今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

「喪中欠礼」についてよく判らないこと

                                

大西 赤人       


 新年に入ってアクセスされる方が多いだろうとは思うものの、ひとまずこれは、2001年最後の「今週のコラム」であります。

 人間、特に年齢を重ねると、時間の経つのが感覚的に速くなるとよく言われる。もう随分前に新聞で見た話なので曖昧だが、ある研究によれば、小学生ぐらいの子供に較べ、大人の時間経過は六倍程度速いのだそうだ(どんな方法で調べたのかは覚えていないけれども、たとえば何かの社会的な出来事が何日前に起きたように感じるか、何ヵ月前に起きたように感じるかを尋ねてみたりするのではなかったろうか)。たしかに、子供の頃の「半年前」「一年前」「五年前」「十年前」の感覚と、現在のそれらとでは大違いである。今では「十年前」なんて、ついこの間のように感じられる。

 あまりにもニュース(事件・情報)が多く、それら一つ一つを消化しきれないうちに、次から次へと新たなニュースがもたらされ、結果、早送りの画面のように眼の前を通り過ぎて行く。とりわけ今年は、9月11日を境として、アッという間どころか“ア”という間くらいのスピードで日々が過ぎ去ってしまったように思う。

 さて、年末・年始といえば年賀状。僕は、知人・友人にプリントゴッコやパソコンで手作り印刷したものを出していたけれど、ここのところ、メール・アドレスを持っている人に対しては、E-メールで送ることが多くなった。年内に早めに投函しておく必要もないし、ついでに言えば、費用もハガキより遥かに安上がりだ。

 ところで、年賀状についてよく判らないのが「喪中欠礼」の性質である。この暮れ、実際に僕がいただいた例では、「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」とか「喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます」とかの文言が黒枠の葉書に記されている。これは、家族や肉親を失った人が言わば年賀状の代わりに出すものであり、“私は喪中なので、あなたへ年賀状を出すのは遠慮しておきます”という趣旨であろう。当然、同時に、“あなたも私に年賀状を出されませんように(前もってお知らせします)”という意味も含まれているに違いない。

 しかし「遠慮」という言葉からは、考えようによっては、「喪中欠礼」を出す側は、必ずしも年賀状を完全拒否しているわけではないと解釈することも出来そうである。もちろん、一般的なエチケットとしては、「喪中欠礼」の差出人に対して年賀状を送るのは失礼に当たり、松の内が過ぎてから「寒中見舞」を出すようになどと説明されているが、お互いの関係によっては、「私は出さないけれど、あなたからの年賀状は歓迎します(いつも通りに欲しい)」というケースもあり得るようだ。

 どこまでが「喪中」の範囲なのか――何親等までか、配偶者の親族についてはどうなのか――も難しいけれど、BIGLOBEの年賀状に関するホームページには、「喪中欠礼は、(略)明治7年に大政官布告として定められた『服喪の期間』の名残で、父母および夫を亡くした場合の服喪期間が13カ月となっているためです。一般的には自分を中心とした一親(父母・配偶者・子)と生計をともにしている二親(祖父母・兄弟・孫)にあたる人が亡くなったときに、喪中に年を越す場合に年賀状の代わりに11月中旬から12月の上旬までに出すのがマナーとなっています」とされている。

 以前から僕が気になっているのは、仮に自分がタテマエとして「喪中」の範囲に該当する際、取り立てて「喪中欠礼」も出さず、いつもと変わらず年賀状を発送することは構わないのだろうかという点なのだが、そういうヘソ曲がりな考えを持つ人は居ないようで、ザッと調べた限り、ネット上にもそんな質疑は見当たらなかった。
 それでは、2002年が少しでも過ごしやすい一年となることを願いつつ……。
(2001.12.31)


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