今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

このごろ耳をそばだてさせられるふたつの言葉──周防正行監督『それでもボクはやってない』の「国家権力」と「女性は子どもを産む機械」発言・柳澤厚労相の「装置」

大西 赤人       



 周防正行監督・脚本による『それでもボクはやってない』を観た。就職活動中のフリーター・金子(加瀬亮)が満員電車の中で痴漢に間違えられ、被害者の女子中学生に「現行犯逮捕」される。事情を説明すれば理解してもらえると思っていた彼だが、警察での取調べは一方的で、無実の訴えは聞き入れられることなく勾留されてしまう。接見した当番弁護士からも“容疑を認めて示談にするほうが簡単に済む”と仄《ほの》めかされるけれど、金子は頑強に否認を続ける。検察庁での取調べでも彼の申し立ては聞き入れられず、ついに起訴、裁判が始まる。母親や友人が奔走し、ベテラン・荒川(役所広司)と新人・須藤が弁護に就く。裁判になれば真実が突き止められるという金子の期待とは裏腹に、審理においても、彼はいよいよ追い詰められて行く。そこでは、“疑わしきは罰せず”という大前提は消え去り、“刑事裁判の有罪率は99.9%”という現実のみが立ちはだかる……。

 このところ、テレビでも顔を売っていた経済学者某氏の痴漢事件が話題となっており、“どうせまた懲りずにやったんだろ”という下世話な声とともに、彼は、政府関係や外資が絡んだインサイダー取引疑惑を追及していたので、これは陰謀による「国策逮捕」だとの見方なども出ているようだ。少なくとも、この映画の金子に関しては――支援する人間や弁護士たちでさえ絶対の確証を抱くことは出来ないにもかかわらず――観客はその「冤罪」を一人称的に知っている。だからこそ、彼の置かれた不条理な状況が一層切実に迫ってくる。

 痴漢に間違えられた男というシチュエーションは言ってみれば単純だし、あくまでもリアリズムに徹したストーリーには、派手な逆転劇が起こるわけでもない。警察や裁判所における様々な場面――勾留の無闇な延長、「自白」調書の作成、検察官のルーティーン・ワーク、裁判官の恣意《しい》的な進行、etc.――なども、そういう問題に関心を持っている人々にとっては、既知の事柄に過ぎないかもしれない。しかし、それらが現実に眼に見える映像として積み重ねられて行く中で、伊丹十三が作った多くのウンチク映画のように、『逮捕って、取調べって、裁判って、こういうものなのか』と感じさせ、しかも、あくまでもドキュメンタリーとは異なるエンタテインメント性をも保っている。

 実際、この映画に対する感想をインターネットで調べてみると、圧倒的に多い形容は“怖い”“恐ろしい”である。我々の社会の安定が一面で警察や裁判所――の力――によって維持されていることはたしかにせよ、究極、それらの力が一個人に代表される対象に不当あるいは過剰に向けられた時、その圧迫に立ち向かうことは極めて難しい。しかも、近頃では、それらの力に本来はブレーキをかけるべき存在であるはずのメディアまでも、無定見・無批判に強者に与《くみ》し、ますます事態を悪化させる。もちろん、今でも中には、徹底的に抵抗をつづける佐藤優のような人物も居る(colum308.htm)のだが……。

 周防は、本作に関して、次のように述べている。
「今までと全く違うのは、この映画を撮ろうと思った時に、この題材なら“撮れる”とか“撮りたい”じゃなくて、“撮らないわけにはいかない”という使命感があったこと。こんなに酷い現実を知っちゃったんだから、このまま黙って知らん顔して、なかったことにして違う映画を撮るなんてできなかったんです。知っちゃった人はこれを伝えないといけない。そう思って、初めて使命感で撮った映画なんです」(プログラム掲載インタビューから)
「この映画は、私が初めて『使命感』を感じて作った映画です。まるで高校生のような青臭い正義感で、社会に訴えたいと思ったんですよね」(『ココセレブ』スペシャルインタビューから)

 そんな監督の想いを象徴するように、作中、元裁判官だった荒川弁護士が、“僕たち(刑事弁護士)が相手にしているのは、国家権力なんですよ”と決然と口にする場面がある。「国家権力」という今どきの日本映画にしては唐突とさえ感じられるその言葉が、しかし、一種戦慄的な実感とともに耳に飛び込んできた。金子を支える人々があまりに無条件に彼を信頼していること――特に、“元カノ”陽子(鈴木蘭々)の心情は不明快――や、瀬戸が弁護士に似合わないことなど、幾らか不満な部分もあったけれど、ともあれ、「裁判員制度」が導入され、「被害者参加人(犯罪被害者や遺族が刑事裁判に加わり、尋問、質問、論告・求刑が可能になる)制度」も検討されているというような日本の刑事裁判の転換期において、極めて見応えがあり、かつ考えさせる作品であると思う。


 さて、先頃、「国家権力」と同様、もう一つ耳をそばだてさせられる言葉があった。少子化に関しての「女性は子どもを産む機械」云々という柳澤伯夫厚生労働大臣の発言に関連してである。

「柳沢厚生労働相が27日、松江市で開かれた自民県議の後援会の集会で、女性を子どもを産む機械や装置に例えた発言をしていたことが分かった。
 集会に出席した複数の関係者によると、柳沢厚労相は年金や福祉、医療の展望について約30分間講演。その中で少子化問題についてふれた際、『機械と言って申し訳ないけど』『機械と言ってごめんなさいね』などの言葉を入れながら、『15〜50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない』などと述べたという」(1月28日付『アサヒ・コム』)

「野党各党は28日、柳沢厚生労働相が『(女性は子供を)産む機械、装置』と発言したことについて、『厚労相として許されない発言だ』と一斉に批判した。共産、社民両党は厚労相の辞任を要求する考えを明らかにした。29日から本格的に始まる今国会の論戦にも影響を与えそうだ。
 関係者によると、柳沢厚労相は27日に松江市で開かれた島根県議の会合で講演し、『(女性という)産む機械、装置の数は決まっている。あとは一人頭で(多くの子供を産むように)がんばってもらうしかない』と発言した。厚労相はその場で『機械と言ってごめんなさい」と謝罪し、『産む役目の人』と訂正した。
 柳沢氏は28日、記者団に『少子化問題はわかりにくいので、モノの生産に例えて機械などという表現を使った。適切でないと気づき、言い換えた。女性を蔑視(べっし)する考えは全くなかった』と釈明した」(1月29日付『読売オンライン』)。

 “世に政治家――大臣の失言は尽きまじ”とはいえ、あまりにも杜撰なセンス。早速、社民党・福島瑞穂党首の「残念ながら子どもを持てない人もいる。最低の、許せない発言だ」、同辻元清美衆院議員の「安倍首相の任命責任も問うていきたい。これが、安倍首相が言う『美しい国づくり』内閣の実態かと思うと、背筋がぞっとする」(1月30日付『アサヒ・コム』)など、野党女性議員からの批判はもちろん、一般世論も一斉に柳澤非難に傾いた。そればかりか、与党内からも「言葉を大切にするというのは閣僚の大切な要素。軽率で不適切で、大きな過ちだ。心得違いをされていたのだと思う」(野田聖子衆院議員、同前)、「出産は命がけで尊いこと。女性としては誰でも違和感を受けたのではないか。適切でない表現であることは明らかで、残念だ」(猪口邦子衆院議員、同前)、「私自身、過去に病気をして、子供を授かりにくい、というより授かれない。私は機械なら不良品かな、ということになる」(高市早苗内閣府特命担当相、同『日刊スポーツ』)と女性議員を中心に総スカンを食らっている。

(ところで、民主・共産・社民の野党三党の女性議員16人は29日夕方に柳沢大臣に辞任要求書を手渡してから共同記者会見を開き、「男性議員も巻き込み、国会論戦を通じて責任を追及する考えだ」(同『アサヒ・コム』)と伝えられたが、どうして最初から――せめて同僚くらいは――男性議員を伴なわなかったのか、また、男性議員のほうも同行を申し出なかったのか、不思議である)。

 こうして集中攻撃を受けながらも、柳澤大臣は辞任を選択せず、安倍首相の対処も「不適切な発言をしないよう厳しく注意した」(1月29日付『ロイター』)、「厚労相は深く反省している」(1月31日付『ロイター』)と庇護的だったため、野党は審議拒否に出て国会は混乱、補正予算案は野党欠席のまま2日に衆議院を通過した。それでもなお、4日に行なわれる愛知県知事選、北九州市長選の結果次第では、辞任やむなしという見方も根強い。

 率直な感想を言えば、たしかに大臣の物言いはあまりにも粗雑だったとは思うものの、話の流れが「少子化」の問題を扱っていたことは明らかなのだから、まさに直接担当者として猛省を促した上で今後の事に当たるように求めたほうがよろしいのではないか、失言をトッコに取って国会審議を拒否するなどは戦略的に過ぎるのではないか、という気がする。それとは別に、僕が『おや?』と感じてここで採り上げたいのは、柳澤の用いた「装置」なる言葉である。彼の内心に“女性に対する蔑視”がどの程度存在していたかは不明だが、仮に「機械」という言葉を文字通り“女なんて子供を産むだけのもの”という趣旨で口にしていたならば、それに――言わば自然に――続く文句は「道具」ではなかろうか。ところが、そこで柳澤は「装置」という口語的ではない選択を行なっている。

 「装置」とは、辞書によれば「明治期に apparatus の訳語としてつくられた語」(『大辞林』)などと説明されているけれども、日常生活において単独の形で頻繁に現われる言葉ではなく、精々「安全装置」や「防音装置」や「舞台装置」のように組み合わせて使われるか、あるいはむしろ「自動列車停止装置(ACS)」「緊急炉心冷却装置(ECCS)」「中央処理装置(CPU)」など、堅苦しい日本語訳の中に登場することが多い。そして、それらとも全く別個にもう一つ思い浮かぶのが――レーニンが国家の本質を「暴力」と規定し、その国家権力が行使される手段としての警察や軍隊などを呼んだ――「暴力装置」という言葉である。僕は、柳澤が「機械」と併せて「装置」と発言した話を聞いて、すぐに「暴力装置」を連想し、『この人も昔は、こういう用語に慣れ親しんだ“左翼”だったのかな』と空想した。そうでなければ、こんな言葉がサラッと口をつくことはないのではないか?

 そこで、好奇心に駆られて柳澤伯夫を検索してみると、1935年生まれで1961年に東京大学法学部を卒業して大蔵省入省というから、いかにも「60年安保」の時代を過ごした世代である。もっとも、それ以上に何らか直接的な運動との関わりは見当たらなかったのだが、面白い事に、つい先頃、『日本経済新聞』の「こころの玉手箱」――「著名人が人生の転機を語る定期コラム」(同紙サイトより)――というコーナーで、柳澤は、エンゲルスの『空想より科学へ』を採り上げていたらしい。現物は未見なので迂闊な事は言えないけれど、わざわざ「人生の転機」と銘打たれた「こころの玉手箱」としている以上、あの有名な一冊は、今でも――あるいは、立場上、現時点では反面教師としてであっても?――彼の精神の深奥に刻まれた存在なのだろう。うーむ、やっぱり……。

 こんなふうに見ると、今回の柳澤の発言には、ままありがちな政治家の失言とはいささか異なる背景が窺われるようにも感じるのだが、さて、穿《うが》ち過ぎだろうか?
(2007.2.3)


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