今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「奇跡」を待つ日本人の体質──12日のワールドカップ対オーストラリア戦は、ひどい試合だった

大西 赤人       



 昔は、いつの日にか実現することがあるのだろうかとさえ言われていた日本のFIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ出場も、このドイツ大会で三大会連続となる三回目。数字だけをアテにすることは出来ないとはいえ、今や世界ランキングも10位台(最新18位、過去最高は昨年7月の13位。日韓共催の前回2002年時点では32位)なのだから、もはや“健闘”や“善戦”で良しとするべき時期ではあるまい。

 いつも述べている通り、僕は、どのスポーツに関しても“日本、勝て!”という過剰な思い入れはない。むしろ、胡散臭い歪《いびつ》な形の愛国心教育の高まりとも呼応する恰好《かっこう》で、君が代や日の丸、あるいは祖国に対する忠誠が無闇に押し付けられる風潮――そんなお節介をされなくても、自分の国の長所や美点は大いに認め、短所や欠点は冷静に省みればよろしい――には閉口するのだが、トップ・レベルのゲームを観ることは楽しいし、そこに日本チームが出場していれば、必然的に観戦にも一層身が入る。だから、ワールドカップが始まって以来、夜から早朝にかけての三試合はハードだけれど、ついつい仕事そっちのけでテレビの前に陣取ってしまう。

 そんな中で日本が迎えた一次リーグF組緒戦の対オーストラリア戦(12日)は、ひどい試合だった。もちろん、終盤の10分ほどで一気に3点を奪われ、1対3で逆転負けしたという結果だけに基づいて言っているわけではない。近年の日本の試合の中では、最低と評価したいくらい、内容的にひどかったと感じるのである。そもそも、F組の顔触れを見ると、“何が起こるか判らない”というような手垢に塗《まみ》れた常套句に基づく期待に基づかなければ、日本との力関係は、ブラジル(FIFAランキング1位)とは明らかに大差、クロアチア(同23位)とも、冷静に見て五分五分よりは四分六分とするほうが妥当。即ち、一次リーグ突破のためには、繰り返すようだが“何が起こるか判らない”という神信心に走らない限り、オーストラリア(同42位)戦での勝利が必須と計算されるべきであり、引き分けでは精々「望みがつながる」というところだろう。

 ゲームが始まると、オーストラリア選手とのフィジカルなコンタクトにおける日本人選手のハンディは早々に明らかになった。しかし、前半26分、中村のゴール前へのセンタリングがそのままゴール・イン。ゴールキーパーを押し倒した柳沢、高原の突進は、ファウルとされても不思議ないかとも見えた――主審自身、試合中にオーストラリア選手に対して誤審を認めていたとの報道さえあった――ものの、そのような勝負の綾はゲームには付き物。幸運な先制点を踏まえて、日本は競り合いによる体力の消耗を避けるためにか、オーストラリアに中盤ではボールを回させる形を採りながら、ゴールキーパー・川口の重なる好セーブによって1対0のまま前半を終えた。

 後半に入っても、1点を追うオーストラリアが次々に選手を代えてパワー・プレーに出ながらも攻め手を欠き、一方、日本の側も十年一日のごときフォワードの決定力のなさで2点目が遠い。後半30分、高原、柳沢がスピードに乗って相手ディフェンスと二対一というフォワードとして最高の見せ場を作りながら、高原は打たずに柳沢へパス、柳沢は急ブレーキをかけるようにスピードをゆるめ、表現は悪いがお嬢さんのように力ないシュートという場面などは、眼を覆いたくなった。1対0という試合展開は、なお攻勢に出るのか、それとも守って逃げに入るのか、非常に判断が難しい。“さて、どちら?”という34分、柳沢に代わって、フォワードでもなくディフェンスでもない小野が投入された。素人目にも攻撃か守備か判断に迷う起用だが、まあ、中盤を厚くしてボールを支配しながら終らせようという意図だったろうか。

 しかし、「小野、中村、中田英のトライアングルに期待して入れた。だが結果は芳しくなかった」(13日付『共同通信』)というジーコのコメントと、「柳沢との交代は意外だったというが『追加点が取りたい』との意識でピッチに入った」「守備的MFの位置に入ったが、中沢から『下がってこなくていい、前でやってくれと言われた。守りの選手も点がほしかったのでしょう』と打ち明けた」という小野のコメント(14日付『スポニチアネックス』)との間には、意思の疎通の不足が窺われる。「凡戦だなあ」と言いつつ、それでも、前大会の苦境から這い上がった川口の頑張りによって、“このまま1対0、悪くても1対1か”と話しながら観ていた後半39分、肝心の川口が、相手のロング・スローインに飛び出しながらボールに触れられないというミスから同点。

 それでも「引き分けか、追加点かで分かれ、ゲームのリズムが変わってしまった」(14日付『読売新聞』)という宮本のコメントが表わすように、ゲーム・プランは曖昧なまま。日本守備陣の緊張は切れ、44分には2失点目。後手後手に回った形で、ようやく出し遅れた証文のように大黒が送り込まれたものの、逆に、ロスタイムに致命的な3失点目。結局、たった数分の間に、1対0勝利→1対1引き分け→1対2暗雲→1対3絶望という文字通り天国から地獄への急降下となった。3点目なども、アロイジにボールが渡ってドリブルの態勢に入った時点から思わず「危ないぞ、危ないぞ」とテレビの前で口走る状況だったのに、対応した駒野が止めにかかれないままにシュートを許してしまう有様……。

 敗戦自体はともかくとして、問題なのは、その原因が前もって――実はほぼ誰の眼にも――明らかだったことにある。フォワードの決定力不足は今更言うまでもない日本の宿命(?)だからひとまず略すとして、勝ちゲームをまとめきれない試合運びのマズさ(強いチームは、相手に点を与えないとなったら徹底的に締める)、とりわけ、リードしている状態でのジーコによる選手交代の不可解さは、僅か十日余り前の5月30日に行なわれたドイツとの強化親善試合においても、顕著に露呈していたわけである(この試合、日本は後半30分まで2対0とリードしながら、残り15分で2失点。しかも、失点するごとに二人のフォワードを新たなフォワードに代えるという煮え切らない起用を行なっている)。あまりにも鮮やかに決まったヒディンク監督(オーストラリア)の采配はもちろんだが、たとえば、ディフェンスに退場者が出たにもかかわらず、逆にフォワードを注ぎ込んで強敵・スウェーデンと引き分けたベーンハッカー(トリニダード・トバゴ)監督の采配などに較べても、ジーコの策は凡庸に見えてしまう。

 この敗戦によって冷や水を浴びせられた日本の論調は、一戦を終えただけで早くも、クロアチア、ブラジル戦における「奇跡」恃《だの》みとなっている。両国の試合(ブラジル1対0クロアチア)を見た限り、レベルは日本よりも一段二段上と感じられたけれど、それでもたしかに「奇跡」は起こるかもしれない。いや、むしろ、最近では「奇跡」という言葉を安易に使い過ぎるのであり、精々、ひところ流行った「想定外」程度の可能性は十分に考え得るだろう。しかし、「想定外」の可能性を予《あらかじ》め期待値として計算することは出来ないはずだ。事前の冷静な分析を避け、上手く進んでいる間は欠陥に眼をつぶり、希望的観測に基づく熱狂に身を任せ、現実による学習や教訓を確実に踏まえることなく、時おりの「奇跡」――“神風の訪れ”を待つという日本(人)の体質は、ことサッカーに留まらず、様々な局面における大きな欠点であるように思われる。
(2006.6.14)


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