今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

高校野球──北京オリンピック──競泳用水着

大西 赤人       



 一時物議を醸《かも》した特待生制度をはじめ、学校、指導者、選手にまつわるあれこれのスキャンダルが折々に噴出しながらも、それらを“一部の例外”と位置づけドロナワ式に糊塗する形で――もっと言えば、実質的にはほとんど見て見ぬフリで――高校野球の隆盛は続いている。本来、その問題点を指摘し、見直させるべき存在であるテレビ局や新聞社が深く利害に関わっている以上、徹底的な追及を期待すること自体、ないものねだりということになってしまうのかもしれない。

 そんな毎年春夏恒例の甲子園大会も、1918(大正7)年夏は米騒動(!)のため直前に取り止め、また、第二次世界大戦前後の1941(昭和)年夏から1946(昭和21)年春までは連続して開催されなかった。このような外的要因によって中止となること自体は望ましい形ではないけれど、これら以外にも、もしかしたら大会挙行が見送られるのではないかと思われた年があった。それは、阪神・淡路大震災が発生した1995(平成7)年である。地元・神戸を襲った災害から春の選抜大会開幕予定日までは僅か二ヵ月余り、普通に考えれば、教育的意義を標榜する高校野球であればなおさら、勝った負けたの大騒ぎを演じるに相応《ふさわ》しい時期ではない。従って僕も、もしかしたらここで開催が自粛され、それをキッカケに高校野球全般のあり方が再検討されることにもなりはしまいかと淡い期待を抱いた。しかし、実際には、被災者・被災地を元気づけるためという美名が先行、外野フェンスに復興を祈念する特別のメッセージが描かれ、ブラスバンドなど鳴り物による応援は禁止という形で、大会は予定通り挙行されることとなった。

 ここで連想されるものは、8月8日に北京オリンピック開幕を控える中で四川大地震に襲われた中国だ。地震発生から開会式までは三ヵ月足らず。阪神・淡路大震災を遥かに上回る被害の規模を思えば、こちらもまた何らかの見直しがあってしかるべきとも思われる。地震直後、中国では聖火リレーが予定通り行なわれて内外の批判を招き、規模の縮小、黙祷の実施、日程の変更などにつながった。しかし、オリンピック本番については、世界を相手にしている話でもあり、いかんせんこれ以上ない政治的国威発揚の場となっているその性格を考えれば、中止、延期、簡素化などの一見ネガティヴな選択肢は採られ得ず、むしろ選手に対しては、自国代表の活躍により中国人民の立ち直りを精神的に後押しすべしという具合のますますの叱咤激励にすげ替えられるのであろうか。

 オリンピックが巨額な金を基盤に演じられる一大ショーと化していることは今更指摘するまでもない事だが、それでも、その根本精神たる「オリンピック憲章」(2004年9月最新版)は、冒頭の「オリンピズムの根本原則」において、依然、次のごとく格調高く謳《うた》う。

「4 スポーツを行なうことは人権の一つである。各個人はスポーツを行う機会を与えられなければならない。そのような機会は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が必須であるオリンピック精神に則り、そしていかなる種類の差別もなく、与えられるべきである。(略)
 5 人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない」

 ここまで大上段に振りかぶられては、単なる空疎な美辞麗句と見過ごすわけにも行かない。要するにここで言われている趣旨は、選手一人一人における力の差は当然としても、それ以外、何らか外的な条件によって個人の能力発揮が阻害されることについては否定する・回避するという――即ち原則的平等の――保証なのであろう。また、近年のオリンピックは、昔のようなアマチュアリズムへの固執こそ捨て去ったものの、ドーピングに対してますます厳正な取り締まりを見せている。つまりこれは、いわゆる“より速く、より高く、より強く”というオリンピックのモットーとは、あくまでも人間が生来有している身体性によってのみ達成されるべきとする断固たる宣言のはずであろう。

 そこで何とも割り切れない想いに駆られる出来事は、このところ話題となっている競泳用水着の問題だ。今年2月、英国・スピード社が最新機能満載の水着「レーザー・レーサー(LR)」を発表、これを着た選手による好記録(4月16日までに生まれた世界記録37個のうち、35個)が続出した。しかし、日本水泳連盟は国内三社(アシックス、デサント、ミズノ)と五輪での提供契約を結んでいるため、日本代表選手は、この水着を北京大会で使うことが出来ないというのである(また、北島康介のようにメーカーと個人契約を結んでいる選手も存在する)。無縫製、超軽量で「締め付けが強く着用に20分以上かかる」(20日付『産経ニュース』)「LR」は、極細のナイロン製生地で作られており、胸部や臀部には米航空宇宙局(NASA)の協力で生み出されたポリウレタンのフィルムが張られている。「慣れないと体が浮くと感じて前半から飛ばし、後半バテる」(24日付『アサヒ・コム)ため、着こなすには時間がかかるらしい。それでも、100分の1秒を競う世界であれば、当然、選手はより良いものを使いたくなる。

 日本水連は国内三社に水着の改良を求め、6月10日に結論を出すそうだが、短時間に「LR」を上回る製品が作られるかどうかは怪しい。一方、数人の日本代表選手が「LR」を実戦で試してみたところ、「五輪へ向けて負荷のかかる練習を始めたばかりという調整段階で、しかも水着は既製品の使い回しでサイズも合わない状態」(20日付『産経ニュース』)にもかかわらず、伊藤華英、中村礼子が100m背泳ぎでともに自身二番目の記録をマーク、奥村幸大は200m自由形の日本記録を更新してしまった。こうなっては、悠長な事も言っていられない。

「ミズノの水野明人社長は22日、競泳の世界新記録が相次いだ要因とされる英スピード社の水着の着用を、ミズノと契約している北京五輪日本代表の北島康介(25)が希望した場合『最終的には彼の判断だ』と話し、意思を尊重する考えを示した。(中略)
 同社長は大阪市内で開いた決算会見で『仮定の話であり、認めるかどうか言える立場にない』と、日本水連の対応など状況を見守る立場を説明。北島の気持ちを優先する姿勢を示した一方、北島が契約を優先し『ミズノの水着を着用すると思う』との期待も口にした」(23日付『サンスポ・コム』)

「日本オリンピック委員会の福田富昭・選手強化本部長は、競技団体の強化担当者を集めた会議で『速いとわかっていて何で使わない』。ある選手は『五輪には人生がかかっている。0.1秒でも速い水着を着たい』と訴えた。日本水連の上野広治・競泳委員長は『選手には要望する水着を着させてあげたい』」(24日付『アサヒ・コム』)
「自民党のスポーツ立国調査会(麻生太郎会長)は27日、日本水連の佐野和夫専務理事から説明を受けた。(中略)
 スポーツ立国調査会の遠藤利明事務局長は『道具によって金メダルを取れないというのは残念な話。そのために水連としてどう取り組むのかとの思いで、見守りたい』と語った」(27日付『産経ニュース』)

「スポーツ立国調査会」――自民党が政務調査会に設けた組織で、来年度の「スポーツ庁」創設を目指し、スポーツ振興法改正、五輪でのメダル量産をはじめとする国際大会で活躍可能な選手の育成強化、東京五輪招致などを打ち出している。会長・麻生太郎、最高顧問・森喜郎――まで乗り出すあたりはいやはやだが、それほどの差が現に明らかとなっている以上、契約云々《うんぬん》に縛られることは、選手にしてみれば全くナンセンスではあろう。そもそも日本水連と三社の契約は、選手が北京大会で他社製の水着を着ても違約金などが発生する内容ではないという(ただし、ミズノと契約している松田丈志は「LR」を着ないと明言しているし、また、これは日本に限った問題ではなく、米国のブレンダン・ハンセンなども、個人契約を結ぶナイキ社との板挟みで迷っているらしい)。

 さて、僕が先に「何とも割り切れない想いに駆られる」と書いた理由は、日本選手が「LR」を着られないかもしれないという部分にあるわけではない。水着という付随的な「道具」によって記録が大きく左右されることに疑問を感じるのである。近年、競泳用水着は、サメ肌水着、スーツ型水着、ハイテク水着など次々に進化してきた。2002年のシドニー大会では、それまで50mプールを見たこともなかったという水泳暦僅か8ヵ月のエリック・ムサンバニ(赤道ギニア)が競技普及枠で100m自由形予選第一組に出場。他の二人がフライングで失格したため独泳となり、初めて経験したターン(!)後は溺れかけているような(!!)フォームで泳ぎきり、200mの世界記録よりも遅い1分52秒72という記録でゴール・インした。彼は、これによって“参加することに意義がある”を体現する存在として一躍世界的な人気者となったわけだが、この時に印象に残った光景は、失格した他の二選手でさえスーツ型の水着姿だったのに、ムサンバニは昔の子供のような――ちょっぴり緩めの――水泳パンツを穿《は》いていたことだった(言わずもがな、彼がスーツ型を着ていたところで、結果は五十歩百歩だったに違いないけれど)。

 たとえばF1に代表されるモーター・スポーツは、元々の車の性能に大きく差があれば、ドライバーのテクニックでそのギャップを埋めることは不可能に近い。しかし、F1にはドライバーズ・ランキングと並んでコンストラクターズ・ランキングというものがあり、車体製造者を評価する基準が厳然と設けられている。しかし、オリンピックの水泳には水着メーカーを審査する観点などなく、あくまでも選手個々人が競う場として成立しているはずだ。それにもかかわらず、そこでの結果が選手個々の能力ではなく「道具」によって決定的に左右されかねないとしたら、完全に本末顛倒ではなかろうか?

 もちろん、「LR」が選手に浮力、持久力を与えるなどの違反を伴わないかについては世界水泳連盟が検討の上で公認しているが、何らかの数値基準があるわけではないので、「そもそも商品開発はルールのすき間をぬって行うもの」(20日付『産経ニュース)との見方もある。言うまでもなく、事は水泳に限らない。陸上にしても、一流選手であればメーカーとの特約によって特別モデルのシューズが作られるし、スピードスケートは(ブレードの踵《かかと》部分が離れる)スラップスケートの出現で一変した。そんな状況に対して、メディアには、次のような批判も見受けられる。

「道具が勝負を左右するような状況を招いては、競技そのものが成り立たなくなる。
 本来、水泳は身ひとつで誰でも取り組めるものだ。その純粋性を保つためにも、ここは大事な節目となるのではないか。
 平等、公平はスポーツに不可欠だ。競技の発展、普及に先端技術の果たす役割は大きいが、その恩恵を受けられる者はけっして多くない。企業の支援や豊富な資金がなければ勝てない状況は、結果として競技の衰退を招くだろう。スポーツに過剰な格差を持ち込まないよう、どう対処すべきか。水泳だけでなく、すべての競技が問われている」(26日付『中日新聞』社説)

 綺麗事になってしまう嫌いを承知の上で言うならば、オリンピックの現状には、「差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない」という「オリンピズムの根本原則」との根本的な懸隔・離反を感じさせられるのである。
(2008.5.28)