今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「医療崩壊」

大西 赤人       



 ごく大雑把に言って裁判の場においては、刑事事件ならば検察と被告、民事事件ならば原告と被告双方の主張が対立する。言うまでもなくそこでは、裁判官によって“真実”が追求されるけれども、到達した結論――判決が本当に“真実”に即したものだったかどうかは、残念ながら必ずしも保証の限りではない(だからこそ、象徴的な例として冤罪事件が発生する)。準拠する法律は同じであり、判例が積み重ねられるとはいえ、時勢を反映して法律解釈が変遷することだって起きる。しかしながら、ひとたび判決が下された時には、当事者としてどれほど不満があろうともそれに服すという鉄則が守らなければ、そもそも裁判など意味をなさない。

 もちろん、一回の判決だけでは不備が発生しかねないから、日本であれば三審制というステップを踏むことになる。しかし、とりわけ何らかの理由で被害を受けた一般国民が国や大企業など強い立場の相手を訴えているというような事例において、第一審あるいは第二審で原告に有利な判決が下された場合には、原告側から“被告(国や大企業)は上訴をせず判決に服せ”との要求が出され、マス・メディアや世論もそれに同調する例が珍しくない。

 8月29日付『毎日新聞』で「薬害のない未来を:安部元副学長逮捕10年」という企画記事の連載が始まっていた。安部英《たけし》医師(故人)といえば、いわゆる「薬害エイズ」事件において医療界の巨悪のごとく叩きに叩かれた人物である。そのいかにもいわくありげな風貌・物腰・話しぶりは、まさに悪役キャラクターにふさわしく、小林よしのりのマンガやテレビをはじめとするマス・メディアの報道を通じて、多くの人々の脳裡に『この医者のせいで何百人もの血友病患者が死んだ――殺されたんだ』という極めて“判りやすい”事件像を定着させたものと思われる。

 先の『毎日新聞』の記事には、「安部元副学長が業務上過失致死容疑で東京地検に逮捕されてから、29日で10年。薬害エイズ事件で癒着が明らかになった製薬企業(産)、旧厚生省(官)、医師(学)の現状や、関係者のその後を追った」とあった。“産・官・学の癒着”――これもまた、「薬害エイズ」報道を通じて盛んに振りまかれたキーワードである。安部医師に不透明・不明確な部分が少なからず存在したことは事実としても、現実に彼が法的な追及を受けたのは、ある一人の血友病患者に危険な非加熱製剤を投与したことによる業務上過失致死罪容疑によってだった。

「『飛び越えた』。捜査にかかわった検事は、元副学長が逮捕された96年8月29日を振り返る。それまでの医療過誤事件では、立件対象が誤った薬剤投与など直接単純ミスを犯した医療関係者に限られていたからだ。元副学長は患者を診察さえしていない。非加熱製剤の投与という治療方針の責任を問う捜査は『幼稚園児がいきなり大学入試に挑戦したようなもの』だったという」(30日付『毎日新聞』)

 いみじくもここに記されている通り、安部医師は事件当時に当該患者を直接診察していないにもかかわらず、「治療方針の責任」を問われた。非加熱製剤を実際に患者に投与した担当医師は、後年、“危険性を認識していたが、安倍医師の権力を恐れて指示に従った”という趣旨の証言を行ない、追及を免れた。仮に安部医師に立場上「治療方針の責任」があったとしても、その治療方針の誤りを内心で察知しながら――察知していたという証言が保身によるものであれば論外だが、真実であるならばむしろ一層――投与した医師の責任のほうが具体的に重大とも思われるのだが、それはここではひとまず置こう。

 2001年3月、安部医師は一審(東京地裁)で無罪判決を受けた。検察側は控訴したが、被告が認知症や心臓疾患を発症したため、2004年2月に公判は停止。2005年4月には安部医師が88歳で死去したことにより、公訴棄却という結果になった。仮に二審が結審に至っていれば逆転有罪判決が下されたのではないかというような見方も根強いとはいえ、現実に残された判決は一審無罪のみである。その――しかも既に故人となっている――人物に対して、せめて「有罪判決10年」とでもいうのならばまだしも、「逮捕10年」という強引な切り口で記事を作り、明らかに読む者に“心証クロ”を植えつけたげな言及を連ねる『毎日新聞』の姿勢は――安部医師による諸々の行為の実際的な是非・曲直とは全く別個に――メディアとしてあり得べからざるものではないかと思う。

 さて、このところの厚生労働省は、実現性の高低、実効性の大小は未だ不確実ながら、日本の医療状況立て直しに向けた改善策を連続して打ち出しているように見える。

“医療不審死、厚労省が08年度にも究明機関設置へ”
「医療行為中の不審死(医療関連死)について、第三者機関が原因を究明する仕組みを構築する作業が、来年度から本格化することになった。
 厚生労働省が、外部の専門家による検討会を来年度に設置することを決めたもので、早ければ2008年度にも新制度がスタートする。厚労省では昨年から、5年計画で第三者機関による死因究明のモデル事業を進めており、その実績をみて検討を始めることにしていたが、患者、医療機関双方からの要望の高まりに応え、検討作業を前倒しすることにした」(8月23日付『読売オンライン』)

“小児・産科医師の集約化へ補助金 患者拠出の病院支援”
「小児科や産科の医師不足対策で、厚生労働省は来年度、特定の中核病院に医師を集中させる『集約化』に本格的に乗り出す。医師が足りない地域の病院が入院患者を中核病院に委ねることを条件に、高齢者医療など他の分野に転換するための費用を国が一部負担する。地域の医師確保策を後押しするのが狙いで、来年度予算概算要求に関連費を盛り込む。ただ、地方には集約化で医師が引き揚げられることへの懸念もある」(25日付『アサヒ・コム』)

“地方10県、医学部定員増 10年限定、最大10人”
「地域や診療科ごとの医師不足を解消するため、厚生労働、総務、文部科学の3省は31日、新たな医師確保総合対策をまとめた。医師不足が特に深刻な東北や中部地方などの10県について、08年度から最大10年間に限り、大学医学部の入学定員をそれぞれ10人まで増やすことを認めた。医学部の定員は抑制傾向が続いており、暫定的とはいえ24年ぶりの方針転換となる。へき地医療を担う医師を養成する自治医大の暫定的な定員上乗せのほか、医師の集約化推進などの対策も盛り込んだ」(31日付『アサヒ・コム』)

 従来、医師といえば、社会的ステータスを保証されたエリートという通俗的なイメージがあった。現在でも依然として、子供の成績が良ければ医学部へというようなナンセンスな短絡も残っているとはいえ、前述の「薬害エイズ」を筆頭とする近年相次ぐ医療の世界における事件、事故、スキャンダルは、不祥事を犯した芸能人に対するここぞとばかり掌を返したような総攻撃にも似て、医師全般に対する不信に基づく“バッシング”を惹き起こしている。行政や製薬企業と癒着し、患者のことなど金儲けの材料としか見ず、「象牙の塔」に籠って私腹を肥やす強欲な連中……。たしかに、そのような非難に値する医師が現実に存在するとしても、だからと言って、十把ひとからげに括《くく》って貶《おとし》めることが意味のある行為とは考えられない。

 医師(大学病院勤務医)の知人から『医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社刊)という本のことを教えられて読んでみた。筆者の小松秀樹氏は1949年生まれ。東大医学部卒業後、山梨医科大学(現・山梨大学医学部)助教授などを経て、現在は虎の門病院泌尿器科部長の職にある。知人は、この本に関する感想をメールで次のように書いてきた。

「『医療崩壊』というタイトルは、いたずらにセンセーショナルなタイトルではありません。現役の医師である僕も、日々感じている実感です。ただ、僕を含めて現役勤務医は、その実態を怠慢にも(あるいは能力が無いためか)発信してこなかった……」

 2002年12月、慈恵医大青戸病院で、一ヵ月前に腹腔鏡下前立腺全摘出手術を受けた患者が低酸素脳症のため死亡した。翌年9月、執刀医三名が業務上過失致死容疑で逮捕され、未熟な技術による不必要かつ無謀な手術が招いた悲劇として大々的に報じられ、医師に対する人々の厳しい見方を加速させる顕著な一例となった。しかし、小松氏は、「報道に含まれる悪意と憎悪」に驚き、「医療側のみならず、メディア、警察、検察にも大きな問題がある」と感じる。そして、「同様の事件が繰り返されると、患者と医師の対立が増加され、日本の医療は崩壊する」との危惧を抱いた。この問題意識に基づき、小松氏は、『慈恵医大青戸病院事件 医療の構造と実践的倫理』(日本経済評論社刊)を執筆。その後も深刻化する日本の医療に一層危機感を募らせ、検察に提出した意見書を膨らます形で、「危険な状況にある日本の医療を分析し、崩壊させないための対策を提案」する一般向けの一冊として『医療崩壊』をまとめたのだという。

 詳細は現物を読んでいただくことが一番だが、乱暴を覚悟で、小松氏の考え方が端的に現われている部分を引いてみる。

「現在、日本の医療機関は二つの強い圧力にさらされている。医療費抑制と安全要求である。この二つは相矛盾する。相矛盾する圧力のために、労働環境が悪化し、医師が病院から離れ始めた。
 医療は生命を守るために努力するが、生命は有限であり、医療は常に発展途上の不完全技術である。どうしても、医療は不確実たらざるをえない」

「医療とはどういうものかについて、患者と医師の間で考え方に大きな齟齬《そご》がある。患者は医療が万能であり病気はすぐ発見され、たちどころに治療できると思っている。また、一部の患者は、自分への奉仕をあらゆることに優先させることを医師に求める。一方、医師は、医療には限界があるばかりか、危険なものであることを知っている。また、多忙な業務の中で、優先順位を付けて行動せざるをえない」

「現在、日本の医師、看護師の士気が崩壊しつつあることを認識すべきである。過酷な労働にあえぐ医療従事者が、このようなまやかしの儀式【大西注:厚生労働省が日本医療機能評価機構に委ねている各病院の審査・評価・認定】で奴隷のように追い立てられることに、我慢し続けると思えない。反撃はしないが、逃げ出す」

 医療費の抑制・削減が国策として謳われる一方で、過剰――あるいは不可能――な安全が求められ、労働条件の悪化が進む中、不可避的なヒューマン・エラーによる医療事故であってさえ圧倒的な社会的攻撃を浴び、時に刑事責任を問われる。このような状況の下、多くの医師が危険性の高い産科や小児科を避け、また、病院勤務医ではなく開業医を望むようになっている(様々な要因により、勤務医よりは開業医のほうが緩やかな条件で働くことが出来る)。このままでは、日本は、既に医療崩壊に至ったイギリスと同じ近未来を迎えてしまうと小松氏は述べる。

 サッチャー政権の下で医療費抑制政策などが強力に実施されて医療従事者の士気低下が進んだイギリスでは、一般医に見てもらうだけでも予約から二、三日かかり、専門医を受診するにも簡単な検査を受けるにも何日も待たされ、いざ入院となっても膨れ上がる待機リストに連なるばかりだという(驚く事に、2001年当時、肺癌患者の20パーセントは待機中に病状が進行して手術不能に陥ったそうだ)。近年、ブレア政権が医療費の大幅拡大宣言を行なったが、劇的な効果は上がっていないとされる。一方、イギリスと対極に位置するアメリカでは、グローバリズムに基づき、勝者(強者・富者)のみが十分な医療の恩恵に与《あず》かることが出来る。

 小松氏は、日本はイギリスのようにもアメリカのようにもなるべきではなく、そのための対策が緊急に必要であると訴え、医療事故調査機構の設立、医療過誤被害者に対する無過失補償制度の確立、医事刑法の制定などを提言する。また、それらの基盤として、メディア、検察、警察のあり方の変革や、新たな社会思想の醸成が必要と述べ、「私は日本人の死生観がおかしくなっていると思っている。誰にも避けられない死を、意識のかなたに追いやらずに、正面から認識する必要がある」と記す。

「患者は、現代医学は万能であり、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を行えば人が死ぬことはないと思っている。医療にリスクを伴ってはならず、一〇〇パーセントの安全が保障されなければならない。善い医師の行う医療では有害なことは起こり得ず、有害なことが起こるとすれば、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護師は、労働条件がいかに過酷であろうと、誤ってはならず、過誤は費用(人員配置)やシステムの問題ではなく、善悪の問題だと思っている」

 このような医療側の発信を“自己合理化”“開き直り”と受け止める向きもあるかもしれない。もちろん、医療に対する非難・攻撃がここまで激しさを増したのは、これまでも現在も医療の側に多くの問題点が存在し、それに対して弱い立場に甘んじざるを得なかった患者の側がようやく対峙し得るようになった――反動をも含めての――現われであることはたしかだろう。小松氏も、大学病院や医局制度の弊害、医療者の意識改革の必要など、多くの反省点・改善すべき点を自ら指摘している。ただ、“羹《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹く”の裏返しとでもいうような専門家不信を煽《あお》るばかりの過剰反応は、事態の真の解決につながるものではあるまい。

 知人の医師と『医療崩壊』について話していて、こんなふうなたとえ話になった。患者は、野球で言えば必ず“生存・健康”という勝ちゲームを確信し、味方プレーヤー(医療者)にその実現を期待している。しかも、その勝ちゲームは、限りなく完勝に近い形であるべきと信じている。即ち、完封どころか完全試合が当たり前、従って、たとえ1点でも取られたらプレーヤーに何かしらミスがあったからだと受け止め、その責任を追及すべきと考える。しかし、そもそも人間には寿命が備わっているのだから、究極的な意味での“勝利=永続的な生存と健康の維持”はあり得ない。つまり、生きている以上は、言わば最低でも毎イニング1点ずつを失なっているようなもので、放っておけば自然に九回を終えて敗戦=死亡を迎える。しかも、時には一回表から3点取られたり、七回表に一挙6点取られたりすることもある。医療とは、その必然的な負けゲームを闘いながら、懸命に同点にする、点差をつけられても何とか七回コールド・ゲームにはならないようにする、あわよくば同じ負けるにしても延長戦まで持ち込もうとするというようなものなのではないか……。

 前述の「医療不審死究明機関を設置」という報道を見て、僕は知人に“小松氏のプランに似ているけれど、変革への突破口になるかしら?”と尋ねたのだが、彼からは“でも、既に崩壊しているからね”と醒めた返事が戻ってきた。職業に貴賎なしと言われるものの、少なくともこれまでは、医師を賎しい職業と見る者はなかっただろう。しかし、人間とは歴史的に、社会生活に不可欠ではあるが自ら引き受けたくはないような仕事に関して、逆にそれを賎業と位置づけて他者に押し付ける非道な一面を持っている。今から何年かすれば、医師とはデメリットばかりが多くて誰もなり手のない職業と化し、さしずめ強制的な「徴“医”制度」でも作らなければならなくなるのではないか……我々は、そんな馬鹿話さえ交わしたのだった。
(2006.9.1)


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