今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「民意」の誤った絶対視に共通するメディアの誤解──安倍首相の「改憲の理由」、大臣クラスの政治家が堂々と口にする日本の核保有の可能性、全国の高校の約一割で行なわれていた“単位偽装”、JR東海社員が『のぞみ』61号に飛び込み即死

大西 赤人       



 いわゆる“有識者”や国会議員などが居並ぶテレビの討論番組――というか、今や実質的にはしばしば娯楽としてのトーク・ショー――の類《たぐい》においては、様々な対象が容赦なくあげつらわれるけれども、不特定多数の一般国民が批判されることは少ない。たまに、たとえば選挙結果に関して“こんなに多くの人が自民党に投票するのはいかがなものか”というような懐疑的発言が出ると、さしずめ田原総一朗のような――邪推かもしれないが、心の奥底では、いかにも大衆とか市民とか庶民とかを侮蔑していそうな――司会者あたりが憤然として「国民を馬鹿にするな!」「有権者をナメてるよ!」と怒鳴ったりする。すると、ほとんどの発言者は、たちまち「そういう意味ではなくて、もちろん民意は尊重されるべきであって……」なんぞとグズグズと腰砕けになって引き下がってしまう。

 テレビが不特定多数の一般国民を批判するという行為は、言わば商売上の顧客をひとからげに批判するようなものであるから、そのような言説を押し止めようとすることは、ある意味では必然の対応かもしれない。しかし、包み隠さず率直に述べると、国民も有権者も、いや、殊更《ことさら》日本に限らず、人間なんて押しなべて馬鹿に決まっている。まあ、馬鹿という形容は不穏当かもしれないので、もう少し丁寧に表現するならば、人間というものは――断わるまでもなく、かく言う自分自身をも含めて――往々にして力不足であり、未熟であり、誤った判断を下し、自分本位の選択に走る存在なのである。第一、そうでなければ、世の中は、とっくにもっと良くなっているはずだ。

 仮に無謬《むびゅう》の超人が地球上に存在し、しかも、その彼ないし彼女に圧倒的な権力が備わっているとしたら、人間社会は今よりも高い次元に到達し得るかもしれない。しかし、そんな事は夢物語であって、現実には、むしろ誤謬《ごびゅう》に満ちた俗人が強大な権力を手にしてしまうという困った例のほうが珍しくない。だから、迂闊な一極集中よりは、ミスがまま伴なうことを覚悟しながら“ああでもない、こうでもない”と大勢の意見を寄せ集め、ハナから100点満点は望むべくもないとしても、多数意見の優先と少数意見の尊重という二律背反めいたルールを維持する中で、最大公約数として、かつかつ70点の最低合格ラインには届くように、また、届くのではないかと希望的に考える手法が、民主主義なるものではないか。即ち、「民意」の絶対視などはむしろナンセンスであって、そこには必ず間違いが含まれることを前提としつつ、常に警戒を怠らず、軌道修正を施しながら進まなければならない。日本国憲法第十二条にある「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」との記述なども、その精神を的確に顕《あらわ》しているものと言い得るだろう。

 さて、安倍首相は、就任前とは異なり今のところ猫をかぶって(?)いるようだが、海外のメディアに対しては遠慮なく気炎を上げている。

「安倍首相は31日、米CNNテレビと英紙フィナンシャル・タイムズのインタビューに応じ、『自民党総裁としての自分の任期は3年で、2期までしか務められない。任期中に憲法改正を目指したい』と述べ、憲法9条を含めた改憲に強い意欲を示した。(略)
 この日のインタビューでは、改憲の理由として(1)現在の憲法は独立前に書かれた(2)60年たって時代にそぐわない条文があり、新しい価値も出てきた(3)自分たちの手で憲法を書くという精神が新しい時代を切り開いていく――の3点を挙げた。
 その上で『時代にそぐわない条文として典型的なものは憲法9条。日本を守るとの観点、国際貢献を行っていく上でも憲法9条を改正すべきだ』と強調した」(1日付『アサヒ・コム』)

 ここで「改憲の理由」として上げられている三つは、それとして全く無意味ではあるまい。憲法を神聖不可侵な対象として奉る必要はなく、不備があれば修正して行くべきではある。ただ、長年、特に憲法九条が論議の対象となる中で、守勢に回った側が「護憲」という趣旨を強調せざるを得なくなっているのが現状。「憲法改正」を考えることには何の問題もなく、「憲法改悪」が誤りなのだが、今や、「改憲」は「改悪」につながる虞《おそれ》があまりにも大きいため、「不断の努力」による「改正」の見込みなど、全くなくなってしまっている。

 最近の日本の様子を見ていると、僕は、結局のところ、この国は戦争(太平洋戦争)に負けたからダメなんだと思うようになってきた。先日、知人にそう言ったところ、即座に「でも、もし勝っていたら、今より遥かにとんでもない国になっていたんじゃないの」と返されたのだけれど、もちろん、この僕の想いは、逆説的な意味合いである。より正確に述べると「負けたからダメ」ではなく、「負けたのにダメ」ということになるだろうか。つまり、俗な表現を用いれば“負けて覚える相撲かな”という格言の通り、負けたからこそ将来に向かって得るもの、糧《かて》となるもがあるわけだが、日本は、せっかくああまでして負けたのに得るものが薄く、つまりは、負けた甲斐に乏しかった。となれば、残るものは、単純に敗北によって被った有形無形のダメージばかりということになってしまう。

 戦争の評価とか歴史の認識とかに関する見解の相違くらいならば、賛成反対はともかくとして論議の余地があると思うけれど、とうとうここに至って大臣クラスの政治家が堂々と日本の核保有の可能性を口にしはじめている光景には慄然とさせられる。以前ならば、無謀な「失言」としてたちまち進退問題となっていたところだろうが、今や平然たるもので、安倍首相も格別諫《いさ》めるわけでもない。もっとも、急先鋒の中川昭一・自民党政調会長にしても、援護役を買って出た麻生太郎外相にしても、ひとまずは核武装を直接に主張しているわけではなく、“論議の必要性”を指摘しただけという建前。中川は「私はもとより核武装反対論者だ。非核3原則をいじるとは一言も言っていない」(10月16日付『サンケイ・ウェブ』)、麻生も「一つの考え方として議論しておくのも大事だと私は思う」(10月18日付『日経ネット』)などと一応の逃げ道は設けているものの、本当に反対ならば、わざわざ持ち出す必要もないはず。中川に至っては「憲法でも核保有は禁止されていない」とテレビ番組で公言したそうだが、それじゃあ憲法には、人間社会のあらゆる禁忌が総て明示されているのか?

 日本人が“核”に反対するに当たっては、しばしば“唯一の被爆国である歴史を踏まえて”というような言い方がされるけれども、被爆していようとしていまいと、今どきなお、“核”の実際的効用を想い描くなどは、政治家として無能であるし、それ以上にそもそも地球人として失格である。まして日本は、北朝鮮の核保有(核実験)を非難して制裁を言い立てている立場なのに、相手の所業を責める一方で自分も同じ事を目論むとなったら、自己矛盾も極まれりだ。

 国を動かす人々がこんな調子なのだから、一事が万事となってくるのもむべなるかな。ところが、最近の保守的言説によれば、日本の戦後六十年間は一貫して左翼思想・進歩思想に牛耳られ(従って、そのような思想に反対する人々は冷や飯を食わされつづけ)、それがゆえに多くの価値観や規範が崩れたかのようである。しかし、その六十年の間に、社会党や共産党が政権を握っていた期間が、言い換えれば、保守本流の自民党が多数党でなかった期間が、一体どれほどあったというのだろうか。右傾の度を強める近年との比較という話ならば、昔のほうがいわゆる左翼や進歩派に勢いはあったとしても、彼らが日本の各分野において実質的な権力の座に就いていた時期など皆無に等しいだろう。

 従って、日教組を悪役に仕立て上げての「教育再生」にしても――日教組が無罪放免であるかどうかはさておき――無理な筋書き。このところ再び続出している“イジめ”事件もそうだが、新たに出現した高校での“必修科目(の)履修漏れ”――『朝日新聞』や『日本経済新聞』が使っている総称。“必修逃れ問題”(『読売新聞』)、“履修単位不足問題”(『毎日新聞』)、“必修科目の未履修問題”(『産経新聞』)、と媒体によって呼び方は少しずつ違うものの、ひところの“耐震偽装”に準じて人口に膾炙《かいしゃ》している “単位偽装”のほうが格段に相応《ふさわ》しい――事件にしても、本当に知識や教養を身につけることを図らずに大学受験を第一義とする高校のあり方は、まさに目先の利益と効率ばかりを追い求める歪んだ社会の想像を超えた反映である。全国の高校の約一割で行なわれていたというこの“単位偽装”は、その相当部分がいわゆる“進学校”であることからも、日本の教育が迎えている深刻な状況を如実に物語っている。

 文部科学省は、「処理方針では『生徒はすべて被害者』という前提」(2日付『アサヒ・コム』)で救済に当たるそうだが、なるほど生徒の側に授業の決定権はなかったろうけれども、全員が何も知らなかった・気づかなかった一方的被害者と言い切ることが出来るかとなるといささか疑わしい。生徒の側の“受験に出ない科目に時間を費やしたくない”という本音を学校側が――言わば行き過ぎた老婆心によって――汲み取ったという印象がある。そして、あまりにも“偽装”対象者が多いことから、厳しい対応を徹底することは難しくなった。

「【文部科学省の】担当者らにとって最大のネックは、350時間もの履修不足があった盛岡の私立高校だった。どんな特例を認めるにせよ、卒業を認めれば既存の教育制度を否定することになりかねない。
『生徒に落ち度はないので、卒業させてあげたい。だが、350時間も足りないまま卒業なんて、本来は土台無理な話。無理を通せば学習指導要領など守らなくていいということになりかねない』と、文科省幹部は困惑を隠せなかった。
 指導要領など既存の教育制度に傷を付けずに救済するための模索が始まった。(略)
『ウルトラC』として最終的に残ったのが、行政事件訴訟法にある『事情裁決』という“裏技”だった。
 事情裁決は、卒業認定という行政行為が法的に違法でも、それを取り消せば公益に著しい障害が生じる場合は、取り消さなくて良いという考え方だ。違法建築の取り壊しなどをめぐる訴訟で適用される法理だが、『やり得』を招きかねず、適用は厳格に制限される」(2日付『サンケイ・ウェブ』)

 未履修者の8割は二単位(70時間)の不足だが、残る2割はそれ以上という実態を前に、文部科学省は一律70時間の補習を卒業条件として打ち出した上、公明党の強い要請を受け、校長の裁量によって補習時間を50時間に短縮することが容認された。しかも、伊吹文科相は実に物わかりよく「『未履修のまま既に卒業した生徒本人には瑕疵(かし)がない。(卒業取り消しには)ならないだろう』として、既卒者は不問にする考えを明らかにした」(10月31日付『サンケイ・ウェブ』)と伝えられている。ここ数年の既卒者を遡《さかのぼ》れば、ほぼ間違いなく同様の“単位偽装”ひいては“卒業偽装”者が膨大に発覚し、現役大学生はもちろん、今はワアワアと騒ぎ立てている新聞社やテレビ局まで含めて、あらゆる場に該当者が続出して大混乱に陥りかねないだろうから、実際問題としては眼をつぶらざるを得ないのかもしれない。しかし、冷ややかに見れば、これは、個々人の意図や認識はどうあれ明らかに不十分な実質で取得した資格を国ぐるみ黙認・追認するという破天荒な決定である。

 先に記した「目先の利益と効率を追い求める」考え方は、当然にも、自己中心的な“自分が良ければいい、自分だけは損をしたくない”姿勢につながる。人間誰しも本音の部分では自分が大切なことは当たり前だろうけれど、その生々しい想いを剥き出しにする醜さへの自覚が消えることは恐い。

 10月25日朝、東海道新幹線の静岡駅において、JR東海社員が『のぞみ』61号に飛び込み即死するという出来事が起きた。同号は、先頭車両の先端が大きく破損して緊急停止、このため「新幹線のダイヤは同日夜まで大幅に乱れ、上下線に最高で約4時間の遅れが出て、38本の新幹線が運休、計約14万5000人に影響が出た」(同日付『スポニチアネックス』)のである。

 平日の朝、一刻を争って移動中の人々も多かっただろうから、縁もゆかりもない他人の飛び込み自殺のとばっちりを食らった乗客の気持ちはよく判る。とはいえ、次の一節を読んだ時には暗澹たる思いがした。

「事故が起きた列車の乗客は掛川駅で臨時停車した後続列車に乗り換えた。東京での出張を終えて広島に戻る途中の会社員男性(59)は『2両目に乗っていて、ドンと何かにぶつかる衝撃があった。予定が大幅に狂い、特急料金だけ返してもらっても納得できない』と憤った」(同日付『サンスポ・コム』)

 年齢59歳、『のぞみ』で出張中というのだから、それなりの役職にも就いている人物かとも想像されるが、幾ら自分は座席に坐っていただけにせよ、乗っていた列車に人が飛び込み、命を落としたのである。「ドンと何かにぶつかる衝撃があった」瞬間に、人一人死んだのである。それなのに、口をつく言葉が「特急料金だけ返してもらっても納得できない」とは……。

 ただし僕は、この会社員を単純に非難しようとは思わない。当日の顛末を家族や同僚や友人に話す内輪の場面であったら、このような本音が出ても少しもおかしくはないだろう。百歩譲れば、取材に対して、つい不満が噴出したものと事情を斟酌《しんしゃく》することも出来る。しかし、そのあまりにも自分本位な感情の発露をわざわざ無批判に報じる意味がどこにあるのか。ここには、「民意」の誤った絶対視に共通するメディアの誤解が存在するように思う。
(2006.11.3)


前に戻る次を読む目次表紙