては責任能力の有無さえ切り捨てて“人を殺したら(死なせたら)死刑”と言わば一種オートマティックな断罪を行なうことが出来れば、ある意味話は簡単だろう。しかし、現実には、被害者の生命に別状がなかったというだけで、実質は殺人よりも遥かに非道な所業という場合も見られるし、直接に手を下さずとも間接的に人を死へと追い詰めるような事例もしばしばある。

 つい先日のエビ養殖にまつわる巨額詐欺事件のニュースを見ていても、事は金銭の問題ながら、ニュース番組に出ていた一人の投資会員は、“(容疑者を)殺してやりたい”と明言していた。被害者の感情に重きを置けば一面むべなるかなとはいえ、仮にこのような復讐心の実行をよしとしていたら、人間社会としての秩序は崩壊してしまう。結局、割り切れない不均衡が出るとしても、いかんせん犯行の程度、経緯や状況を様々な角度から評価し、加害者の動機や精神状態をも斟酌《しんしゃく》して量刑を決めなければならない。ところが、そもそも刑罰の目的として応報刑の側面と教育刑の側面とが並んで存在することは自明ながら、死刑に限れば、基本的に社会復帰の可能性を持たない罪びとに教育刑としての効力をもたらすことは不可能だ。これは、殺人が人間社会における最も重い罪と位置づけられているからこそ厳罰をもって当たるとされ、しかしその刑罰は、形としては犯した罪と同じく人の生命を奪うことになるという絶対的な矛盾である。国家による死刑の実行で“さえ”国際的に見直されている――少なくともその気運が高まっている――というのに、日本では、誰もがいつなんどき裁判員に指名されるかもしれない枠組みにおいて、今後、国民は総体としてその矛盾を否応なく背負わされ、究極の相互監視体制に組み込まれることになる。このデメリットは、先に述べた“傍目八目”のあり得るメリットなど、比較にもならない次元で圧倒してしまう性質のものではなかろうか?

 ただし、裁判で死刑が確定しても、現在の日本では、相当数(常時100名程度)の死刑囚が刑を執行されないまま、何年もの時間を拘置所内で――言わば宙に浮いた恰好で――過ごしている(現在、日本で最も古い死刑囚であり、以前から冤罪の可能性を強く指摘され再審請求中の袴田巌《はかまだいわお》に至っては、事件後42年、死刑確定後27年半を経過した)。死刑の執行命令は法務大臣の専権事項だが、近年の法相は、個々の姿勢で積極的に執行を進める者と執行を回避する者とに分かれ、前者であっても多くて数名の執行にとどまる傾向が続いてきた。そんな中、11ヵ月間で10名に執行命令を下した前職・長瀬甚遠法相に続き、現職の鳩山邦夫法相は、“ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄【刑の執行】が自動的に進んでいけば”あるいは“大きな心の痛みを感じるが、法に基づいて粛々と実行しなければいけないということで、逃げることのできない責務と思って執行させていただいた”などの発言が示す通り、昨年8月の就任以来、既に13人という際立った多数への執行を命じている。しかも、先日の秋葉原通り魔事件の直後には、あたかも世の中へのアピールのごとく、確定後約2年4ヵ月後という宮崎勤に異例の速さでの執行命令を下し、論議を呼んだ(法相自身は関連性を強く否定)。

 もちろん、「前項の命令【法務大臣による死刑執行の命令】は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」と定めた刑事訴訟法が厳然と存在する以上、法務大臣としての責務を果たしているという建前は成立するだろう。けれども、国連人権理事会でも日本に対して死刑制度廃止を勧告している今日《こんにち》、法の代表者たる大臣があえて執行を加速すべきとかなれば疑わしく、本当の意図は、裁判員制度実施を前にして先手を打つ形で死刑を日常化し、国民の懸念や違和感を減少ないし払拭させよう――より露骨な表現を用いるならば鈍磨ないし麻痺させよう――というところにあるのではないかと感じる。

 従って、死刑制度に反対する側から鳩山法相の姿勢に批判が向けられることはあって当然にせよ、『朝日新聞』夕刊コラム「素粒子」欄(6月18日付)による言及は、何とも低俗なものだった。当日の同欄は「永世名人 羽生新名人。(略)またの名、将棋の神様」に始まり、それとの悪しき対比として、こう続けていた。
「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」(その後には「永世官製談合人 品川局長。(略)またの名、国民軽侮の疫病神」が並ぶ)

 曲がりなりにも法に定められた本来の公務を行なっている大臣を指して「死に神」とは、諷刺的警句としても粗雑に過ぎる。この種の揶揄《やゆ》は、巧みであれば昔風の「寸鉄人を刺す」ものともなり得るけれど、対象にダメージを与えるよりもむしろ圧倒的な反撃を誘い出すようでは、かえって利敵行為とさえ化してしまう。激怒した鳩山法相は、「極刑を実施するんだから、心境は穏やかでないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」「【宮崎死刑囚にも】人権も人格もある」「彼らは死に神に連れて行かれたのか」「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う」(6月20日付『共同通信』)、「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」(同前『産経新聞)などと反論。ネット上でも、“これだから『アサヒ』は……”という類《たぐい》の冷笑的反応を広範に惹き起こした(ちなみに『朝日新聞』は、直後の6月20日付夕刊の連載漫画――しりあがり寿『地球防衛家のヒトビト』――でも、山上たつひこのヒット作『がきデカ』の主人公・こまわりくんに擬された鳩山が「死刑!!」と決め台詞でポーズを取っているという際どいコマを掲載、やはり物議を醸《かも》したが、こちらは記者の筆によるものではないので、問題の質が異なる)。

 ところで、鳩山法相は、宮崎勤の執行に関連して、記者会見で次のように述べている。
「慎重の上にも慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ。数日前に執行を命令した。正義の実現のためには粛々とやるのが正しいと信じている」(6月17日付『共同通信』)

 先に記したごとく、鳩山による執行命令の連続を「法務大臣としての責務を果たしている」と見做したとしてさえ、この説明は奇妙である。執行を待つ死刑囚は累積100名以上を数えているのだから、百歩譲って彼の言う「正義の実現のためには粛々とやるのが正しい」という理屈が成り立つと仮定するならば、当然にも、数十年来滞ってきた執行をリストの古い順に実行すべきはずであろう。ところが、そこで「慎重の上にも慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる」対象を選んだ――その結果、確定後2年4ヵ月の宮崎勤も選定された――とすると、法務大臣は司法の確定判決に対してなお自己の取捨選択による恣意《しい》的判断を加えていることにならざるを得ず、翻れば、執行を命じることが出来なかった(言わば順番を飛ばした)死刑囚に関しては、必然的に“絶対に誤りがないと自信を持って執行できない”という理屈になる。これは、法務大臣の任務を超越ないし逸脱した行為であろう。

 一方、当初、『朝日新聞』側は、鳩山法相に対して何らかの釈明をする様子はなかったのだが、ここで別の動きが加わる。
「重大事件の被害者や遺族でつくる『全国犯罪被害者の会』(あすの会)は25日、都内で記者会見し、『被害者遺族も「死に神」ということになり、我々に対する侮辱でもある』と抗議した。
 代表幹事の岡村勲弁護士は会見で、『私たち犯罪被害者・遺族は、死刑囚の死刑執行が一日も早いことを願っている。(コラムは)鳩山法相に対する批判であるが、そのまま犯罪被害者遺族にもあてられたものだ』と述べ、25日付で朝日新聞社に抗議文と質問事項を送ったことも明らかにした」(6月25日付『アサヒ・コム』)

 これを受けて朝日新聞社は、同会に対して文書で回答。
「回答はコラムについて、死刑を巡る鳩山法相の一連の言動を踏まえたものと説明。『犯罪被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか』との質問には、『お気持ちに思いが至らなかった』とし、『ご批判を厳粛に受け止め、教訓として今後の報道に生かしていきます』と答えた」
「鳩山法相については『中傷する意図は全くありませんでした。法相が『侮辱』『中傷』とお受け取りになったとすれば、残念です』とした」(7月2日付『アサヒ・コム』)

 この謝っているのかいないのかも中途半端な回答に対して、反発は一層増大する。
「地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人の高橋シズエさん(61)は3日、朝日新聞社に文書で抗議した。
 抗議書は『オウム事件のように何人もの死刑判決が出れば、それだけ執行数が増えるのは当然』とし、『(報道において)被害者への配慮を心がけてほしい』と求めている」(3日付『読売新聞』)

「全国犯罪被害者の会(東京)は7日、『何人なら問題ないと考えているのか』などとする再質問を文書で同社に送った。
『死に神』と表現した理由について、同社は同会の公開質問に対し、文書で、13人の死刑執行を命じたことなどを挙げて回答。同会はこれに不満を示し、再質問した」(7日付『同前』)

 僕自身、今回の「素粒子」については極めて批判的な想いを抱き、また、犯罪被害者――当事者及び家族、遺族――の置かれた立場に対する保護・尊重の重要性は言うまでもないけれども、これらの会が鳩山法相に関わる「素粒子」の問題を自らに引きつけて介入することについては、にわかに同調し得ないものがある。このような抗議が一定の正当性を持ち、効力を発揮するならば、そもそも死刑廃止論は押しなべて「死刑囚の死刑執行が一日も早いことを願」う犯罪被害者遺族を侮辱し、被害者への配慮に欠けているということになってしまいかねない。ともあれ、このような状況を呼び起こした『朝日新聞』の軽佻浮薄は、メディアとして改めて実に罪が重い。
(2008.7.11))