今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

飲酒運転の続出から広がる公務員バッシングと、安倍晋三を日本の代表に据えることの「リスク」と「ベネフィット」

大西 赤人       



 このところ本欄の更新ペースが落ち、「今週のコラム」というタイトルを裏切ってしまっているけれども、『あ、これについて書こうかな』と思っている間に、もう次の新たな大ニュースが起きているという印象。一つ一つの出来事を十分に咀嚼《そしゃく》する余裕さえない。これでは、たとえ表層的であっても、何かにつけて端的に判りやすく言い切る人々の言説がもてはやされがちになるのも当然だろうか。

 8月25日、福岡市東区の「海の中道大橋」上で、22歳の男が酒気帯び運転していた乗用車が、一家五人の乗ったRV(レジャー用多目的車)車に追突。RV車は歩道とガードレールを越えて海に転落し、乗っていた幼児三人が水死するというあまりにも痛ましい事件が起きた。容疑者は、同日夜、「自宅と焼き鳥店、スナックで計約4時間にわたってビールや焼酎、ブランデーを飲んだ」(9月15日付『西日本新聞』)後で車を運転し、事故を起こしてからも、現場から逃走したばかりか、友人に携帯電話で大量の水を届けさせて飲んだり、同乗者に身代わりを依頼したりと、逸脱に逸脱を重ねたように見える。そして、この容疑者が福岡市職員であったことから、近来何かと高まりつづける公務員批判の空気とも相俟《あいま》って、一気に公務員全般に対するバッシングへともつながりつつある。

 大体、大きな出来事が起きると、急に同様の事象が各地で続出する例は珍しくない。それまでは見過ごされていたものに注意が集まるせいもあるだろうし、メディアによる――時に過剰なほどの――報道が目立つせいもあるだろう。実際、この夏にも典型的な例として、埼玉県ふじみ野市の市民プールで小学校二年生の女児が流水プールの排水口に吸い込まれて亡くなった事故に関しても、その後、全国各地で行なわれた点検作業によって、実際に被害には至らなかったにせよ、驚くほど数多い同様の不備が発見された。しかし、これは、今までに積み重なっていた物が改めて明るみに出たという性質だが、今回の飲酒運転に関しては、福岡の事件後、内容の軽重こそあれ、各地で同様のケースが相次いで“新たに”発生している(しかも、その中には、各地の公務員によるものも複数あった)。

 日本人の特性は熱しやすく冷めやすいと言われ、短絡的な反省や自粛は根本的な解決には必ずしも直結しない。とはいえ、仮に今までは――即ち、困った事に日頃は――“このくらいの酒なら大丈夫”と横着を決め込んでいたところだったとしても、世間を騒がした大事故の直後であれば、別に深甚な自省に基づいてはいないとしてさえ、自然に控える・避ける、いや、控えざるを得ない・避けざるを得ないのが人としての反応のはずではないだろうか。それが、ほとんど何らの歯止めもないままに繰り返されるという状況は、日本人全般の精神的弛緩を象徴しているように感じられる。

 その結果、飲酒運転を筆頭とする交通犯罪への社会的キャンペーンの風潮が急激に高まった。漆間巌警察庁長官は14日の記者会見で「ひき逃げの罰則について『罰則の強化を検討していくべきだ。来年の通常国会に道交法の改正案を提案する方向で検討している』と明らかにした」(14日付『サンケイ・ウェブ』)というし、公務員バッシングに応える動きとして、多くの自治体が続々と飲酒運転に関する罰則の厳格化を打ち出している。

 たとえば沖縄県教育委員会では、これまで教職員の「酒酔い運転」は免職または停職、「酒気帯び運転」は停職か減給だった処分基準を「どちらも基本的に免職とする方針。また、飲酒運転をそそのかす『教唆』は、『ほう助』よりも重いとして、免職を検討している」(16日付『琉球新報』)し、熊本市は「職員が飲酒運転をした場合の懲戒処分を厳格化する新方針を明らかにした。酒酔い運転による傷害事故や、酒気帯び運転で死亡、重傷事故を起こした場合は免職か停職としていた処分を、免職に一本化するなどした。また、飲酒運転となることを知りながら酒を提供をしたり、同乗した場合も懲戒処分の対象とすることにした」(14日付『熊本日日新聞』)し、長崎県平戸市では臨時職員や未成年を含めた全職員約九百人に飲酒運転撲滅宣誓書を提出させた上で「処分基準も厳罰化し、飲酒運転による物損や自損事故などにも免職規定を追加した」(16日付『長崎新聞ウェブ』)し、佐賀県は「県が事故の有無にかかわらず『原則懲戒免職』としたのに続いて、17市町が厳罰化を明示、あるいは検討している。飲酒運転の車に同乗した場合でも処罰する自治体も出てくるなど、飲酒運転撲滅への姿勢を強く打ち出している」(14日付『佐賀新聞』)という。

 こうなってくると、“ウチは酒気帯び人身事故でクビです”“じゃあ、ウチは物損事故でもクビです”“だったら、ウチは飲酒運転の車に同乗してもクビです”というような一種の功名争いにさえ見えてくる。この調子で進めば、早晩、“ウチの職員は、全員が禁酒しております”とか“わが職員は、採用時にアルコール分解酵素ゼロ、酒は一滴も飲めない体質の者のみに限定しております”とかと首長が胸を張ってみせる自治体も現われるのではないだろうか? もちろん、こんな具合に「免職」を振りかざされなければならない公務員の側にも問題があることは否みがたいにせよ、人事院の「懲戒処分の指針について」が酒気帯び運転だけの場合については「停職〜戒告」としていることに基づき、「飲酒運転に対する懲戒処分の程度を厳しくし、さらに懲戒処分をした場合は職員の氏名を公表する」とした市当局の姿勢を「行きすぎのような気がしますが、法律上は問題がないのですか」と取り上げた昨年夏の「困ったときの法律相談所」という自治労ホームページの記事が非難を浴びて削除されたというニュースなどは、“水に落ちた犬は叩け”というような次元のものにも感じられる。

 道路交通法における飲酒運転は、「酒気帯び運転」と「酒酔い運転」に分かれている。「酒気帯び運転」は、従来は、呼気中のアルコール濃度1リットルあたり0.25ミリグラム以上が検出された場合を指していたが、2002年6月の改正により、この基準が「0.15ミリグラム以上」に引き下げ――即ち強化された。他方、より罰則の重い「酒酔い運転」は、アルコール濃度とは必ずしも関係なく、「アルコール等の影響により正常な運転が困難な状態にある」ことを指している。結局、アルコールに関しては個々人の体質が関わるから、一般的には0.15ミリグラムが「酒気帯び」の境界線であるものの、中には、たとえ0.15ミリグラム以下であっても、大きな悪影響を受ける人は居るだろうから、その場合は、基準に達していなくとも、「酒酔い運転」に該当する場合も起こり得るということなのだろう。人間社会は法律によって線引きされざるを得ないのだから、その現行法で区分されている「酒気帯び」も「酒酔い」も一緒くたに処分対象とするのならば、法律など不要ということになる。実際、仮に平戸市で基準以下の0.1ミリグラムで物損事故を起こした人間は、どういう処分を受けることになるのだろうか?

 ハッキリ言って、僕個人としては、こと公務員に限らず、誰に対してであろうと、飲酒運転に厳罰で当たっても何ら構わないとは思いますよ。要するに、酒気帯び運転をした場合、事故の軽重・有無にかかわらず、即死刑ということにでもしてしまったらどうでしょうかね? まあ、それはあまりにも人間常識を超えているとしても、現にこれほどの問題が起きているのだから、飲酒運転に対する罰則強化というような消極的な対策ではなく、自動車を世間からなくそう、酒をこの世からなくそうともっと前向きに考えたらいいのではないだろうか? たしかに自動車のほうは、様々な生活の局面において多大なメリットがあるとはいえ、これしも極論、緊急用車両以外の総ての車の上限速度が40キロ程度であるならば、飲酒運転に限らず大部分の致命的な交通事故は消失することだろう。ましてや酒については、関連産業への経済面での影響に加えて、人々への無形の心理的効用、同じく贔屓目に見ての幾分の身体的効果――ここには大いなる逆効果も存在するけれども――を除けば、人間生活にとって不可欠の物ではあり得ない。従って、もしも酒を社会から完全に追放しさえすれば、飲酒運転とそれに伴なう悲惨な被害などは、そもそも起こりようがなくなるではありませんか……?

 ……とまあ、あえて馬鹿げた言葉を連ねたけれど、以前にも繰り返し述べたように(colum316.htmcolum317.htm)人間を法律などで管理する、罰則などで恐怖させることによって社会の安定・安全を求める手法には無理があり、一定のリスクを引き受けながら、自ら成熟することによってそのリスクを減少させて行くことしか――甘っちょろいと言われてしまうかもしれないけれども――道はないのではないだろうか。しかし、現実には、声高な厳罰論のほうが人々の耳に届いてしまう。

 さて、ここで「リスク」と記したけれども、近年、この言葉は、単純に「危険性」というような意味合いで使われることが多いようだ。しかし、村上陽一郎(科学史家・科学哲学者)の「医療における安全について」によれば、日本語には「リスク」に該当する概念がなく、ヨーロッパ語における「リスク」には幾つかの成立条件が存在するという。簡単にまとめれば、第一に“「危険を顧みずに、あえて行なう」という原意からも明らかなように、人間の行為について使われるもの”であること。第二に“その人間の行為が、単に危険を冒す「冒険」であるだけではなく、何らかの利益が期待されるもの”であること。第三に“それは「あるかもしれない」ものであり、たとえば、「私が老衰で自然に死ぬ」という絶対的な必然を「リスク」とは呼ばない(リスクは常に「確率」という形で把握される)”こと。第四に、“「リスク」は人間の手で回避することができる(かもしれない)危険である(自然災害の発生自体は、それを制御する手段を人間は持たないので「リスク」に直結しないけれども、その災害によってもたらされる被害の大小については、一定程度、人間の手で制御可能だから「リスク」となる)”こと。

 つまりは、「リスク」を単純に危険性と考えれば、そこではひたすらゼロを求めることしかあり得ない。しかし、その危険性と背中合わせには利益――「ベネフィット」が存在している以上は、我々は、その危険性と利益との兼ね合いを「リスク」の確率(裏返せば「ベネフィット」の大きさ)に基づいて判断しなければならないわけだ。ところが、今の日本は、様々な局面において、この「リスク」を正当に評価する作業が行なわれていない、正当に評価する能力を失っているように思われる。だからこそ、管理の強化、罰則の強化という方向性しか生まれてこないのではないだろうか。

 ところが、不思議な話、こと「戦争」に関してだけは、奇妙に「リスク」評価が先行しているように見える。先頃の『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系列)でも、女性キャスターが“皆さんは、もし日本が戦争に突っ走ったら止《と》められますか?”という質問をしたところ、安倍晋三のブレーンと言われる親米論者の岡崎久彦(元・駐サウジアラビア大使、岡崎研究所所長)が“日米同盟があれば、ムチャクチャ負ける戦争はしない”というふうに答えていてビックリした。“止め”はしないのである。他方、中曽根康弘元首相が会長を務める世界平和研究所は、「今後の国際社会の大きな変動に備え、将来の日本の核武装化について研究しておくべきだとの提言を発表した。中曽根氏は記者会見で『(核の傘を日本に提供する)米国の態度が必ずしも今まで通り続くか予断を許さない。核兵器問題も研究しておく必要がある』と強調した」(5日付『共同通信』)と伝えられている。かように今や「戦争」とか「核武装」とかが現実問題として堂々と語られつつあるのだ。

 さて、その安倍晋三は自民党総裁確定的、引いては総理大臣確定的と言われているけれども、某週刊誌の広告には「永田町の戦慄予測 新首相安倍晋三は必ず金正日と“全面戦争”に突入する!」なる物騒な見出しが並んでいた。「あんたの周辺の人間は偏っているんだよ」と言われればそれまでながら、僕が話す友人、知人の中の誰一人として安倍支持者にはお目にかからず、それどころか“さすがに安倍はまずいでしょう”という種類の意見が少なくないのだが、自民党はさておき、各種世論調査でも安倍支持率は過半を占めているらしい。しかし、“美しい国”という文字通りの美辞に象徴される無形の「国益」を掲げるこの何かにつけて端的に判りやすく言い切る政治家を日本の代表に据えることの「リスク」と「ベネフィット」をこそ、今まさに正当に評価しておかなければならないはずであろう。
(2006.9.17)


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