今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

新たな薬害の可能性が指摘されている薬剤、インフルエンザ治療・予防薬タミフル

大西 赤人       



 六代目三遊亭圓生が得意だった落語――『死神』を御存じだろうか。貧乏な男の前に死神が現われ、他の死神たちの姿が見えるように彼に呪《まじな》いをかけ、医者になれと勧める。病人の枕元に死神が居たら助からないが、足元に居れば呪文を唱えて追い払うことが出来るというのだ。男は言われる通りに医者の看板を出し、往診をしては死神の姿(位置)を見極め、その上で呪文を唱えて全快させるか「寿命」を告げるか百発百中の御託宣を続けて名医の評判を得る。けれども、放蕩を尽して金を使い果たした上、呼ばれるところ、死神が枕元に居るケースばかりになってくる。そんなある時、大店《おおだな》の隠居を何とか助けてくれと頼まれた男は、謝礼の大金に眼が眩《くら》み、枕元で居眠り(!)をしている死神の隙を見て、家の者に病人ごと布団の向きを引っくり返させる。そして素早く呪文を唱えると、病人の足元に位置が変わった死神は仰天して退散。男は大金を得るのだが……。その先には、ジンワリと恐い結末が待ち構えている。

 「薬石効なく」という表現がある。この「石」とは、古くは石で作っていた鍼《はり》のことだそうで、要するに、“薬も療法も、あらゆる手を尽した甲斐なく”という意味だが、まあ、昔の医師が現実的に用いる手段はごく限られており、たとえ死神の姿は見えずとも、望みがなければ匙を投げる、心臓が止まれば臨終を告げる、その宣告は簡潔かつ絶対のものであったろう。また同時に、病人の求めるものも限られていたのではないかと思われる。しかし、科学技術の進歩に伴なって医学の掌握すべき領域がすさまじく拡大した現在では、医療側の扱い得る薬剤や治療手段は膨れ上がり、必然的に患者(家族)側の期待する成果――健康回復の範囲・程度も果てしなく大きくなっている。もちろん、“不治の病などという言葉も存在するとはいえ、基本的には、病院に行けば、手術をすれば、薬を使えば、病気は治されるはず(すべからく治されるべし)、健康は取り戻されるはず(すべからく取り戻されるべし)、死は避けられるはず(すべからく避けられるべし)と考える人が大半なのではないだろうか。

 実際には、総ての治療行為は必ず長所と短所とを併せ持っており、常にその恩恵のみを享受《きょうじゅ》することは不可能と言われる。ある知人の医師は、“一般的に治療は、「有効、安全、利便」という順序で進む”と述べていた。この一番目と二番目の序列は注目に値する。即ち、治療の第一義として求められるものは、病害に対しての効果であり、安全性ではないのだ。これは単純な話で、要するに薬剤や治療手段に期待し得る効き目が乏しければ、そんなものを実施することに意味はなく、人体にとって、薬剤は不自然な異物の摂取となり、治療手段は不必要な侵襲《しんしゅう》となってしまうだろう。仮に悪影響をもたらすには至らないとしてさえ――精々、気休めによる不確実な価値なりを想定しない限り――文字通り「毒にも薬にもならない」無駄である。大きなメリットが計算されるからこそデメリットに眼をつぶる余地が生じることは、今更ここで抗がん剤の典型例を持ち出すまでもなく、明らかだろう。しかし、より一般的な個々の薬剤や治療手段における長所と短所があまねく――医療者側、患者側双方の立場で――計量、共有、把握されているかとなれば極めて怪しいわけで、その結果、デメリットが表面化した際には、一段と深刻な事態となる。

 出産時や手術時の異常出血に対する止血目的で投与された血液製剤(フィブリノゲン製剤、第九因子製剤)によってC型肝炎ウイルス(HCV)に感染した被害者が、国や製薬会社に損害賠償を求めて全国五つの地裁で起こした「薬害肝炎訴訟」のうち、東京訴訟の判決が3月23日にあり、国や製薬会社の責任が一部認められ、賠償命令が下った。しかし、2006年の大阪訴訟判決、福岡訴訟判決に較べて国の責任の及ぶ時間的範囲は狭まっており、厚生労働省は一部敗訴にもかかわらず「判決をむしろ『前進』と受け止めた」(24日付『朝日新聞』)とも報じられている。

 病苦に苛《さいな》まれる被害者の救済は間違いなく最重要課題とはいえ、その解決を原告・被告双方の利害を闘わせる訴訟の判決に求めては、本質的な物事の是非や因果関係までが十全に解明されるとは限らず、歪《ひず》みも現われる。「薬害肝炎」から遡《さかのぼ》れば、「薬害エイズ」が想い起こされるけれども、この悲惨な出来事の原因は、世間的には、“産・官・学の癒着”という単純で判りやすい見方が定着し、より精密な分析が十分に行なわれたとは言いがたい。今回の「薬害肝炎」においても、「産科出血研究の第一人者で、止血剤としてのフィブリノゲンの普及に力を尽くした」品川信良・弘前大名誉教授による以下の発言などは、その揺らぐ心情を表わすとともに、単純な図式化では収まらない状況を物語っているように思われる(同前『朝日』)。

「フィブリノゲンで多くの産婦の命が救われたと今も確信している。しかし、『もっと適切な対応はなかったのか』と、じくじたる思いもある」
「安易な使用が広まったのは輸血や医療体制の不備など、構造的な問題が絡んでいる。訴訟で解決する問題ではない。もっと広い視野から発言したい」
「医療には光と影がある。裁判で過失の有無について白黒つけなくとも、傷ついた患者を救済する『無過失補償制度』のような仕組みが必要だ」

 そして今、新たな薬害の可能性が指摘されている薬剤として、インフルエンザ治療・予防薬タミフルがある。我が国では2001年に保険収載され、新型インフルエンザの流行に対処すべく2005年末には2500万人分が備蓄とメディアでももてはやされたこの薬については、同年11月にFDA(アメリカ食品医薬品局)が、日本のみで発生した小児患者12名の突然死、心配停止などによる死亡例を公表。ただし、因果関係の特定は困難とされ、厚生労働省も格別の対応を取ろうとはしなかった。しかし、その後も服用者の異常行動例が続発。本年に入り、愛知や仙台で服用後に転落死した中学生が連続したことから、同省は、「現段階でタミフルの安全性に重大な懸念があるとは考えておりません」「タミフルと死亡との関係は否定的とされている」(2月28日付の医療関係者向け文書)としながらも、詳細な調査の継続に加え、10歳以上の未成年の患者には原則として使用を差し控える旨の警告を添付文書に加えること、その趣旨の緊急安全性情報を出すことを発売元の中外製薬に指示した。

 異常行動に関しては、同剤の副作用ではなくインフルエンザ脳症などが原因ではないかとの見方もあるけれども、タミフル未投与群と投与群とで有意な差は出ていないとの報告をまとめた研究班班長及び班員の講座あてに中外製薬からそれぞれ1000万円、600万円の奨学寄附金(教育研究の補助を目的とする企業や個人からの寄附金)が供与されていたため、報告の中立性に対する疑問視も出ている(当該研究者らは、当然ながら公正を主張しているが、厚生労働省は研究班員の入れ替えを決定)。また、以前の「タミフルは01年2月の国内発売以来、のべ約3500万人が使用した。昨年までに服用後の死亡が報告されたのは54人で、転落などの異常行動で亡くなったのは3人」(2月28日付『アサヒ・コム』)という数字も、直近の報道では「01年2月の発売以降に報告があった約1800件の副作用のうち、異常行動につながる心配のある『精神・神経症状』(意識障害や異常行動、幻覚、妄想など)が少なくとも約280件あったことが24日、朝日新聞の調べでわかった。10歳未満の子どもの例も20件以上報告されていた」(3月25日付『アサヒ・コム』)と揺らいでいる。日本一国の使用量が世界全体の7割前後を占めていることへの批判も少なくないが、一方では、使われていない諸外国のほうこそ問題とする評価もある。実際、僅か一年半足らず前には、次のような論調の記事が出ていた。

「インフルエンザ治療薬『タミフル』を服用した日本人の子供で死亡例が相次いでいると米食品医薬品局(FDA)が報告した。タミフルは新型インフルエンザの重要な対応策として日本をはじめ各国が備蓄を進めており、死亡例と服用とを結びつけて、タミフルをいたずらに危険視するような事態は避けたい」(2005年11月19日付『読売新聞』)

 同様の見解は――いささか押され気味になりつつも――現在でも少なからず唱えられているし、海外では、当面、日本での事例を重要視してはいないようである。異常行動の原因がタミフルの副作用であるならば、その使用抑制によって異常行動は減るはずだが、もしもそれがインフルエンザ自体の影響である場合には、使用抑制によって逆に増加する危険性も想定されるのだから、不確定な時点で判断を下すことには非常な困難を伴なわざるを得ない。データの正当な解釈は僕の任では全くないけれども、先述の寄付云々に留まらず、タミフルを開発した米国のバイオ企業ギリアド・サイエンシズ社の元会長で大株主がラムズフェルド元国務長官であるという話などを知ると、タミフルもまた、例によっての“産・官・学の癒着”という構図の中に収斂《しゅうれん》してしまうのではないかとの疑念に駆られる。結局、このような問題は、いわゆるインフォームド・コンセント(チョイス)――十分な情報を提供された上での患者の同意(選択)――のあり方に突き詰められるのだが、これもまた一筋縄では行かない。いや、むしろ一筋縄では行かないからこそ、安易な図式化によって通り過ぎているという印象を否めない。

 3月23日付『朝日新聞』の「天声人語」は、タミフルに関連して、こんなふうに記していた。
「(略)医師は魔術師のような色彩が濃かったが、医学を科学として確立したのがギリシャのヒポクラテスだった。この『医学の祖』の時代から現代までに、医学、医療は大きな進歩をとげた。
 その現代医療の現場が、一つの薬の使い方を巡って混乱しかねない状態に陥った。インフルエンザ治療薬『タミフル』を服用した10代の患者を中心に、飛び降りや転落といった異常な行動が指摘されている。厚生労働省は、原則として10代の患者には使わないこととしたが、10歳未満ならいいのかといった疑問や戸惑いが起きている」
「ヒポクラテスは『病を治すものは自然である』という説を立てたという。治療法として自然の回復力を重んじつつ、病人や症状についての注意深い観察の大切さを説いた。
 ひとりひとりの患者の症状をよく診る。そしてその患者にふさわしい処方をすることを、現代のヒポクラテスたちには期待したい」

 医学にまつわる事件が起きると、お約束のようにヒポクラテスないしヒポクラテスの誓いが持ち出される。「薬害エイズ」で巨悪に擬された故・安部英医師に関しても、“ヒポクラテスに愧《は》じないのか”というような論調はしばしば眼に留まった。しかしながら、大雑把な言い方にはなるが、ヒポクラテスとは、現代医療の依るべきところとなりつつあるインフォームド・コンセント(チョイス)とは対極に位置するパターナリズム(父権主義、父親的温情主義。患者は医師に全権を委ね、医師はその責任を果たせばよろしいとする考え方)の象徴とされる存在である。つまり、医療に関してヒポクラテスを理想と見做《みな》すことは、実は、変わりつつある現代の医療の姿を昔ながらのままにしておけという話になってしまう。あえて筆者がそれを意図しているのであれば別だが、上のような言及もまた、本質的解決には遠い安易な図式化の一例なのではないだろうか。
(2007.3.31)


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