今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「少子(高齢)化」問題のいかがわしさ

大西 赤人       



 司会・みのもんたの「ファイナル・アンサー!?」という決まり文句が有名な『クイズ$ミリオネア』(毎週木曜・フジテレビ系)の15日放送回で、女優・紺野美沙子が最高賞金1000万円を獲得した。1000万円がかかった最後の問題は、最近話題の「少子化」にちなんだ「日本の人口を、現在の人口推移で計算すると、西暦3000年の(日本の)総人口は何人?」というもので、回答の選択肢は「A:29000人 B:2900人 C:290人 D:29人」の四つだった。要するに、人口統計上の指標である合計特殊出生率(一人の女性が一生に生む子供の数)が2.08を下回れば、総人口は減少傾向となり、近年の日本のそれは、2003年が1.2905、2004年が1.2888、2005年が1.26というから、仮に、この数字が今後の約1000年に渡って続けば、累乗《るいじょう》が重なってどこまで減るのかという話である。僕は、最近、「少子化」に関連する何かの記事か番組かの中で、同じような計算による“×百年後の日本人は、たった○○人”というような話をたまたま見かけた記憶があったため、多分、答は「D:29人」ではないかなと思って見ていたら、やはりその通りだった。

 たしかに「29人」という結果は衝撃的だが、現在の出生率が継続するという保証は全くない――何かしらの拍子に再び上昇するかもしれないし、無論、もっと低下して減少が一層速まるかもしれない――し、「日本人」という概念自体不確定だし、そもそも1000年後なんて、世の中どうなっているか判らないという気にもなる。従って、ひとまずこれは数字のお遊びのようなものであるとしても、今までにも何度か触れた事ながら、この「少子化」という状況が、どれほど深刻な――憂慮すべき――問題なのか、以前から僕には理解しがたいところがある。

 昔、小学校だったか中学校だったか、社会科のテストで、年齢別の男女人口比を棒グラフで左右に伸ばした国々の図表――いわゆる“人口ピラミッド”――が並び、その特徴的な形状によって、どこのものかを答えるというような問題があった。底辺(低年齢)の棒が長く、上辺(高年齢)に行けば行くほど短くなるピラミッド型ないし富士山型は概《おおむ》ね開発途上国のもの、一方、中ぶくれの釣鐘型や壷型は同じく先進国のものと見分けさせられた。当時(1960年代中盤から後半)、日本の姿は、まだ前者に近かったわけだが、今では完全に後者の仲間入りを果たし、以前から予想されていた到達点であるにもかかわらず、ここに至って、言わば誰も彼もが、まるで日本の滅亡も近いかのように「少子化」とそれに並存する「高齢化」を憂えているかに見える。

 しかし、上に述べた通り、これは寿命の延長や社会生活の変化による必然的かつ一時的な到達点である(なぜ“一時的”かと言うと、仮に現在の出生率が継続するならば、人口ピラミッドは、上辺と下辺の差が小さく、長方形に近い台形へと次第に収斂《しゅうれん》するだろうから)。とりわけ、前時代的な価値観に基づき、すべからく女性は家庭に生き、次々に子供を産んで子育てに勤《いそ》しむべしと定めるならばともかく、女性の社会進出を前提とする以上は――今のところ、どう転んでも、男性が子供を産んだり、(柳澤厚労相の“迷言”とは異なる正真正銘の)「機械」に子供を産ませたりすることは不可能なのだから――「少子化」は避けがたい流れのはずで、その絶対要素はスルーしながら、表面的な数字の変遷ばかりを捉えてあげつらうことにどれほどの意味があるのか? 言うまでもなく、子供を産む・産まない(持つ・持たない)という選択は、極めて個人的な決定であり、国家を筆頭とする他者に口出しされる問題ではない。他者に求められるものは、個々人に産みたいという意思がある場合にのみ、それを支援し、環境を整備する役割だけであろう。ところが、現在の「少子(高齢)化」は、年金の削減とか労働力の減少とか、主に当事者以外の思惑によって言挙《ことあ》げされているように見える。

 インターネットを巡っていたら、原田泰氏(大和総研 チーフエコノミスト)による「人口減少は『経済成長』『幸せな社会が続いた』証拠」と題する文章を見つけた(2005年10月13日付『NIKKEI NET』「ビジネスコラム」欄)。原田は、次のように書き起こす。

「日本の人口が減少し、高齢化していく。このことを多くの人々が心配し、政府も対策を声高にかたるようになった。しかし、人口が減り高齢化するのは日本だけではない。米国を除く先進工業国の人口も減少していく。例えば、イタリアではすでに人口が減少し始めている。ドイツでも人口が減少する。出生率の低下に歯止めをかけることに成功したとされるスウェーデンやフランスでも、日本よりはずっと緩やかではあるが、やはり人口は減少していく。先進国の中で、合計特殊出生率(1人の女性が一生に生む子供の数)が2を越えているのは米国だけである」

 韓国、シンガポール、台湾、ブラジル、ロシア、インド、そして中国まで含めて、「先進国、とりわけ経済発展に成功した国の多くで人口が減少」し、併せて、高齢化率(65歳以上人口の総人口に占める比率)は上昇する。それから、「人口が減少することは実は贅沢な悩みなのだ」として、原田はこう続ける。

「多数の若い世代が少数の高齢世代を支える社会は、実はそう楽しいものではない。現在の少子化・人口減少に関する論議のほとんどが、多数の若い世代が少数の高齢者をささえるような社会であれば安心だと考えているようだ。
 確かに子供の数が減り、人口ピラミッドが逆転すれば、高齢社会を支えられなくなる、という心配は当然だ。しかし、男女の人口を左右に、年齢別に下から上に横棒で書いた人口分布グラフがピラミッド型になっているということは(1)人口がとてつもなく増えていった(2)疫病、天災や戦争人間があらゆる年齢で次々と死んでいった――のいずれかが原因だ。
 乳幼児ははしかで死に、子供は天然痘で死ぬ。若者は結核で死に、中年はインフルエンザでもコレラでも栄養失調でも死んだということだ。毎年、洪水や地震で多くの人が死に、絶え間ない戦争で多くの命が失われる――これは陰惨な社会である。
 逆に人口ピラミッドが釣鐘型をしているということは、各年齢であまり多くの人が死んでいないということだ。別の言い方をすれば、この世に生を受けた人々のほとんどが、上に挙げたような悲劇に巻き込まれることなく天寿をまっとうできる、ということだ」

 原田の論点は、「日本で高齢社会が深刻な問題となっているのは、ピラミッド型社会ではじめて可能だった『高齢者に平均賃金に比べて高い年金を支払う』という年金制度を、釣鐘型社会も続けようとしているからだ」「釣鐘型社会では、平均賃金の5割というような年金は払えない。しかし、豊かな時代では平均賃金の5割という目標を割りこんでも、貧しい時代の年金よりも高い年金を支払えるはずだ」、あるいは、「そもそも子供の数が少なくなるのなら、1人当たり年金負担が高くなるのは当然である。それが困るのなら、年金を削減するしかないのではないだろうか。人口減少が深刻な問題だというのは、この当たり前の選択を否定しているからではないだろうか」(2004年9月8日付同欄「人口減少社会と年金の選択」)などの部分にあると考えられる。このような論理を為政者の側が逆手に取れば、年金制度の無闇な後退・改悪につながる危険も生じるだろう。とはいえ、年金維持のために子供を増やすべきとでもいうかのような騒ぎ方の歪《いび》つさが的確に指摘されていると感じる。

 「少子(高齢)化」の別の弊害として上げられる「労働力」の減少についても、いかんせん一種のいかがわしさを拭いがたい。大体、現代に生きる我々は、加速度的に進歩する科学技術を用いることにより、原則として物理的にも時間的にも過去に較べて遥かに軽快な労働が可能となっているはずだ。つまり、人の肉体、人の頭脳を駆使して働かざるを得なかった時代に較べれば、比較にならないほどの少人数または短時間で同じ内容・同じ量の仕事を処理することが出来ているに違いない(だからこそ、ワーク・シェアリングというような理論も生まれてくる)。もちろんこれは単純な取りまとめであり、そういう時代になったからこそ、昼夜の別なく回りつづけなければならない種類の仕事が増えているように、昔とは異なる過重な「労働」が必要とされる面もあるだろう。日本国憲法において「労働」は義務でもあり権利でもあるわけだが、あえて粗雑に言えば、どうして今の世の中、これほどまで追われるようにして人々が働かなければならないのか、将来に向けての「労働力」までをも求められるのかは不思議とさえ感じられる(東京と新大阪の間を新幹線『のぞみ』が二時間半で走りはじめた十五年ほど前、NHK-FMのディスク・ジョッキー番組の中で、あるアナウンサーが“東京から大阪へこれまでよりも三十分早く行けるとなると、朝、三十分遅く出発しようとはせずに、やはり同じ時間に出て、その三十分――行き帰りで一時間――を余計に働こうとするのが日本人”というように話していた。他愛ない話だが、非常に象徴的で、今でも記憶に残っている)。

 このところ、テレビの連続ドラマを見ることはめっきり少なくなったのだが、久しぶりに『ハケンの品格』(毎週水曜・日本テレビ系)にはハマッた。大手銀行をリストラされた経歴を持ち、今ではクレーン操縦士、ロシア語、助産師、昇降機取り扱い免許、ウグイス嬢、等々、山のような資格と能力を保有する「特Aランク(時給3000円)」のスーパー派遣社員・大前春子(篠原涼子)が主人公。当然、現実離れした物語ではあるのだが、「正社員」と「ハケン」との対立、協同の振幅がとにかく面白く、会社勤めをしたことのない僕まで、一度経験してみたくなったくらいだ。脚本は、「正社員も、リストラで同僚が職場から消えていく不安と悲しみを抱えている。ともに必死な思いで生きている姿をデフォルメしました」(12日付『毎日新聞』)と語る中園ミホ。

「OL時代、土下座する部長を見て『偉いなあ』と感心しつつ人間観察を続け、会社内部を 描くドラマが好きになったという。大上段から『格差社会』を批判するつもりはないが、『最近の成果主義は日本人に合わない気がする。ぬくもりのある家族主義、ダメな仲間をカバーし合う心があってもいいじゃないですか』」(同前)

 このドラマのせいもあって、最近、国会をはじめ、「ハケン」が「格差社会」を象徴する存在として話題にされる機会が多いのだけれど、1986年の労働者派遣法――正式名は「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」……長い!――施行以来、相次ぐ規制緩和によって「ハケン」の需要が増大し、今や日本の企業は「ハケン」抜きには成立しないと言っても過言ではない。その反面、いわゆる「パート労働者」も含めた“非正規雇用者”の――“正規雇用者”に較べての――弱い立場が大きな論議の的となっている。「労働力の需給の適正な調整を図る」(労働者派遣法「総則」)という大目的を踏まえ、働き手の多様な意向をも汲み取ると言えば聞こえはいいものの、身も蓋もなく言い換えれば、要するにハナから雇用者(企業)が都合よく――手軽に安価に――人を使うための手段でしかない。

 先日のとあるテレビ番組では、何年同じ会社で働いても正社員になれない、どうにも給料が安いなどと劣悪な労働環境を訴える「ハケン」たちに向かって、どこかの会社の社長が“本当に必要な人材ならば、会社のほうから正規雇用を望む。誰でも出来る仕事だから「ハケン」で済ますのだ”と正直な(?)言い方をしていた。たしかに、仮に「ハケン」やパートに正社員並みの――あるいは、せめて正社員に準じる――待遇が保証されるとしたら、働く側の気ままな選択の余地ばかりが残り、雇う側にとって“旨み”などなくなってしまうだろう。結局、日本経済・日本企業は、この間《かん》、無数の「ハケン」やパートを関西風に言えば“使い倒す”ことでカスリを蓄積しながら復活してきたと言えなくもないだろう。従って、雇う側にとって正規雇用よりも(一層)金がかからないからこそ「ハケン」やパートの存在意義があるわけで、それらの人々が待遇向上を求めるという方向性は――当然ながら個々の場面においては実現されるべきだが――大局的に見れば明らかな矛盾を求めることになる。

 食べるために働かなければならないという一面は現実ながら、先にも記したように「労働」は義務であると同時に、権利でもある。働きたいように働いて、生きて行けるはずなのである。しかし、社会全体が永続的な経済成長を絶対の目標に据えている限り、一人一人が充足することはシステム上、あり得ない。「少子化」による人口減少、「労働力」の減少が問題になるとしたら、それは、“誰でもできる仕事”を安上がりにやらせる人間、生活のために不満があっても否が応でも引き受けざるを得ない人間が少なくなって困るということでしかないのではないか? そんなふうに考えると、1947年に労働省は厚生省から分離し、2001年の中央省庁再編によって改めて現行の厚生労働省に統合されたわけだが、縁の薄そうにも見える労働行政と厚生行政という二者は、まさに不即不離の目的を有しており、柳澤大臣などは――国民のため以上に、実はむしろ、国民一人一人のためなど比較にならないくらい遥かに――お国のために極めて重大な使命を帯びているということになる。
(2007.2.26)


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