今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

死刑という刑罰

大西 赤人       



 滋賀県長浜市で三十四歳の女性が、娘と同じ幼稚園に通う五歳の園児二人を包丁で刺して殺害。神奈川県川崎市で四十一歳の男が、マンション十五階から男子小学生を投げ落として殺害。岐阜県中津川市で高校一年の男子生徒が、中学二年の女子生徒の首を絞めて殺害。和歌山県高野町で高校二年の男子生徒が、71歳の写真店店主を殴打して殺害。残念ながら人の世に犯罪――殺人はつき物であるかもしれないとはいえ、何とも常軌を逸したものと感じられる内容の事件が次から次へと発生してメディアを騒がせる。

 しかも、いささか不思議なほどに感じられるのは、それらの事件にまつわる幾つもの事象が、いかにも昨今の世俗的危機感と符合する形で――むしろ、煽りたてる恰好ともなって――具現化していることだ。つまり、先の例に即せば、在日中国(外国)人、監視カメラ、少年(未成年)犯罪、「精神科」通院などのキーワードが、各々《おのおの》、“外国から来ている連中は何を仕出かすか判らないぞ”“中国人――中国は危ないぞ”“街中《まちなか》の監視カメラは犯人逮捕(及び犯罪防止)に有効だぞ”“ガキだからって刑罰を甘くすると懲りないぞ”“学校で子供を厳格に教育しないと恐いぞ”“精神病院に通うような奴は社会にとって危険だぞ”エトセトラ、エトセトラの言説を表層的に――粗略だが、しかし強力に――後押しする。このような繰り返しを見ていると、何か強大な力が“電波(デンパ、デムパ)”によって密かに人を操り、この種の犯罪を折々に惹き起こさせているのではないかと馬鹿げた想い――それこそ文字通りの妄想(?)――に駆られるほどである。

 先に述べたごとく「人の世に犯罪――殺人はつき物である」状況をとりあえず前提とするならば、それを根絶することは所詮不可能としても、相対的に抑止するためには、厳重な社会管理、強権的な取り締まり、苛酷な刑罰(“人を殺した者は一切の例外なく死刑に処す”とする)を組み合わせることが相対的には効果をもたらすことだろう。あのオーウェルの『1984年』で描き出された世界並みに、街頭や公共の建物内どころか、各家庭の全部の部屋に監視カメラを取り付けたならば――それでも、後先考えない発作的な犯行までは抑止し得ないにせよ――少なくとも、一方で罪を逃れることをも期待しつつ犯罪を実行することはナンセンスとなるはずである。

 しかし、多くの人間は、そのような一種“過剰な平穏”を望まない。当然、「何も後ろ暗いところがないのならば、総て人目に曝《さら》しても構わないはずではないか」という意見も出てくるかもしれない。目下、国会で論議となっている「共謀罪」の是非などに関しても、慎重意見に対して「自分に疚《やま》しい事がなければ反対する必要はないはず」と言い募る向きもあるが、それは形式論理に過ぎないと思う。我々は、自由やプライバシー、即ち、自己一身の意のままとなる時間や空間というものをむしろ曖昧に確保する――同時に許容される――ことが保証されていなければ、人間として十分に満たされはしないのである。すると、そこには必然的に重大な二律背反が出現する。つまり、自分に限っては可能な限りの自由が欲しいけれど、その自分の安全を維持するためならば、他者の自由は制限すべしと考えることになる。

 先日、1941年に発表されたシャーロック・ホームズのパスティーシュ(贋作)であるH・F・ハードの『蜜の味』(早川書房)というミステリを読んだ。ストーリー自体は特に感心するほどではなかったのだけれど、途中、面白い箇所にぶつかった。「彼(実は年老いたシャーロック・ホームズ)」が「法」に関して語る部分である。
「『イギリスの法律は歴史と威厳のある法です』と彼は考えを追うようにして言った。『しかし何世紀も時代を経ている舗装道路のように、敷石と敷石の間に隙間ができています。そして個人の自由という問題が、法がその隙間をぎゅうぎゅうに詰めるのを食い止める働きをしている。自由と法とはもとより折り合いの悪いものです。その結果、我々は自分たちの自由を確保するために、少々の犯罪を見過ごさなければならないことになる』」(田口俊樹訳)

 何十年も前に書かれた文章とはいえ、特にこの最後の部分――「自由と法とはもとより折り合いの悪いものです。その結果、我々は自分たちの自由を確保するために、少々の犯罪を見過ごさなければならないことになる」――は、現在にも変わらず通じる形で、非常に簡潔に事態を切り取っている。あくまでも恐怖政治や独裁政治の類《たぐい》を考慮の外とする限りは、人間社会を縛るものは「法」――即ち「法治」でしかあり得ない。その「法治」の枠内において人が「自由」を追求しようとするならば、「法」の縛りは一定程度緩やかでなければならず、これは即ち、社会全体として、「法」の網から零れ落ちる一定程度のリスクを受け容れざるを得ないことを意味するはずであると思う(上記のホームズは、明らかに「法がその隙間をぎゅうぎゅうに詰める」ことを望ましい形とは考えていない)。そうでなければ、極論、「情状酌量」や「更生」や「社会復帰」等々の概念は総て無視して、ひとたび罪を犯した人間には遍《あまね》く厳罰をもって当たる、ましてや殺人を犯した人間などは、故意、過失、情状の如何にかかわらず、問答無用で死刑に処すというような手法を貫徹すれば、全体としての見かけ上は、今よりも安全で健全な(?)社会を作り上げることが出来るかもしれない。しかしそれは、個々人にとって極めて息苦しい日常となることだろう。

 ただ、ここには、もう一つの問題がある。社会は個人の集合体として成立しているのだから、本来は両者の価値判断は共通するはずとも言えるけれど、現実には、社会全体としての言わば計算上のリスクの許容と、当事者個人に具体的に降りかかったリスク即ち「被害」の許容とは著しく異なってしまうことだ。

 一旦話を移す。先日、オリックスの清原が日本ハムのダルビッシュから左手小指にデッドボールを受け、辛うじて骨折こそ免れたが一時は戦線を離脱、その際、「怒りの警告」(22日付『日刊スポーツ』)、「報復宣言」(同『スポーツニッポン』)、「暴行予告」(同『サンケイスポーツ』)などと銘打たれて報じられた発言で物議を醸《かも》した。

「故意にしろ故意じゃないにしろ、僕は守るべき者を命を懸けて守りたい。そういうこと(死球)があれば、命を懸けてマウンドに走り、そいつを倒したい」(『スポーツニッポン』)
「守るべきものを命をかけて守りたい。もしそういうこと(死球)があれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつ(相手投手)を倒したい。それでいろんな方からの非難、制裁…。そういうものよりももっと大切なものを守りたい」(サンケイスポーツ)
「もし次に当てられたら、命を懸けてマウンドに突っ走って、そいつを倒したい。ヤラれっ放しでケガして入院するぐらいなら、こっちから行って守るべきものを守りたい」
「目や頭に当たって選手生命を絶たれたら誰が家族を守ってくれるんですか。世界で起こってる戦争も誰も人が憎くてやってるわけじゃない。大切なものを守るために戦ってるんです」(『日刊スポーツ』)

 ダルビッシュの投球自体は、写真を見る限り、抜け気味の内角球でこそあったものの、頭部近辺というような特に危険な種類ではなく、(一旦は球審もファウルのコールをしたくらいで)いわゆる「内角攻め」の範囲であったかに思われる。従って、清原の言葉は「前代未聞の威嚇発言」(『サンケイスポーツ』)と受け止められ、一部に擁護論・同情論もあったとはいえ、押しなべて「各界や他球団からの反響、反発も予想される」(『日刊スポーツ』)、「非常識な発言」「球界では早くも非難が続出」(『サンケイスポーツ』)という具合に、批判的な反応が多かったようだ(従来、清原はデッドボールが大変多い打者であり、それは、厳しい内角球でも逃げないことを誇りとしているがゆえのようだが、反面、それがために、あるいは避け得るボールまでもぶつかってしまい、結果的には怪我などの大きなデメリットにつながってしまう例もあるように思う)。僕自身、事実上、暴力による報復をちらつかせることで相手を恫喝にかかる清原の例によっての強面《こわもて》ぶりには、何とも興ざめの想いがした。

 間違えば“凶器”ともなり得る硬球を投手が打者に対して一試合にのべ百数十回も投げ込むという野球のシステムゆえに、デッドボールにつながる「内角攻め」は、故意か過失かをも含めて、常に論議の的となる。現在、プロ野球アグリーメントにおける「危険球」とは「打者の選手生命に影響を与える、と審判員が判断したもの」を指しており、たとえ頭部に当たったとしても、打者に危険をもたらす恐れがないと審判が判断した場合、一回目は警告に留まり、その後、再び同種の球を投げた投手が(同一人、別人、敵味方を問わず)試合から除かれる。もっとも、たとえ一回目であっても、審判が「危険球」と判断した時には、即座に退場処分が下される場合もある。

 いずれにせよ、仮にデッドボールを受けた打者がどれほどの大怪我を負おうと、最悪、選手生命を左右するほどのダメージを被ろうとも、ルール上、投手の側に退場以上のペナルティーは存在しないわけである。そう考えれば、今回の清原に関しては大事に至らなかったものの、投手に作為があろうとなかろうと(しかも、その客観的判断は容易ではなく)、実際に「選手生命を絶たれ」るがごとき事態が惹き起こされた場合には、それを踏まえた某××選手が清原に準じる過激な物言いをしたとしても、周囲が「非常識な発言」というような冷静至極な反応に徹し得るかどうかには疑問を感じる。その時には、「××の憤りも当然」「むしろ××は被害者」という調子の論調も、一気に生まれかねないのではないか?

 “たかが”プロ野球と実社会との話題を結びつけることの危うさを意識しつつあえて記せば、被害を受けた立場の声は極めて強くなる。もちろん、犯罪被害者側に向けられる(マス・メディアによる報道を中心とする)人権侵害などは当然にも厳しく規制されるべきだが、それとは別に、被害者の価値観というものがほとんど不可侵な形で発信されている光景を眼にすると、その人たちの想いの深さを痛く感じながらも、同時に、いささかいたたまれないような印象を抱く時がある。北朝鮮拉致事件もその一つの例だし、先日、最高裁で上告審弁論が行なわれた山口県光市での母子殺害事件も顕著な例として上げられる。

 御存じの方も多いだろうけれど、1999年4月に起きたこの事件は、当時18歳1ヵ月だった少年が、強姦を目的(弁護側は否定)に上がりこんだ家で23歳の女性を殺害、傍らに居た11ヵ月の幼児をも殺害したという残虐なものだった。一審、二審では被告の年齢も考慮されて無期懲役の判決が下されたものの、検察側は“被告には反省の情が全く窺われない”として上告、最高裁において死刑に変わる可能性も言われている。この裁判に関しては、現在の――著名な死刑廃止論者であるいわゆる「人権派」――弁護人の採ったあれこれの手法が、引き延ばし戦術として裁判所から非難され、加えて、犯行の悪質さに憤激した世論の反発を一層かき立て、“極刑が当然”とする見方も多いようである。このような世論を醸成した理由としては、残された夫・父親であるM氏(「全国犯罪被害者の会」幹事)が当初から被告の死刑を熱望し、一審判決に際しては“裁判所が被告を死刑にしないのならば、そのまま社会に出してほしい。私が自分で殺す”という趣旨を公言し、上告審に際しても弁護人を強く批判していることも大きい(M氏は、弁護人の「死刑でも遺族の気持ちは癒やされない」との主張に対しても、「余計なお世話」と切り捨てている)。

 人の死によってもたらされたM氏のような被害者(遺族)のやりきれない悲しみや怒りは不可逆のものであり、その感情の噴出として発せられる言動には、生半《なまなか》の理屈では到底敵《かな》わない。その上、“当事者でもない人間が、痛みも判らず、お気楽に何を言うか”と――奇妙な事に、その意味では自らも非当事者であるはずの人々から――非難さえ受けることになる。結果、“こんな犯罪者に死刑を求める気持ちは当然だ”というようなコモン・センスが次第に形作られて行く。先に記した通り、「ひとたび罪を犯した人間には遍《あまね》く厳罰をもって当たる、ましてや殺人を犯した人間などは、故意、過失、情状の如何にかかわらず、問答無用で死刑に処す」とでも単純化すれば話は簡単であり、光市の例や冒頭に記したような理解しがたい犯罪については、今後、世論の大勢が“極刑やむなし”という方向に傾いて行くことも大いに予想される。

 しかし、再び元に戻って、そのような動きは、社会全体に起こり得る一定のリスクに眼をつぶりながら人としての自由を求めてきた人間社会の歴史的流れとは逆行するもののように思う。たしかに、被害者となった人々の存在を尊重することは重要だが、ひとまず死刑制度の是非をさておくとしても、少なくとも、その突出した心情を世論の誘導に都合よく利用することは避けるべきではないだろうか。そもそも、もっと突き詰めれば、致死的な犯罪を行なった者に対して死刑という刑罰を与えることは、実は、被害を受けた死者にとって直接何らの意義をもたらすものではなく、生き残った人間にとっての報復ないしは救済の実現としかなり得ないのである。
(2006.4.29)


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