今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

教育職員免許法改正案──こんな法律が悠々と成立しようとしている

大西 赤人       



 5月28日、種々の疑惑の渦中にあった松岡利勝農水相が自殺。事務所を家賃のかからない議員会館に設置ながら多額の経費を計上、とりわけ、無料のはずの光熱水費を追及された際、“「何とか還元水」を使っている”なる珍答弁で失笑を買っていた頃は、まだしも幾分の微笑ましさ(?)があったけれど、独立行政法人緑資源機構をめぐる官製談合事件が表面化、いよいよ進退に窮していたのであろうか。この談合に関連しては、翌29日、鍵を握る人物と見られていた山崎進一元理事も松岡氏のあとを追うかのごとく自殺しており、何度となく眼にしてきた関係者の死による沈黙という幕引きとなりかねない雲行きである。

 松岡氏死去の報に際して、派閥の長でもある伊吹文明文科学相がテレビで“『死人に口なし』という残念なことになってしまった”云々《うんぬん》と語っていたことにも違和感を抱いた――「死人に口なし」とは、むしろ真相が闇に葬られることを歓迎する側にこそふさわしい――けれども、同じく、石原慎太郎東京都知事の“死をもって償ったという意味で、彼も侍だったなあ”なる(その口調からは、本人としては同情的なニュアンスのつもりだったと想像される)発言には、驚くとともに暗い気分にさせられた。ここで用いられているイメージは、武士の切腹なのであろうが、現代社会をリードすべき政治家の姿勢に関して過去の武士道をひたすら表層的に当てはめるとは、いかにも粗雑過ぎる。

 インターネットのブログなどを見ていると、この石原コメントに対してはさすがに批判的感想を持った人が多いようだが、中には、温かみの籠《こも》った言葉と受け止める向きもある。しかし、仮に松岡氏が疑惑に関して清廉潔白だったならば、それにもかかわらず死へと追い詰められたことは言語道断だし、逆に責任があったとしたら、結局は経緯の隠蔽へとつながる自殺を称賛することなどは出来ない(そもそも、仮に石原都知事の論理を当てはめるとしたら、つまるところ松岡氏の死は、「何とか還元水」の罪を償うために死を選んだという何とも矮小《わいしょう》な話と化してしまう)。

 誰が得をしたかはさておき、その死によって松岡疑惑が急速に表舞台から消えたことは否みがたい現実ながら、代わってたちまち社会保険庁の年金業務を巡る大問題が浮上。例によって公務員バッシングの流れの中で、社保庁解体・民営化が進められている。しかし、同庁の怠慢は否みがたいにせよ、あれほど大量のデータを管理するに当たっては、間違いなく民間の大手コンピュータ関連企業(具体的には、NTTデータシステムや日立)がシステムの構築、運用に携わってきたはずだから、それを思えば、解体・民営化で事が解決するとは信じがたい。

 ともあれ、国会は混乱の度合を一層深めているけれど、何せ与党は圧倒的多数を制しているから、幾ら参院選への影響を気にしているとはいえ、基本的にはやりたい放題で強行採決を繰り返し、多くの重要法案が決まって行く。安倍首相が我がDNAと自認しているらしい憲法改正へとつながる国民投票法は既に成立したものの、これで憲法が変わることが決まったわけではなく、民意がどのように動くかについては、まだまだ先のある事柄だ。むしろそれにもまして、やはり衆議院での強行採決を踏まえて参議院に送られた教育関連三法案(学校教育法等、教育職員免許法及び教育公務員特例法、地方教育行政の組織及び運営に関する法律)は重要と思われる。中でも、大きな論議を呼んでいるポイントの一つは、現在は終身有効とされている教員免許に十年の有効期限を設け、更新時には三十時間以上の講習を義務づけ、講習を修了しなければ免許失効となる新制度の導入である。

 僕は、学校というものを義務教育しか経験していない。今でも日常的に松葉杖を使って歩いているのだが、中学生の頃まではもっと足の状態が悪く、学校では車椅子に乗っていた。体育の授業は全く参加しなかった上、教室の移動を伴なう科目も実技系を中心にほとんど自分のクラスに独り残って自習していた――実際は、本を読んだりして適当に遊んでいた――ので、最もひどい時期は、週の授業時間の三割以上を受けないという状態だった。そのため、高校(埼玉県立浦和高校)を受験した際、筆記試験の点数は合格圏内だったものの、実技系科目の内申書評点が大変低く、両者を機械的に総合評価された結果、不合格。この出来事は、障害を持つ子供が教育を受ける権利に対する侵害として大きな問題となったものの、高校側の判定が変わることはなく、後年、僕は自分で勉強しながら大学入学資格検定を得はしたが、以降、学校へ通うことはなかった。従って、僕が経験した学校生活は小中学校九年間のみ、それも毎年数十日から百数十日に及んだ欠席日数を考えれば、正味六年か七年程度だったことになる。

 その限られた見聞に即しても、教師にまつわる記憶は芳しくないものが一杯ある。いわゆる“組合=日教組”の教師からも多々イヤな想いをさせられたが、そうかといって、非“組合”の教師が押しなべてマシだったとも到底言いがたい。要するに、“組合”であろうとなかろうと、良い人も居れば駄目な人も居るという何のひねりもない話だ。その上で言えば、僕は、こんなふうに悲観的に考えるようになった。

 教師とは、次の世代に知識や経験を継承する大切な仕事である。しかし、もし一人の教師が100の知識や経験を持っているとして、それを三十人、四十人の生徒に伝える場合、中には自己の能力で増幅させた120、130を会得《えとく》する者が出るとしても、それは少数に留まって当たり前。実際は、100を100引き継げば精一杯、それどころか、80なり90なりに目減りするほうが多数となっても不思議はないだろう。すると、その80なり90なりを持った多数の人間から次の教師が出現し、自らの新たな「100」を次の世代に伝えにかかる。これが繰り返されれば、結局のところ、教えられる内容は長年の間に言わば等比級数的に劣化して行くのではないだろうか……?

 まあこれはあまりにも単純な考えではあるけれども、子供たちを一定の色合いに染め上げる教育の本来的意義(及び危険)を考えると、理想を言えば様々な面において120、130を身につけているような人間こそ教師に望ましいとも言い得るかもしれない。そこまで理想を求めることは非現実的にせよ、真っ当な責務さえ果たしていない教師が実在することは残念ながら確実であろう。そして、まま指摘される日本社会の全般的モラルの低下、教育状況の混乱に関しては、僕の周りにも――他の面では決して保守的な考え方の持ち主ではないのに――“戦後の日本を悪くした元凶は日教組”というような言い方をする人がある。しかし、実際のところ日教組の組織率は、文科省の数字によれば、1958年86.3%から1975年55.9%、1985年49.5%、そして2005年には29.5%(1989年に分裂した共産党系の全教を合わせても36.8%)にまで落ち込んでいる。すると、普通に考えれば、日教組が教育現場の主導権を握っていた時期の“後遺症”が長らく尾を引いてきたと仮定してさえ、その勢力の低下に伴ない、十年来、二十年来の教育状況は少なくとも“改善の方向へ傾くべき「はず」”だが、それどころか荒廃と表されるまでに悪化の度を増していることになる。まさか、現在の津々浦々の教育委員会や各校の校長以下管理職が実は揃いも揃って日教組出身者で権力を握っているわけではなかろうし、これは単純に理屈に合わない。つまり、良い意味でも悪い意味でも、日本の教育と日教組との間に強力な相関関係を見出すことはまやかしである。

 それはさておき、先の教員免許更新制度に関して、僕は短絡的に全否定しようとは思わない。先に記した通り、教育は極めて重要であるから、教員にまつわる様々な付帯的条件の整備をも行なった上での事ならば、「不適格」な教員をチェックするための手段は必要かもしれない。極端な話、「1+1は3ですよ」とか「中国の首都は上海ですよ」とか教える教員が居たら論外だが、この更新制度の狙いは、もちろんそんなところにはなく、曖昧な「指導力」が問われることになる。教育職員免許法改正案は、次のように定めている。
「第九条の二 免許管理者は、普通免許状又は特別免許状の有効期間を、その満了の際、その免許状を有する者の申請により更新することができる。」

 教員免許を有する者は十年ごとに免許管理者(一般に、都道府県教育委員会)へ更新を申請して講習を受けるのだが、申請した者が全員講習を受けられるわけではない。ここが肝心。
「第九条の三 第四項 (略)公立学校の教員であつて教育公務員特例法(昭和二十四年法律第一号)第二十五条の二第一項に規定する指導改善研修(以下この項及び次項において単に「指導改善研修」という。)を命ぜられた者は、その指導改善研修が終了するまでの間は、免許状更新講習を受けることができない。
第五項 前項に規定する者の任命権者(免許管理者を除く。)は、その者に指導改善研修を命じたとき、又はその者の指導改善研修が終了したときは、速やかにその旨を免許管理者に通知しなければならない。」(任命権者とは、一般に、都道府県教委または政令市教委)。

 では、「指導改善研修」とはどのようなものであろうか。教育公務員特例法改正案の該当箇所は、以下の通り。
「第二十五条の二 公立の小学校等の教諭等の任命権者は、児童、生徒又は幼児(以下『児童等』という。)に対する指導が不適切であると認定した教諭等に対して、その能力、適性等に応じて、当該指導の改善を図るために必要な事項に関する研修(以下『指導改善研修』という。)を実施しなければならない。」
「第二項 指導改善研修の期間は、一年を超えてはならない。(略)」
「第四項 任命権者は、指導改善研修の終了時において、指導改善研修を受けた者の児童等に対する指導の改善の程度に関する認定を行わなければならない。」
「第五項 任命権者は、第一項及び前項の認定に当たつては、教育委員会規則で定めるところにより、教育学、医学、心理学その他の児童等に対する指導に関する専門的知識を有する者及び当該任命権者の属する都道府県又は市町村の区域内に居住する保護者(親権を行う者及び未成年後見人をいう。)である者の意見を聴かなければならない。」
「第七項 前各項に規定するもののほか、指導改善研修の実施に関し必要な事項は、政令で定める。」
「第二十五条の三 任命権者は、前条第四項の認定において指導の改善が不十分でなお児童等に対する指導を適切に行うことができないと認める教諭等に対して、免職その他の必要な措置を講ずるものとする。」

 アリバイ作りのように「専門的知識を有する者」や「保護者」の意見を聴くと付け加えてはいるものの、ごくごく噛み砕けば、教育委員会が「指導が不適切」と認定した教員に関しては更新講習を受けさせず、代わりに一年以内の「指導改善研修」を実施し、それでも改善が見られなければクビにする、しかも、その「指導改善研修」のやり方は内閣による「政令」で定めるというのである。こんなシステム、別に日教組だの日の丸・君が代の是非だの歴史教育のあり方だのを持ち出すまでもない、“お上”の方針に逆らったらオールマイティーな「指導が不適切」との一言による烙印を捺《お》されて免許は取り上げ、食って行けなくなるぞ(なりかねないぞ)と恒常的に脅されるに等しいではないか? しかし、安倍首相によれば、これは「教員が常に変化する世界の価値観や最新の知識を身に付け、自信を持って教壇に立つため絶対必要」(5月2日付『サンケイ・ウェブ』)なものなのだそうだ。こんな法律が悠々と成立しようとしているのである。
(2007.6.2)