今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

渋谷の温泉爆発事故報道で『朝日新聞』が示した、想像力のカケラとて窺われない見出し

大西 赤人       



 19日に起きた「渋谷松涛温泉シエスパ」の天然(メタン)ガスによる爆発事故には、大変驚かされた。三名が亡くなった現場(渋谷区松涛一丁目)は、渋谷の繁華な一角、東急本店・Bunkamuraから100メートルほどの所。すぐそばの松涛郵便局前交差点を基点に見ると、西側に「シエスパ」が位置し、周辺には「Bunkamura ル・シネマ」、「シネ・アミューズ イースト/ウエスト」、「ユーロスペース」、「Q-AXシネマ」など映画館が多い。実際、僕も、5月23日には「シネ・アミューズ」で『赤い文化住宅の初子』を、6月9日には「ユーロスペース」で『コマンダンテ』と『低開発の記憶』を観て、そのあたりを歩いたばかりだった。もっとも、そんな近くに女性専門温泉施設が出来ていた(2006年1月開業)ことなどは、全く知らなかったのだが……。

 温泉といえば“山間《やまあい》の鄙《ひな》びた場所にノンビリ泊りがけ。お湯はあれこれの病気に効いて……”というようなイメージだったけれど、最近では、都会の真ん中にある施設が珍しくない。昔ながら自然に湧き出しているものではなくとも、火山列島とも呼ばれる日本では、どんな土地であっても、深く掘りさえすれば「温泉=温かい水の層」にぶつかるようで、それは、掘削(ボーリング)技術の進歩、費用の低下によって実現可能となった面が大きいらしい。インターネットで検索すると、こんな記事が見つかった。

「東京・北区で2年前の2月10日に起きた爆発火災が、東京の温泉ブームに火を付けた。
 火災は温泉掘削現場で発生。地層中からメタンが噴出、引火爆発し、高さ20メートルの火柱が一昼夜にわたって燃え続けたのだ。このショックで、北区ではその後温泉開発は一件もないが、火災は技術的に防ぐことができ、逆に都内の温泉掘削件数は伸び続けている。事故の翌年度に7件の温泉がオープン、昨年度も10件以上新規の温泉掘削申請があった。池田茂・東京都水環境課長は『事故によって、都内を深く掘ればどこでも温泉が出てくることが、広く知れ渡ってしまったからです』という。
 東京の地下を支える沖積層の下には岩盤があり、その上に水分がたまっている。深いほど地下水温は上昇し、1000メートル地下では約30度。温泉法では25度以上あれば『温泉』と呼ぶことができるため、深くさえ掘れば『どこでも温泉が出る』わけだ。都内の温泉約140件のうち、深さ500メートル以上の地下から湯をくみ出す大深度温泉は、50件以上にのぼる。(略)」(2007年2月7日付『読売新聞』)

 ここで触れられている北区の爆発火災では死傷者は出ていないが、その内容は、今回の大事故を連想させるものではある。いや、それより以前の2004年7月30日には、「九十九里いわし博物館」(千葉県山武郡九十九里町)で天然ガスが床下の地面から文書収蔵庫に滞留、爆発し、二名の死傷者を出すという出来事があった。大きな事故が起きないと何かしらの対策が採られない状況は世の常なのだが、無味無臭と言われるメタンガスの危険性は既に少なからず具現化していたわけで、今回の事故原因や責任所在の詳細はまだ判らないながら、「天然ガスによる事故が相次いでいるのを受け、東京都は掘削時の天然ガス漏出対策には力を入れてきた。だが、温泉施設ができた後の安全管理は『盲点』だった」「掘削終了後に安全面をチェックする具体的な仕組みはないという」(20日付『アサヒ・コム』)、「運営会社や保守管理会社など施設にかかわるいずれの業者も、天然ガスの濃度を検査していなかった」「施設内のガス濃度については測定しておらず、ガス検知器もなかった」(21日付同)などの速報を見る限り、安全管理体制は何とも危ういものだったかに思われる。

 ところで、このような事故が起きると、被害者の人となりが追跡され、今回に即せば、“転職が決まっており、その日が最後の勤務日だった”とか“父親との二人暮らしで、前日は父親の誕生日にチョコレートをプレゼントしたばかりだった”とかのエピソードが報じられる。人間誰しも、このような切り取り方をされれば、日々、些細ではあっても何かしらの劇的な時間を積み重ねながら、生きているということになるのだろうか。少なくとも、これらの報道は、単純な「死傷者×名」という数的データに留まらない実質――被害者ひとりひとりが現実に生活していた人間だった、その命が理不尽に奪われてしまった、という重み――を見聞きする者に伝える意図によって行なわれているはずである。

 前回の本欄でも触れたように、世間には、『朝日新聞』の一挙一動を鵜の目鷹の目で狙っていて、何かあれば即バッシングに取りかかる向きも多いが、もちろん僕は、そういう一員ではない。『朝日新聞』の主張、姿勢、伝える内容が総て正しいはずなどないと思っているものの、ただ、マス・メディアの中では、一つの指標として常に注目することはたしかである。今回、『朝日新聞』の続報の中に、次のように始まるものがあった。
「東京都渋谷区の温泉施設爆発事故で、従業員用施設内の1階にいて死亡した女性3人のうち1人は、屋外まで吹き飛ばされていたことが警視庁などの調べでわかった。爆発のすさまじさを示している」

 死亡した女性の1人は、爆風を受け、屋外駐車場のフェンス際で見つかったという内容である。インターネット上の『アサヒ・コム』では、6月21日7時39分付のこの記事には「死亡の女性、屋外に吹き飛ばされる 渋谷温泉施設爆発」という見出しが付されていた。同じものを、僕は、同日付朝刊(14版)紙面でも眼にした。35面社会面左上、連載漫画『ののちゃん』(いしいひさいち)の横に、「ガス濃度検査行わず 管理会社『契約にない』」という見出し記事があり、引き続き、爆発した従業員施設の見取り地図とともに1センチ角の活字の見出しが、こう並んでいた。
「屋外まで吹っ飛ぶ 死亡女性」

 後半の「死亡女性」はポイントが落ち、縦横二文字ずつに四角く一まとまりに組まれている。記事本文には「屋外まで吹き飛ばされて」とあり、デスクだか整理部だか、『朝日新聞』の編集体制は知らないけれど、この見出しは、記者とは別の人物が付けたものであろう。僕は、これを見て呆れ返った。「屋外まで吹っ飛ぶ」、特に「吹っ飛ぶ」って何ですか? 看板か物置きか犬小屋かでもが飛ばされたというのであれば、まだしも「吹っ飛ぶ」でもいいだろうけれど、相手は人間、それも、一方では「前日、父に手作りチョコ」(20日付『アサヒ・コム』)と伝えていたその人かもしれないような亡くなった被害者の一人なのだ。あまりにも無礼ではないですか。女性の遺族や関係者がこの見出しを眼にしたら、どんな気持ちになっただろう……?

 たしかに、「屋外まで吹っ飛ぶ」は八文字、ウェブ・サイトとは異なり、紙面の限られたスペースなので、「屋外まで吹き飛ばされる」では見出しとして長過ぎ、押し込めなかったのかもしれない。でも、それならば、せめても「屋外まで吹き飛ぶ」、いや、むしろ同じ八文字で「屋外まで飛ばされ」としたらいいではないか。しかし、ここであえて「吹っ飛ぶ」を選ぶ――多分、紙面編集用ディスプレイの画面上にキーボードから文字を打ち込む――機械的作業を行なう時、担当した人物においては、『事態の強烈さを伝えるためには、「吹っ飛ぶ」という言葉にインパクトがある』という判断が下されたのであろうと想像する。ただし、その際、彼ないし彼女の想いの中で、現実に吹き飛ばされた被害者の存在は、何らの具体的重みも伴なわない記号的な一「死亡女性」に過ぎなかったのであろう。この想像力のカケラとて窺われない見出しが付けられ、誰も『まずいんじゃないか?』と引っかからないまま紙面を送り出した『朝日新聞』に対し、言葉に対する感覚、ひいてはジャーナリズムの本質的なあり方において、僕は強い怒りと疑念を抱く。
(2007.6.25)