今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「クラスター爆弾に関するオスロ宣言」

大西 赤人       



“戦争とは政治の継続である”あるいは“戦争は外交の一手段である”――しばしば用いられるこのような表現は、19世紀ドイツ(プロイセン)の軍人だったクラウゼヴィッツの有名な『戦争論』の中に登場する言葉とされる。これを援用し、反戦的な主張に対して、“そもそも戦争とは、対外的な駆け引きにおけるカードの一枚なのだ”と戦争の意義・有効性を主張する人も少なくない。しかし、僕などはインターネットであれこれ調べただけの全くの一知半解に過ぎないながら、元々クラウゼヴィッツは、あくまでも政治を戦争よりも優位の概念として捉えており、戦争(の実行)を積極的に認めていたわけではないように思われる。

 しかも、クラウゼヴィッツの理論が現代に通じる一面を持っているにせよ、ナポレオンの時代と核兵器の時代とでは、戦争の規模――より実質的には、それによってもたらされる人的被害、加えて物的被害の規模――があまりにも違い過ぎる。ところが、世間には、それこそ「国際紛争を解決する手段」として戦争を選択しようと考える人々が珍しくなく、要するにそこでは、たとえ人的被害であっても数的“歩留まり”として捉えられる。つまり、5失点しても6得点、10失点しても11得点すれば勝ちは勝ちなのであり、絶対的な損失――具体的に言えば、死傷者個々の実人生における大きさ・重みは無視ないし軽視される(むしろ、無視ないし軽視されざるを得ない)。即ち、よく言われる“公”と“私”との対立が究極に達する姿が戦争ということになるだろう。

 レーガン政権時代に米国が開発を推進した中性子爆弾(放射能強化弾頭)は、“綺麗な核”と言われた。いわゆる昔ながら(?)の原水爆は、あまりにも破壊力が大きく、また事後における放射能の影響も大きいため、進撃・占領する側にもデメリットが生じる。その点、中性子爆弾ならば、戦車や艦船の金属装甲をも透過する中性子線による殺傷力を有しながらも、放出される熱エネルギーは少ないため、建造物などのインフラ設備を破壊する割合が小さく、また、残留放射能も抑えられる。つまり、人を殺すだけで物は壊さないから“綺麗”という話なのだが、ここまで欺瞞的な表現もないだろう。

 効率よく人的被害をもたらすための兵器としては、クラスター爆弾(集束爆弾)も挙げられる。航空機から投下された親爆弾が空中で破裂すると、数個から数百個の子弾(爆弾や地雷)が広範囲に散らばり、地上の人員にダメージを与える。言ってみれば極めて大がかりな散弾銃である。この種のものは、既にベトナム戦争の時代からボール爆弾――親爆弾が地上に落ちて爆発すると300発の子弾が飛び出し、それらがまた爆発しておのおの直径数ミリの金属球数百個を銃弾以上の速度で飛散させる――が投入されていたのだが、その後、旧ユーゴ、アフガニスタン、イラク、レバノンなど多くの戦闘地域において、クラスター爆弾は各国軍により大量に使用された。

 従来、国際赤十字や各国NGOは、この爆弾を民間人をも無差別に殺傷する非人道的な兵器と批判し、使用禁止を訴えてきた。その大きな理由として、直接の威力もさることながら、子弾の不発率が数%から数十%に達し、これによって残る不発弾が戦闘終結後に爆発して新たな被害をもたらしつづけることが指摘されている(もっとも、この不発率の高さは、敵側への影響を長期化させるための意図的な設計と解す見方もあるようだ)。「非人道的な兵器」というが、それじゃあ、そもそも「人道的な兵器」とは何ぞやという気もするけれども、海外では、神経組織が発達しているとされる甲殻類を生きたまま茹でるべからず――前もって一気に息の根を止めるべし――という国もあるらしいから、人間にしても、ジワジワ長引かせず瞬時に殺せば「人道的」なのだろう(もちろんここでは、国際赤十字や各国NGOの意図を茶化しているわけではない)。そして先頃(2月22、23日)、ノルウェー政府の主催により、同国の首都オスロにおいて、「クラスター(集束)爆弾の使用や取引・備蓄を禁止する包括的な新条約制定を目指す国際検討会議」(2月22日付『読売新聞』)が開催された。

 主要な生産・保有国である米国、ロシア、中国、イスラエルなどは不参加ながら、日本、英国、ドイツ、フランスはじめ世界49ヵ国、国連、国際赤十字、NGOが出席。日本、ポーランド、ルーマニアを除く46ヵ国の賛同により、クラスター爆弾の使用、生産、移動、貯蔵の禁止などを盛り込んだ法的拘束力を持つ国際文書締結を2008年末までに実現する――そのために今回同様の会合を重ねる――との「クラスター爆弾に関するオスロ宣言」が採択された。もっとも、宣言自体に強制力はなく、廃絶に積極的な国々の主導による国連の枠を超越した取り組みに対して、思惑も様々。

「日本代表の平野隆一・外務省通常兵器室長は『議論の進め方、方向性について立場を決める状況にない。今回は主に人道的な観点だったが、安全保障上の問題について議論することも必要だ』と話した」
「クラスター爆弾の一律的な禁止に消極的な英国やフランス、日本などは『禁止するクラスター爆弾の種類の精査が必要』と主張。そのため、宣言では対象を『民間人に受け入れがたい苦痛を与えるクラスター爆弾』として具体的な中身は今後の検討に委ね、英仏は賛成に回った。
 当初案には、条約締結までの間、クラスター爆弾の使用・移送を禁じる国内法整備などを検討することも盛り込まれたが、一部の国が難色を示したため見送られた」(2月23日付『アサヒ・コム』)

「日本は『安全保障や技術面などの議論から何が必要な措置か考えるべきだ。現状では判断を避けたい』として、宣言に対する態度を留保した。ポーランドは、既存の国連の枠組みを重視することを留保の理由に挙げた」(同『毎日インタラクティブ』)

「日本は会議に代表団を派遣したものの、『安全保障上の問題も含め、クラスター爆弾をめぐる議論が十分に尽くされたとは思えない』(平野隆一・外務省通常兵器室長)との立場を強調。クラスター爆弾が抱える人道上の問題点には懸念を表明しながら、有志国のみが先行する条約制定の動きに慎重な姿勢を示した。ポーランド、ルーマニアも宣言参加を見送った」(同『読売オンライン』)

 日本においても、航空自衛隊がクラスター爆弾を保有しているけれども、当然、それは攻撃を意図せず、防衛のためとされている。小泉親志参議院議員(共産党)の「クラスター爆弾に関する質問主意書」に対する2003年2月19日付の政府答弁書は、次のように説明する(防衛省ホームページより)。

「【米国の使用について】アメリカ合衆国は、クラスター爆弾の投下に当たっては、その特性にかんがみ、注意深く目標を選定し、民間人が巻き添えになることを防ぐよう努めてきたものと承知している。
 しかしながら、投下時に爆発せずに残ったクラスター爆弾の子爆弾により民間人に大きな被害が出ているとすれば、それは憂慮すべきことであると考えている」
「【保有目的について】自衛隊は、敵の着上陸侵攻に対処するため、通常爆弾では撃破できないような広範囲に展開した侵攻部隊の車両等を撃破し得る能力を持つことを目的としてクラスター爆弾を保有している」
「【投下訓練について】自衛隊においては、クラスター爆弾を投下する訓練は実施していない」

 このような日本政府の姿勢、及び、今般の「オスロ宣言」不賛同については(あえて)論じないが、どうにも気になった点は、同宣言の“肝”とも言い得る次の部分だ。

「受け入れられない被害を民間人に及ぼすクラスター爆弾の使用、生産、移動、貯蔵を禁止する」(2月25日付『しんぶん赤旗』)。
「受け入れられない被害」あるいは「受け入れがたい苦痛」(『朝日』)……。原文は“unacceptable harm”であり、これは、全面禁止に消極的な国々をも宣言に巻き込むために工夫された宥和《ゆうわ》的な文言に違いない――それでさえ、日本などは加わらなかったわけだが。しかし、では、民間人が「受け入れられる被害」あるいは「受け入れ得る苦痛」とはどのようなものなのか? “綺麗な核”ではないが、何の自覚とてないまま瞬時に命を奪われでもするのならば、皆、甘んじて受け入れるというのだろうか?

 「オスロ宣言」に対して、アメリカはすぐに反発を表している。

「米国務省のマコーマック報道官は23日、クラスター(集束)爆弾の使用禁止を求める声が国際的に高まっていることに対して、使用禁止に反対する姿勢を鮮明にした。
 同報道官は、クラスター爆弾は技術的に有効であり、正しい使用条件に基づいて保有と使用を続ける考えを示した。さらに、既にクラスター爆弾を技術的に向上させる方策を取ったほか、どのように使用すべきかを注意深く検討していると強調した」(2月24日付『時事通信』)

 「正しい使用条件」に基づく使用とは、要するに「正しい殺し方」であり、言い換えればそれは、さしずめロブスターやカニの料理法と大して変わりがないということなのだろう。
(2007.3.7)


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