#後醍醐天皇


船上山

#天然の要塞・船上山

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#後醍醐天皇・隠岐脱出

船上山(せんじょうさん)616mは、東伯郡琴浦町の西南に位置する山。大山火山の外輪山とされる。特徴として溶岩流で形成された急峻な台地を持つ。山名は、山容が「船底」に似る事とされる。南北朝時代後醍醐天皇は、日本海に浮かぶ「隠岐ノ島」(おきのしま)に流されたが、後に隠岐を脱出したのは、1333年2月の事である。天皇を乗せた小舟は夜陰に乗じて隠岐を脱出。佐々木方の追っ手をかわした小舟は、御來屋(みくりや)と呼ぶ小さな漁港にたどり着いた。

#船上山の合戦

この時、後醍醐天皇を擁護し、船上山(金石寺)にかくまったのが、名和一族(地方豪族)の名和兄弟である。その首長、名和長年(なわながとし)は、近隣の住民に兵糧(ひょうろう)の調達をたのみ、さらに「兵」を起こしたとされる。後醍醐天皇を奪い返さんとしたのが、隠岐の領主、幕府方の佐々木清高(ささききよたか)である。天皇方(150騎)と幕府・佐々木方(2.000騎)との合戦が始まったのは、隠岐脱出から6日目の事。船上山に陣を構えた天皇方は、隠岐から出兵した佐々木方に圧勝した。天皇は、同年5月には、京に向かったとされる。この合戦を機に、天皇方は勢いづき、間もなく「鎌倉幕府」崩壊に導く。

♯修験道と船上山

飛鳥時代・和銅年間(708〜715年)の頃には、山上に赤衣上人が「智照権現」を祀ったとされ、古くからの寺坊跡や五輪群などが確認されている。山頂の平地には、金石寺(こんじゃくじ)などがあったらしい。戦国時代には、合戦の舞台となる。船上山は、大山寺と密接な関係をもちながら「霊場」・「修験道場」として栄えてきた事がうかがい知れる。伯耆三山の一つ。

#天台宗寺院と船上山

智積寺(ちしゃくじ)とは。琴浦町竹之内にある「天台宗」の寺。古くは、船上山にあって「金石寺」(こんじゃくじ)と呼ばれていた。戦国時代(文禄年間)に解散する。後に、ふもとの竹之内(たけのうち)地内に「智積寺」(1530年)として再興する。
権現とは。平安時代に生まれた「仏教語」の一つ。神や仏の「仮り」の姿を指す。



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