今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

イージス艦「あたご」事故、橋下徹大阪府知事、「春闘」──どこを向いても閉塞した状況ばかり

大西 赤人       



 石破茂防衛大臣。舛添要一厚生労働大臣。冬柴鐵三国土交通大臣。最近、この御三方を見ていると、管掌《かんしょう》分野における不祥事、不手際がこれでもかとばかり次から次に発生し、いずれも苦虫を噛み潰したような面持ちで、とりあえずは平身低頭、「キチンと」「シッカリと」と謝罪や弁明の言葉を重ねる様子を見せられるたび、いささか気の毒になってしまう。もっとも、もちろんこれは皮肉な意味合いがほとんど。三人が三人、一方では大臣の椅子に何とも心よさげに坐っている気配が濃いもので、下々《しもじも》の当方の身からは、むしろ身から出た錆とでも意地悪に言いたい気持ちもあるわけだが……。

 とりわけ、防衛省における大問題となった海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」との衝突事故は、間もなく発生から一ヵ月を経過するというのに、二名の漁船乗組員は行方不明のまま。「キチンと」にかけては決して人後に落ちない石破サン
(http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/colum216.htm)による数えきれないほどの決まり文句の連発とは全く裏腹に、事故に関する防衛省の説明は二転三転。挙句《あげく》には、アラを見つけられないためであろうか、幹部の定例記者会見を減らす方向を検討する(報道側の批判を浴びて撤回)という本末転倒ぶりを見せている。すぐに大臣が引責辞任すればいいというものではないとは思うものの、いかにも言いわけがましい石破大臣の答弁を聞いていると、出処進退を誤っている印象は否みがたい。

 今回の悲劇に関しては、当初から「あたご」の監視体制が不十分だったのではないか、同じく回避義務を怠ったのではないかなどの見方が強く、“「そこのけそこのけ」意識で航行しているからだ”と自衛艦(隊)のあり方を批判する声が多い。未だ実状は不詳とはいえ、「あたご」の側に某《なにがし》かのミス、不備が一つならず存在したことは間違いなさそうに思われる。ただ、全長165メートル、基準排水量7700トンの「あたご」に対し、「清徳丸」は全長約12メートル、7.3トン、乱暴に言えば、ダンプカーと自転車くらいの違いがあるだろうか。現場は多数の漁船が日常往来している海域と伝えられているが、それならばなおさら、基本的にダンプカーが多くの自転車をよけながら走るようなことは、そもそも可能なのかどうかという疑問は生まれる。何ら「あたご」の弁護をするつもりはなく、ただの素人考えながら、どちらかと言えば、ダンプカーは整然と一定の進路を進むほうがまだしも安全ではないかという気もするのだが……(即ち、主体が自衛艦だからといって、事故の捉え方にバイアスがかかるようなことが起きては、それもまた誤りだろう)。

 いずれにしても、このような事故が大々的に報じられ、防衛省に対する非難が上がる分、今の日本は未だ平和ということも出来そうだ。ちょうど7年前――2001年2月10日には、ハワイ・オアフ島の沖合で、宇和島水産高校の漁業練習船「えひめ丸」にアメリカ海軍原子力潜水艦「グリーンビル」が水中から浮上して衝突、「えひめ丸」の乗務員9名が死亡するという事故があった。今回ほどの差ではなかったとはいえ、両者においても、全長58m、499トンの練習船に対し、潜水艦は全長108m、7000トンに及ぶ格段に大きな船体だった。いかし、この出来事に関して、「グリーンビル」のワドル艦長の刑事責任を追及する軍法会議は開かれず、僅かに2ヵ月の減給処分が科されたのみだったと伝えられている。当時、僕は次のように書いた(column75.htm)。

「さて、要するに今回の事故で改めて明確に判った事は、軍艦・軍隊・軍人は、たとえ平時であっても、基本的には常に『戦争』をしているということだ。そこでは、人間に対する当たり前の心配りは存在し得ない――存在する必要がないのである」

 今回の事故も、本質は似ている。石破大臣は、“国民を守れない自衛隊に国を守れるはずがない”というような言い方を頻りにしているけれども、これはまやかし。今や自衛隊も名実ともに軍隊となりつつある中、自ずから軍隊とは、抽象的な「国・国家」を守りこそすれ、具体的な「国民」を守るべき役目を負いはしないのだ。

 ともあれ、この事故だけでも世が世ならば政権が転覆してもおかしくないくらいなのに、ガソリン税の暫定税率延長問題、(年寄りは金持ち以外早く死になさいという国の姿勢がいよいよ露骨に現われた)後期高齢者保険制度問題、労働格差問題などなど課題は山積であるにもかかわらず、相変わらず衆議院は多数与党による審議・採決の強行、参議院は多数野党による空転の繰り返し。日銀総裁人事も大切ではあろうとはいえ、先頃などは参議院予算委員会が連日取り止めという異常事態。国政にとどまらず、東京では新東京銀行の最初から予想された破綻が早々にあからさまになっても石原慎太郎知事が責任を認めないし、大阪では就任したばかりの橋下徹知事が事前の公約など放ったらかしながらスタンド・プレイを続けている。その橋下知事、若手職員向けの初の朝礼に当たり、始業時間前の実施に待ったをかけられ――

「たかだか15分、始業前の朝礼で超過勤務手当だと言うなら、税金で給料が賄われている皆さんの執務時間、私語やたばこ休憩は全部(給与を)減額させてもらう」(13日付『毎日jp』)
「無駄なものは省いて下さい。9時からスタートで、朝礼がそれ以前なら残業代だ、というのなら、始業から終業まで、タバコ休憩も私語も一切なしにしてくれといいます」(14日付『J-CASTニュース』)

と気炎を上げたところ、一人の女性職員から――

「今どれだけサービス残業をやっていると思っているんですか。きれいなことを言っているが、あなたは労働者をバラバラにするようなことばっかり言っている」(『毎日』)、
「職場のなかの団結分断して、労働者同士分断して、大阪府職員と府民を分断してるばっかりじゃないですか!」(『J-CAST』)

――と反論されたという一幕が大きく報じられた。『よく思いきって言ったもんだが、発言の中身自体は当然だよな。それだけ現場の人間は、知事の言動に頭に来ていたということなんだろう』と感じていたのだが、ネット上においては“民間なら始業前の朝礼やサービス残業は当たり前”“残業は無能の証《あかし》”などと、この女性に対して支持よりも非難のほうが大勢だし、(真偽のほどはさておき)大阪府庁へも彼女への批判が殺到したと聞く。とりわけ、知事を「あなた」と呼んだことを非礼とする向きも多い――「『あんた』呼ばわり」と微妙に歪曲している報道などもある――らしいのだが、それでは「知事閣下におかれましては」とでも言うべきだったのか?

 加えて、「こいつ」「この女」は特定セクトの活動家だという類《たぐい》の非難も少なからず眼に止まったが、仮に活動家だろうとノンポリだろうと、民間であろうと公務員であろうと、「超過勤務」は「超過勤務」、「サービス残業」は「サービス残業」というだけの話である。

 とりわけ首を傾げさせられたのは、女性職員に対して大谷昭弘(ジャーナリスト)が発した冷ややかな以下のコメントだ(13日放送『ムーブ!』朝日放送系列)。

「橋下さんは職員に今日、語りかけたんですよ。労働者に語りかけたかどうか。府の職員としてどうあるべきかと、一労働者としてどうあるべきかということでしょ。彼女の言ってた事は、一労働者としての考えなのか、府の職員としての考えなのか、職員と労働者ってのは相対するものであって一致しないものなのか、そこをハッキリさせていただけないと、私たち府民は府の労働者と連帯している気持ちがあるんだろうか、ないんだろうか」

「橋下さんは職員に呼びかけたのであって、労使交渉に出たんじゃないんだよ! でしょ? 朝礼がいつの間にか団交になってしまっているようでは、いつまで経っても話はつかないわけよ」

 働く一人の人間において“職員”の部分と“労働者”の部分とを分別し、その上で、現実的な業務の――朝礼や給料の――話をするなどという過程が成立するものなのであろうか?

 ことほどさように、どこを向いても閉塞した状況ばかりと言いたくなる日本において、今はまさに「春闘」の季節だが、不満は溜まりに溜まっているに違いないものの、国民は諦めムードに等しいのか、至って静かなものだ。「春闘」という言葉は日本人にとって極めて馴染み深いが、どうして取り立てて“春の闘い”なのかは不思議である。思い立って調べてみると、たとえば電機連合のホームページには、次のように説明されている。

「『春闘』の始まりは、電機労連も当初から加わった1955年1月結成の8単産会議による産別統一賃上げ闘争を指す。ただし、この時は世間一般には熟語としての春闘はまだ認知されていないし、共闘側もこのわかりやすい略称は使っていない」
「56年に総評は早くから春季賃上げ合同闘争本部を設置、岩井新事務局長の積極的指導のもとナショナルセンターとしての統一闘争を組み、マスコミは一斉に『ゼネスト的様相を呈する春闘』と初めて『春闘』の見出しを使い、以後日本中に定着する。
 二つの世紀をまたいで続く日本労働界のメーンイベント春闘は、そのはじまりについて55年と56年の両説がある。いわば『元祖春闘』と『本家春闘』との共存解釈が可能だ」

 最も「春闘」が昂揚した時期は1970年代であったろう。当然ながら経済の状況が今とは大きく異なるにせよ、記録によれば、1974年の賃上げ水準に至っては何と32.9%! その反面、この時期には、「春闘」といえば交通機関を中心とするストライキが実行され、通勤・通学に大きな支障をもたらした。労働者にとって当然の手段とはいえ、当事者以外の多くの人々に十分な理解・共感を形作ることの出来ないまま進められた当時の戦術が、結果的には、日本において労働運動、労働組合に向けられる――世界的にも珍しいほどの――理不尽な感情的反発につながる一基盤となってしまったようにも感じられる。

 ともあれ、今や「春闘」とは名ばかり。ひところの“首を切られることを思えば、給料が上がらなくても雇ってもらっているだけ御の字”というような有様は脱し、ここ数年は景気回復傾向でベース・アップが行なわれてきたけれど、今年は円高などによる先行き不透明感も加わり、抑制気味である。しかし、所詮は近年の日本経済の回復など、格差社会の深化と表裏一体となったいわゆる「派遣」に代表される安価な労働力利用と、中国に象徴される海外への物的人的依存によってもたらされた一種の徒花《あだばな》のようなものではないか。その意味では、多数の「偽装請負」で批判を受けながら、むしろ法制のほうが悪いと逆捩《さかね》じを食らわそうとしていた「キヤノン」会長である御手洗冨士夫・日本経団連会長が、「春闘」に向けて賃上げを「容認」したとの大時代な報道には、いささか唖然とさせられた。

「経団連の御手洗冨士夫会長は先月末の会見で、定率減税廃止などによる負担増でサラリーマンの手取り収入が減っている状況に言及。さらに団塊世代の大量退職や非正社員の採用で、企業に人件費で余裕が生まれているとの認識を示し『企業業績を見ると、やがて家計にもいい影響を及ぼすだろう』と、賃上げ容認ともとれる見解を述べた」(2007年12月4日付『毎日新聞』)
「春闘の本格化を前に、労使双方が労働条件のあり方などを議論する『労使フォーラム』が10日、東京都内のホテルで開かれた日本経団連の御手洗冨士夫会長(キヤノン会長)は『業績が良く、余力のある企業は、働く人々への配分を厚くすることも検討してよい』と述べ、賃上げを容認する方針を改めて示した」(1月10日付『アサヒ・コム』)
「御手洗会長は賃上げについて『全体としては企業業績は堅調で、働く人への配分を考慮できる状況になっている』と踏み込んだ言い方で前向きな姿勢を示した。
 ただ一律の賃上げはあり得ないとして、連合が指摘する労働分配率の伸び悩みにも『分配率はマクロデータ。しかも景気拡大時には低下する』と賃金交渉を左右する指標にならないとの見方を示した」(1月11日付『日経NET』)

 これらの「容認」という表現自体はメディアの用いたものにせよ、“業績が悪くない企業ならば賃上げをしてもよろしい”との高みに立った御手洗会長の物言いには、言葉は悪いが『一体何様のつもりなんですか? 誰が安い給料で働いているおかげでトップでふんぞり返っていられるんですか?』と憤然たる思いに駆られてしまったのである。
(2008.3.16)