秋里和国・小論

大西 赤人    


 「少女まんが」と「少年まんが」という明らかに相対しているかのような二者の境界線は、一体どこに引かれているのだろうか? もし、描き手が女性なら「少女まんが」、男性なら「少年まんが」とでも分けるのだったら簡単だが、もちろんそんな事はナンセンスだし、主人公の性別で分けるというのも無理がある。要するに、本来、この二者をあえて分別する必要はないということなのだろう。ただし、一人の読者として言えば、ある種の「少女まんが」に特有の奔放な“コマ割り”には、ついて行けないことがある。

 オーソドックスな「少年まんが」的“コマ割り”には、「右から左」「上から下」「大から小」というような大原則が存在するのだが、ここで言うある種の「少女まんが」は、そういう流れに必ずしも沿わない。それらの作品は、コマとコマとの連続を――あるいは非連続を――感覚的に受け止めながら読み進むべきなのだろうか。また、登場人物の外見上の区別が明確でない――似たような姿形――という場合も結構見かけるような気がする。ここで例に挙げては失礼かとも思うけれど、僕はたとえば紡木たくのまんがは、登場人物の動きや関係がどうしても掴めなくて、過去、何度も読みかけては投げ出し、一冊として読み通したことがない(妻などは大好きで、ほぼ全作を読んでいるのだが)。

 その点、秋里和国(一時期、和国弐と改名)のまんがは、“コマ割り”にしても、あるいは絵柄にしても極めて明快で、僕のような人間でも読みやすい。あまり背景を描き込まず全体に白っぽい印象の画風には、吉田秋生と共通するものが感じられる。もっとも、簡潔な絵柄の割りには、『それでも地球は回ってる』『THE B.B.B』『空飛ぶペンギン』などの作品は、一見、当たり前のスラップスティック・ラヴ・コメディーのようでありながら、登場人物のかなり倒錯した性的な要素を介在させることにより、平穏な日常に対するアンチ・テーゼ的な攻撃性をも漂わせて類型を脱している。

 しかし、これまでに僕が読んだ秋里作品の中では、他を圧倒して『TOMOI』が素晴らしい。これは、資産家の息子で慶應医学部を出た若い医師・友井久嗣を主人公とした連作物語で、はじめは、秋里作品に多いエスタブリッシュメント階級を舞台としたシュールなギャグまんがのように見える。小学館文庫版では年代順に編集されているが、冒頭(『眠れる森の美男』)の舞台は一九八二年。「ここはまわりがうるさすぎる」と日本を飛び出し、ニューヨークに渡った友井は、勤め先の病院で、ハンサムで敏腕な外科医――リチャード・ステインと出会い、彼の魅力に惹き付けられる。

 いわゆる「少女まんが」の世界では、しばしば男性同性愛(及び、その傾向)が極めて好意的かつ耽美的に描かれるのも大きな特徴かと思うが――「少年まんが」において、女性同性愛が同様に描かれることは普遍的とは言えまい――、当然のごとくリチャードはゲイであり、友井は逆らうことなく彼の愛情を受け容れる。彼が初めてリチャードの部屋で一夜を過ごした翌朝のシークェンス(小学館文庫版では81〜89ページ)は、無言のままにたゆたう友井の表情の変化が非常に印象的だ。

 さて、特筆すべき『TOMOI』の秀抜さは、背景に存在するエイズの影である。気ままに快楽を求めるリチャードは、過去の恋人がエイズで死んだと知ると、母国ドイツに帰ることで友井の前から去る。後に友井が愛情を注ぐマーヴィンは、明らかにエイズを発症して衰弱して行く。物語の舞台となっている一九八二年から八四年は、この現代の奇病がアメリカに端を発して世界中で騒がれはじめた時期に当たり、しかもそれは、とりわけゲイの間に広がる特殊な病として報じられていた。日本もその例外ではなく、マス・メディアを中心として、エイズと言えば「ホモの病気」「汚い・いやらしい病気」という歪んだイメージを撒き散らし、多くの人々の意識をねじ曲げ、長年に及ぶ悪影響を残した。

 後年、日本で初めて男性同性愛によるHIV(エイズ・ウイルス)感染者としてペンネームながらも素顔をさらした平田豊氏(一九九四年死去)は、テレビの『ニュース・ステーション』に出演した際、久米宏から「『セックスで感染した人は自業自得』という考え方の人も居るかと思うんですが」と訊かれて、整然とこう応じていた。
「私は普通の生活をして、普通の人を愛して感染しました。悪い事をしたという気持ちはないです。」

 友井の姿には、平田氏の言葉に連なるものが感じられる。『TOMOI』の結末は実に哀しくやりきれないけれども、同時に実に清冽でもある。エイズに対する偏見が今以上に渦巻いていた一九八五年から八七年頃にかけて、このように世俗意識を乗り越えた物語を秋里が描いていたことに驚きさえ感じさせられるのだ。


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