今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

亀田対ランダエタ戦の考慮すべき点は、観ていたファンの印象と大きく乖離《かいり》した判定方法・判定基準の見直しである

大西 赤人       



 アンパイア、レフェリー、ジャッジ。日本語ならばどれも同じ「審判」だが、英語ならば呼び方は色々。アンパイアには“仲裁人”、レフェリーには“仲裁人”ないし“身元保証人”、ジャッジには“判事”というような意味もあるそうだが、調べてみると、基本的には選手と一緒に常に動き回っている競技(サッカー、ラグビー、アイスホッケー、バスケットボール、ボクシング、レスリング、等々)の場合はレフェリー、居場所が定まっている競技(野球、バトミントン、テニス、卓球、クリケット、等々)の場合はアンパイアとなるらしい。また、バレーボールは両方の呼び方が使われるし、アメリカンフットボールはレフェリーとアンパイア双方がゲームの中に存在しているという。変わったところでは、フィールド・ホッケーの場合、センター・ラインを境に二名の審判の受け持ちが分かれているせいなのか、動き回るけれどもアンパイアと呼ばれるそうだ。一方、フィギュア・スケート、スキー(ジャンプ、フリースタイル)、ボクシング、体操などのように競技から距離を置いて客観的に採点を行なうような立場の場合は、ジャッジということになるのだろうか。

 ともあれ、陸上や水泳など限られた種目に関しては、精密な機器によって時間や長さ、高さ、重さを計測することで正確な判定が可能になってきたけれど、それ以外の大部分の競技については、どれほど訓練と経験を重ねた審判であろうとも、人間の眼及び主観に基づいて判定を下すことに一定の限界が生じる。とりわけフィギュア・スケートや体操などの採点種目における不可解な判定、納得しがたい判定は、国際大会においてさえ日常茶飯事と言っても過言ではないだろう。勝負の帰趨《きすう》が比較的明確なはずの格闘技であっても、柔道の細かい判定はしばしば論議の種となる。

 一方、録画再生技術の進歩によって、テレビなどでは人間の能力を遥かに上回る確実で多角的な記録が即座に再現されるから、両者の齟齬《そご》がしばしば厳密かつ冷酷に暴き出されてしまう。つまり、本来のアンパイアやレフェリーとは、ゲームを戦っている二者の間に位置しながら――必ずしも絶対的な判断能力を持ってはいないとしても――制度的に絶対的な権力を付与されることによってプレイヤーを仲裁――コントロールする役目のはずだった(たとえばラグビーはその色合いが今でも濃く、レフェリーがより良い試合を“作る”ために選手に向かって頻繁に指図を下している)。

 ところが、録画再生技術の進歩は、多くの競技に関して観る者に判定への懐疑や反発や不満を極めて容易《たやす》く抱かしめることになり、結果、先に述べたような審判のあり方を大きく揺らがせてしまった。その結果、いわゆる「ビデオ判定」導入の是非が論じられるが、たとえば相撲のように個々の勝負が短く、勝敗の判断基準が「先に土俵に落ちたら、土俵を割ったら負け」と明快な上、時間を止めての再戦(取り直し)も簡単な種目は例外的。野球やサッカーをはじめ、プレーが瞬時の変化を踏まえながら次の局面へとつながる競技において、折々にタイムをかけて「ビデオ判定」を行ない、場合によっては状況を元に戻してやり直したりしていたら、スポーツとしては成り立たないか、少なくとも大いに興味を殺《そ》がれることだろう。現代の審判とは、人間である以上は決して敵わないテクノロジーと対比させられる受難の時代にあり、先に述べたような「仲裁人」としての機能を失ないつつある――正確には、奪われつつある――と言い得るだろう。言うまでもなく、日本のプロ野球の現状を見ていても、審判個々の能力を高めることは必要に違いないものの、アンパイアやレフェリーの原義を思えば、「ビデオ判定」を導入することが本当に望ましい道なのかとなると疑問とも感じられる。

 事ほどさように審判とは難しいもので、今年の大きなイベントでもWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)における米国人アンパイアの判定やワールドカップにおけるジダンへの退場処分などが物議を醸《かも》したが、8月2日に行なわれた亀田興毅対ファン・ランダエタ(ベネズエラ)のWBA世界ライトフライ級王座決定戦もまた、ほぼ半月が過ぎた現在でも未だにかまびすしい論議が続く騒ぎの種となっている。過日の本欄(colum320.htm)で僕は、亀田に対して錯綜する毀誉褒貶《きよほうへん》のいずれが正当な評価であるかは「今後の試合が明確にして行くことだろう」と記した。そして迎えたこの大舞台で亀田は判定勝ち(2対1)により王座を奪取したものの、そのあまりにも微妙な判定がボクシング界にとどまらない反響を引き起こしたわけである。

 当日の僕は、亀田が戦前の大言壮語通りに得意のパフォーマンスを見せてくれるのか(これは小さな予想と期待)、それとも世界の実力者の前に一敗地に塗《まみ》れてしまうのか(それは大きな予想と期待)、とにもかくにも見届けてみようとテレビの前で待ち構えていた。夜の7時半から始まった中継(TBSテレビ系列)は、これまでの亀田父子の足跡をたどる映像ばかりが流れ、試合の始まる様子はない。新聞の番組表やスポーツ欄を確かめてみると、何の事はない、中継は午後10時までの枠が取られているものの、試合開始は午後9時なのだ(12ラウンドをフルに闘うとしても、1ラウンド3分×12+インターバル1分×11だから正味47分、9時に始まっても10時前には十分に終る)。
『1時間半も前菜を見せられるのはたまらんなあ』と思いながら、他の番組とチャンネルを行き来しながら時間を潰すうちにようやく選手入場。亀田は例によってテレビカメラに向かい“メンチ”を切ってみせるが、心なしかいつもよりも一層虚勢のように見える。そして1ラウンド開始の寸前、アップになった亀田の顔を見て、僕は「これは危ないんじゃないか」と口走っていた。幼い頃の彼は、おとなしいいじめられっ子だったと伝えられているが、そんな昔の話を想い起こさせるような気弱で心細そうな表情が如実に浮かんでいたからだ。

 試合内容は、多くの皆さんも御存じであろう通り。第1ラウンドに亀田は早々とダウンを奪われ、中盤、幾らか盛り返したものの第11ラウンドには再びダウン寸前に追い込まれてクリンチを連続。終盤のインターバルには父親の史郎トレーナーが何度も張り手を浴びせて気合を入れる始末で、ほとんどダメージのないランダエタの顔に較べ、亀田の顔は傷を負った上に腫れ上がっていた。当初は亀田贔屓《ひいき》に終始していたアナウンサーや解説者たちも、途中からは“諦めずによく頑張った”という口調に変わる中で試合終了のゴングを迎える。両手を挙げるランダエタに対して、亀田陣営は誰もが明らかに敗戦を覚悟してか意気消沈の様子だった。ところが、予想外の判定結果……。

 僕は「何だ、そりゃー!?」と叫んで、もうその後の様子――報道によれば、亀田はインタヴューで感激のあまり号泣したとのこと――は見ないまま瞬時にテレビを消してしまったのだが、その後の世論は“疑惑の判定”を巡って大沸騰。それまでの亀田父子の傍若無人とも言いたくなるパフォーマンスを苦々しく思っていた人々も実は多かったということなのか、亀田バッシングにも近い批判的な見方が大勢を占めた。単にホームタウン・デシジョンの悪弊を指摘するばかりでなく、中には“八百長だ”とか“(亀田が)ノックアウトされない限り、審判の判定は最初から決まっていたんだ”とか“テレビ局ごと金ぐるみ”とかというようなお定まりの穿《うが》った見方も少なくない。実際、審判は主催側の亀田陣営が選定しているのだから、そういう臆測を呼び招きやすい背景は否めないところだ。

 僕自身、テレビの前で『こりゃあ、亀田の負けだろう』と感じたしたことはたしかなのだが、ただ、言わば掌を返したようなこれらの亀田批判を見聞きしていると、逆に、今回の判定は本当にそこまで無茶苦茶だったのかと天邪鬼《あまのじゃく》的に再検討したい気持ちにもなってきた。当日のジャッジ三名の採点は、以下の通りである。

亀田 パティージ(パナマ) 8 9 10 9 9 10 10 9 10 10 9 9  112
タロン(フランス) 8 10 10 9 10 10 10 10 9 10 9 9  114
金(韓国) 8 10 10 10 10 10 9 10 9 10 9 10  115
ランダエタ  パティージ(パナマ) 10 10 9 10 10 9 9 10 9 9 10 10  115
タロン(フランス) 10 9 9 10 9 9 9 9 10 9 10 10  113
金(韓国) 10 9 10 9 9 9 10 9 10 9 10 9  113

 とにかく第1ラウンドと第11ラウンドを含めて四つのラウンド以外は三人の採点が入り乱れているように、素人目の印象に比して、彼らプロの審判にとって大接戦だったことは間違いないように見える。これは、事後、散々指摘されているごとく、現在のボクシングの採点方法・採点基準が、一度のダウンは-2、二度のダウンは-3とされる以外、各ラウンドの優劣については、内容的にどれほど大差であろうと微差であろうと数字上は同じ10対9と1点の差しか生じないせいでもある(なお、両者に必ず差を見出して判定しなければならない「ラウンドマストシステム」についても盛んに報じられているが、これは実は絶対の縛りではないらしく、現にジャッジ・金は、第3ラウンドを10対10のイーブンとしている)。極端な話、第1ラウンドから第9ラウンドまで微々たる10対9の優位を保ちつづけた選手が、第10ラウンドに一度、第11ラウンド、第12ラウンドに二度ずつダウンを食らってヘロヘロになったとしても、前半の貯金による彼のポイントのほうが、正当な判定として上回るわけだ。今回の亀田の場合、中盤の盛り返しは明らかだったので、ちなみに、入り乱れている三ジャッジのポイントを各ラウンドごとに足して○×を付すと……。

亀田 24 29 30 28 29 30 29 29 28 30 27 28
(亀田から見て) × × × × ×
ランダエタ 30 28 28 29 28 27 28 28 29 27 30 29

 一人ならば帳尻を合わせていると疑惑の眼を向けることも容易だが、三人がこれほどバラバラでありながら、それらを合算してみると、亀田の取ったラウンドが7、ランダエタの取ったラウンドが5なのである(全ポイントの総計は亀田、ランダエタとも341)。

 このようにして見直すと、今回の試合を“疑惑の判定”と表現することはふさわしくないように思われる。考慮すべき点があるとすれば、観ていたファンの印象と大きく乖離《かいり》せざるを得なかった判定方法・判定基準の見直しであろう。これも素人考えに過ぎないけれど、せっかく10点満点なのだから、微差は1ポイント、小差は2ポイント、一度のダウンで3ポイント、二度のダウンは5ポイントというように……。

 1972年の札幌冬季オリンピックの女子フィギュア・スケートでは、「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれたジャネット・リンが爆発的な人気を呼んだ。しかし、彼女は実は銅メダリストに過ぎなかった。ジャネット・リンを覚えている人は多いだろうけれど、この時に金メダルを獲得したベアトリクス・シューバ(オーストリア)の名前を記憶している人は少ないかもしれない。僕個人は、リンには取り立てて好感を持たず、シューバのほうに『綺麗な人だなあ』との(いささかマニアックな?)印象を受けた思い出がある。

 当時のフィギュアは、決まった図形の通りに滑る規定(コンパルソリー)と現在同様のフリーとで競い、採点配分は前者が六割、後者が四割だった。シューバは規定の演技が完璧であり、ここで圧倒的なトップに立った彼女は、フリーでは六位だったにもかかわらず、金メダルに輝いたのである(リンは規定三位、フリー一位)。正々堂々と優勝したシューバにはかわいそうな話だけれど、リンの強烈なフリーの演技――転倒したのに芸術点で満点を出したジャッジも居た――が銅メダルにとどまったことへの異論が高まり、これを大きな契機として、翌年にはショート・プログラムが取り入れられ、1991年にはついに規定は廃止されてしまった。

 今回の亀田対ランダエタ戦に関しても、陰謀論的な眼差しを向けるのではなく、システム自体を再検討する好機と考えるほうが遥かに生産的ではないだろうか。

 さて、せっかく念願のチャンピオン・ベルトを手にしながら時ならぬバッシングを浴びせられた亀田側は、史郎トレーナーが息子を擁護すべくテレビ番組(『スーパーモーニング』テレビ朝日系)に登場し、ガッツ石松ややくみつると舌戦を繰り広げて火に油を注ぐ形ともなっている――その半面、“あそこまで子供を守る父親は今どき偉い”との好意的意見も出ている――が、今のところ他人の意見に耳を傾ける気配はほとんどないようだ。次の試合が一層の正念場となるに違いないし、当然、なお一層の注目を集めることになるだろう。どれほど非難・批判を浴びようと、その意味では、個人的に共感する部分は全くないものの、亀田のスタイルは大いに成功しているのではあろう。ただし、史郎トレーナーの話を聞いていて非常に違和感を覚えたのは、息子は多くのファンを現に惹きつけているのだと主張するにあたり、彼が一度ならず“テレビ見てくれる、試合会場来てくれる”という言い方をしていたことだ。もちろん、不特定多数のファンも重要ではあろうけれど、ボクシングをやる者(その陣営)にとって、まず念頭に浮かぶ存在は、試合の現場に足を運ぶ観客のはずではないだろうか? そこで、まず“テレビ見てくれる”ファンのことのほうが先に口をつくあたりに、先回にも述べたようなテレビに囚《とら》われてしまっている亀田陣営の問題点が象徴されているように思う。しかし、史郎トレーナーにとって、そういうあり方こそが今まさに多くの人々の反発を呼んでいるという因果関係を自省的に見つめることなどは、おそらく望むべくもないであろう。
(2006.8.18)


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