今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

32歳の若さで亡くなった国際的ライダー阿部典史と、二十数年前に父の光雄さんが語った言葉

大西 赤人       



 7日、二輪ロードレースにおける国際的ライダーだった阿部典史が32歳の若さで亡くなった。

「93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど『ノリック』の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった」
「93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている」(8日付『日刊スポーツ・コム』)

 モーターサイクル(オートバイ)レースは、日本において、野球やサッカーと較べればもちろん、同じモータースポーツの中でも、F1ほどの認知度は持っていないだろう。しかし、2003年4月に26歳の若さでこの世を去った故・加藤大治郎(享年26)らと同様、阿部もまた、むしろ世界でこそ広く知られる有名選手だった。MotoGP(ロードレース世界選手権最高クラス)開幕戦・日本GPのレース中に起きた加藤の死も衝撃的だったが、今回の阿部の場合、公道で発生した事故という点でも多くのファンを一層驚かせた。

「川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。
 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている」(同前)。

 正直なところ、僕自身、モーターサイクルレースについて、浅薄な興味以上に特に詳しい人間ではない。ただ、阿部典史については、以前から別種の関心を持っていた。それは、僕が以前、彼の父親であるオートレース選手・阿部光雄に会い、インタヴュー記事を書いていたからだ。

 1980年代前半の一時期と、同じく終盤から1990年代初めにかけての一時期、僕は月刊誌『別冊モーターサイクリスト』(八重洲出版)に「MCと私」(後に「私のモーターサイクルライフ」)と題して連載を持っており、これは、仕事、趣味、色々な形でオートバイと関わっている人に話を聞き、その半生をまとめるというような内容だった。その頃の僕は自動車さえ運転しておらず、ましてオートバイなどとは全く無縁でほとんど何も知らなかったのだが、とある偶然の経緯から依頼を受け、専門的な事柄については編集者に助けてもらいながら、日本各地、のべ50人ほどの人を取材した。この種の雑誌としては、いささか毛色の変わった記事だったと思われるが、いわゆる人間ドラマ的な面白みを感じてくれた読者も居たようだし、僕にとっては、この仕事でなければ会う機会など訪れなかったと思われる多種多様な方々の話を聞くことが出来て、大変有益な経験となった。

 その一回、1983(昭和58)年12月号に登場したのが、今でも現役レーサーとして活躍している阿部光雄さんだった。1980年の第12回日本選手権オートレースで優勝、広瀬登喜夫、且元滋紀、篠崎実と並んで「川口オート四天王」と呼ばれていた彼は、当時34歳。インタヴューの中では、まだ幼い息子さんが既にバイクに夢中なのだと嬉しそうに話していた。以来、スポーツ新聞を見ると光雄さんの成績が何となく気になったし、次男の典史が華々しく現われた時には、『あー、あの時の子か。お父さんとは違って、ロードレーサーになったんだ。しかし、月日の経つのは速いなあ』などと月並みな想いに駆られたものだった。

 このようなわけで、このたびの悲報を知った時にも、僕は驚きとともに――多くの「ノリック」ファンとは幾らか異なるであろう――感慨を持ったのだが、ふと思い立ち、昔の雑誌を引っ張り出して読み直してみたら、自分でも忘れていた次のような記述にぶつかり愕然とした。

「選手の中にも日頃バイクには乗らない人が割合いる、と阿部さんは言う。
『馬鹿馬鹿しいのもあるけど恐いのもあるんだよね。レースの場合は、どこをどの方向に走るか判っている。スピードが乗った時は、行ける範囲が限られてくるんです。町中《まちなか》はどこから出て来るか、どういうふうに動くか、予測がつかないので恐い。乗り慣れてるとイイんでしょうけど、怪我したくないから』
 プロ中のプロである阿部さんが一般道路を恐がるのだから面白い物だが、むしろこれがプロの真髄なのかもしれない。だから阿部さんは、息子さん――9歳と8歳――にも『道路は走らせたくない、走ってほしくない』と話す」

 光雄さんは、こんな些細《ささい》なインタヴューなど忘れているかもしれない。しかし、その後、息子に向かって同様の話をしたことはあっただろう。実際、ふだんの典史は自動車移動が主、オートバイで公道を走ることはなかったのだが、事故当日は近場の用を足すため、知人から貰ったばかりのスクーターに乗ったと伝えられている。亡くなった典史とほぼ同年齢だった二十数年前の光雄さんが語った言葉は、“ほらな、俺が言っていた通りだったろう?”と表現したくなるくらい、先輩レーサーとして、父親として的確に“この日”を見通していた形であり、それがゆえに、なおさらあまりにも悲しい。
(2007.10.16)