今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

土井たか子=朝鮮(帰化)人という、性質《たち》の悪い話

大西 赤人       



 我々は、「フランス人」とか「メキシコ人」とか「イラン人」とかというような呼び方を普通に用いる。それらは、「××」という国の――国籍を持つ――人間を表す場合が基本であろうけれど、「アラブ人」や「ユダヤ人」のように民族を指す場合も混在している。特に米国の場合などは、“人種のるつぼ”という表現が用いられるごとく、そもそもヨーロッパ人によって“発見”された新大陸へ移り住んだ人々が――昔はインディアンと総称されていた――先住民を制圧してアメリカ合衆国を作り上げたわけだから、民族的な意味合いで固有の「アメリカ人」は存在しないことになる(加えて、人種と民族とは、同じ概念ではない)。そこで、「中国系アメリカ人」とか「イタリア系アメリカ人」とかの言い方も出てくるのだが、考えてみれば、ここで冠されている国名も確実なものとは言いがたい。たとえば「中国系」とした場合、もちろん現在は「中国」国籍ではなく、“過去に中国という国から移住した人々の子孫”との意味合いになるけれども、たとえば漢民族なのか蒙古民族なのかについては、「中国系」だけでは見当がつかない。「ユダヤ系アメリカ人」というような言い方も、それだけでは、その人の出身地域については何も判らない。

 本来、米国ならば、先住民たるインディアンが「アメリカ」民族に該当するわけで、従って、近年では「ネイティヴ・アメリカン」という言い換えも広まっているけれど、これはこれで、アメリカという――探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんだ後天的な――名称に則っているものだから、先住民自身の間でも、むしろインディアンのほうが由緒正しい呼称とする見解もあるらしい。もっとも、そうなると、元を辿《たど》ればコロンブスたちが新大陸を東アジア(インド)と勘違いしたがゆえのインディアンなる呼び方を用いることは妥当なのかという疑問も出てくるだろうから、なかなかもって難しい。

 個人の人間性を形作る要素は何かを考えれば、その民族性――いわゆる“血”よりも、生まれ育った環境がもたらす影響のほうが大きくても不思議はない。しかし、どんな社会に育っても、自分の根源を固有の民族性に求める場合もある。要するに、国籍や民族に過度にこだわる必要も必然も本当はないはずと思うのだが、自らに何がしかのアイデンティティーを求める時、それらに頼ろうとする心情は根強い。とりわけ日本においては、“我が国は世界でも珍しい単一民族国家である”というような俗説が、時には意図的・政治的な色彩をも帯びつつ語られる。たしかに“人種のるつぼ”と較べれば言語や習俗の均一性は高いとしても、アイヌや琉球民族の存在は言わずもがな、昔も今も他国から日本に帰化した人々だって数多いのだし、これだけ国際交流が容易となっている時代において、わざわざ“我が国は……”と胸を張ることに取り立てて大きな意味もなさそうなものだ。

 ある人物、とりわけ著名人に関して、そのプライバシーを人々が知りたがることは好奇心の自然な働きだが、それが生まれ育ち――出自を探ろうとする類《たぐい》の下劣な覗き趣味につながると弊害が生じる。事実、インターネットの世界では、“○○は実は在日(または帰化)韓国人・朝鮮人だ”“□□は実は被差別部落出身者だ”というような――しばしば根も葉もないものを含んだ――書き込みが幾らでも見つかる。それらは、いわゆる「有名税」にも等しい洗礼とさえ感じられるのだが、当然ながら、そこに籠められたものは対象を貶《おとし》めようとする悪意的な感情である。

 特に最近では、いわゆる「嫌韓」的風潮との相乗作用により、相対的に進歩派ないし左翼と位置づけられる人々に向けられる“あいつらは「在日(または帰化)」だから、あんな反日的な言動に走るのだ”という文脈の誹謗中傷が目立つようになった。社民党の土井たか子元党首、福島瑞穂現党首、辻元清美衆議院議員、あるいは、筑紫哲也、佐高信、本多勝一というようなジャーナリスト諸氏に関して検索すると、それぞれの朝鮮名や帰化年月日まで記したまことしやかな言及が幾らでも引っかかる。この種の書き込みでは、 “あそこにこんな話が載っていました”という形でどこかの記事がコピーアンドペースト(つまりは検証抜きの丸写し)されることによって増殖し、その数的蓄積により、あたかも内容の真実性が担保されているかのように拡大するという共通した特徴がある。

 帰化した人物については、国籍法第十条「法務大臣は、帰化を許可したときは、官報にその旨を告示しなければならない」により官報への記載が義務付けられているから確認は可能であるにもかかわらず、その根拠は示されることのないまま風聞のみが拡大して行く(そもそも、仮に「在日」の身を秘匿して日本人のフリをしているという非難ならば百歩譲って幾らかの意味があるとしても、帰化した人物は当該時点で完全に日本国籍=日本人になっているのだから、だからどうしたという話である)。このような“攻撃”が成立する大きな理由は、両者――日本人と韓国人・朝鮮人、または、非・被差別部落出身者と被差別部落出身者――の間に顕著な(外見的)区別がない、区別しようがないことだろう。また、だからこそ、仮に全くのデタラメであってさえ、“もしかしたら?”とか“火のない所に煙は……”とかの邪推を惹き起こすことになる。

 ここまでに「根も葉もない」や「全くのデタラメ」などの形容を用いたけれども、この問題は非常に微妙かつ厄介な側面を持っている。改めて言うまでもなく、一人の人物が(帰化を含む)在日韓国人・朝鮮人であろうと被差別部落出身者であろうと何らの不都合もなく、引いては、上に述べたような風聞が真実であろうと虚偽であろうと、本来は何の意味も持たないはずだ。けれども、残念ながら現実の世の中には、それらの人々に対する明らかに誤った社会的な偏見・差別が存在し、だからこそこのような揣摩《しま》臆測が一定の攻撃性を伴って陰湿に語られる。そして、無責任に言い立てる側は、“もしも噂が事実と異なるならば、ただ堂々と否定すればいいだけのことじゃないか”という具合に平然と居直る。

 たしかに、こういう光景を見ていると、『真実と異なるのであれば、言われっ放しではなく、何らかの形でキッパリと事実関係を明らかにしたほうがいいだろうに』と感じたりもするが、インターネット上の無数の書き込み個々に反論することなどは、ほとんど不可能である。また、戸籍の記載に関してさえ、何かしらの作為は可能というような重ねて穿《うが》った見方も呼び招く。その上、いざその当事者が、風聞が誤っていることを弁じようとすると、今度は“おまえは人から朝鮮人や部落出身者と思われることがイヤなのか。それは、おまえ自身が偏見・差別を抱いている人間である証拠だ。だから必死になって否定しようとするのだ。もしおまえがそういう偏見・差別を抱いていなければ、別に誤解されても構わないはずじゃないか”と逆ねじさえ食わされかねない。

 とはいえ、公刊物に発表されたとなれば、また自ずから事情が異なる。先頃、この種の臆測を数多く向けられている典型的な一人・土井たか子氏が、同様趣旨の記事を掲載した雑誌を名誉毀損で訴えたという。

「月刊誌『WiLL』が社民党元党首の土井たか子氏が朝鮮半島出身であるかのような記事を掲載したことに対し、土井氏は18日、事実に反し、信用や名誉などを毀損(きそん)されたとして、発行元のワック・マガジンズ(東京)と代表者らを相手取り、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを神戸地裁に起こした。
 訴状によると、同誌は06年5月号に掲載した論文『拉致実行犯辛光洙(シン・グァンス)釈放を嘆願した“社民党名誉党首”』の中で、『土井氏は知る人ぞ知ることではあるが、本名「李高順」、半島出身とされる』などと言及した。土井氏側は『事実無根の捏造(ねつぞう)記事で、土井氏に対する取材に基づかない一方的な推測で作成したものだ』と主張している」(4月19日付『アサヒ・コム』)

 土井氏に関しては、従来から神戸の医家の生まれであるとして風聞の事実無根を指摘する見方も多々あるのだが、繰り返すように、その真偽をここで論じようとは思わない。ただ、案の定、この訴えに関連しては、言わば土井氏に対するおためごかしも含めた書き込みが続出している。幾つかを拾えば……。

「土井さんよ、出自が朝鮮系だったら、あんたにとってなんかまずいのか? 別にええやないか、正直に言えば。で、『信用や名誉などを毀損』ってのは、なんやねん? あんたも差別主義者か」
「『朝鮮半島出身』言われたとしても何で『名誉毀損』なの? 出生地や親の出身地は子供は選べないわけだから、仮にも『朝鮮半島出身者』で元『在日朝鮮人』だったとしても、『日本人』であることには変わりないのだから、堂々として良いと思います」
「日本より朝鮮寄りと目されている人物が、朝鮮人と言われることに対して名誉毀損とは」
「朝鮮半島出身だと信用や名誉などを毀損されるのか」
「朝鮮半島出身といわれたら信用や名誉毀損になるそうだ。朝鮮人が聞いたら怒るぞ(笑)」
「もしも彼女はフランス人でミッシェル土井だといわれたなら果たして告訴するでしょうか。ついに馬脚を現しました」

 土井氏の過去の――とりわけ北朝鮮に関連した――政治家としての言動に関しては、評価は分かれるところであるとしても、それはまた別個の問題。もしも、ある人物にマイナス・イメージを与えるべく、明確な根拠もないまま犯罪者と断言して非難すれば、当然、名誉毀損になるだろう。土井たか子=朝鮮(帰化)人という断言は、間違いなく、現に存在している社会的偏見・差別を追認し、これに基づくマイナス・イメージを喚起するために行なわれている。しかし、その断言を土井氏が否定しようとすると、今度は、それは彼女自身が偏見・差別の持ち主だからこそだとされる。あるいは、こんなふうに書くと、この僕の文章自体も、“おまえは、朝鮮人であることを犯罪者と同じと見なしているのか。馬脚を現わしたな”という具合に趣旨をネジ曲げられてしまいかねない。結局は、言った者勝ち、全く性質《たち》の悪い話である。
(2007.5.16)