正倉院正倉の湿気調節 〇 木材は割って使われていた 〇 一本のカヤノキで建てられたというお堂 〇 節のある木で建てると 〇 小さい小さい国宝建築 〇 国宝建築における秀吉と家康
正倉院正倉の校倉
この校倉は8世紀に建てられ、すでに1200年以上も経過していて、校木と校木の交点に隙間が生じたの
か、つめ物が見える。
東大寺正倉院正倉に保存されてきた御物は長年月を経てきて
いるにもかかわらず保存状態が良い。その原因は正倉院正倉が校倉造で、湿度が良くコントロールされ
てきたことによるとされている。しかし正倉院正倉内の温湿度の実測結果によると、外気の影響が大き
く、必ずしも機密性は良くない。これに対し、最近、宮崎県の南郷村に平成の正倉院として校倉造の建
物が建てられ、その内部の温湿度が測定されているが、その結果は極めて機密性に富んでいて、年間を
通じて温湿度は外気に関係無くほぼ一定に保たれている。同じ校倉造でも両者の温湿度の測定結果は大
きく異なっていることになる。
木材は湿気を吸うと膨張し、乾燥すると収縮する。このように湿気を吸ったりはいたりする現象を見て
、木材はいつまでも生きていると表現する人もいるが、その度に木材は膨張、収縮を繰り返している。
三寒四温といわれるように、1週間に1回乾湿が繰り返されるとすると、1年で52回膨張、収縮が
繰り返されることになる。1000年で52000回ということになるが、一体何回膨張、収縮が繰り返された
ら木材と木材の間に隙間が生じるのだろうか。
平成の正倉院と正倉院正倉の機密性の違いは正倉院正倉があまりにも古くなりすぎ、建築当初は高か
った機密性が、年代を経るとともに大きくなる隙間によって失われたのではないかと考えられる。ちな
みに正倉院正倉の壁面をよく観察すると、校倉部材の所々に詰め物が施されているのがわかる。いった
い何年経てば機密性が失われるのか、100年か、200年か、あるいは数百年か、興味の尽きないところで
あるが、その追跡調査は南郷村の校倉造の今後の経過に期待するしかない。いずれにしても、校倉造で
千年以上も機密性を保たせることには自ずから限界のあることを正倉院正倉は示している。なお、正倉
院正倉の御物はスギの箱の中に収められていて、その中の湿度は年間を通じほぼ一定であることが確か
められている。御物は校倉造とスギ箱の二重の木材によって守られてきたのである。なお、正倉院の御
物は現在も正倉院に保管されているのではなく、別の空調された保管庫に移されているという。
なお、正倉院正倉の湿気調節機構については以前に次のような話を聞いたことがある。外気の湿気が
多くなる梅雨時には木材は膨張し隙間が無くなるが、湿気の少なくなる冬場は木材が収縮して隙間がで
き乾いた空気が室内に入り、室内が乾燥するというものである。伊勢神宮には高床式で板張りの籾を貯
蔵する倉があるが、側面の板の収縮、膨張は屋根が上下することと連動し、冬でも隙間が開かないよう
に細工されている。もし乾燥したとき板と板の間に隙間が開けば籾がもれてしまうであろう。このよう
に、側面の板の収縮、膨張で屋根が上下するのかどうかよく判らないが、正倉院正倉の校倉も四季を通
じて隙間が開くことなく、機密性が保たれる機構に元々なっていたということが、最近の研究で明らか
になったという。
NHKがウルトラアイという番組で木材の湿気調節について小実験を行ったことがある。室内を想定し
た箱を3つ作り、その中で蒸気を発生させて湿気を高くしたり、シリカゲルを入れて乾燥させたりし
て、箱の中の湿気の状態を観測したものである。前面ガラス張り以外の面をすべてプラスティックで作
った箱では、湿気を上げるとすぐに前面のガラスが曇って、結露水がつき、逆に乾燥させると箱の中の
湿気はからからに乾いてしまう。これに対し、前面ガラス張り以外の面をすべて木材で作った箱では、
湿気を上げても乾燥させても箱の中の湿気はさほど変化しない。また、前面ガラス張り以外の面の半分
を木材、残り半分をプラスティックで作った箱では、湿気の上下に対して箱の中の湿気は前記の二つの
中間的な変化をする。このように木材の湿気調節機能は極めて大きい。ただし、木材の湿気調節が可能
な外気の状態には限界があることを忘れてはならない。外気湿度がいつも100%に近い状態が続くと、
木材は湿気を吸えなくなり、湿気の調節ができなくなるばかりか、カビが生え、腐朽してくる。
(山林 No.1442 大日本山林会 (2004.7) に掲載)
神谷神社本殿背面の長押
楔で割った跡がはっきり残っている。
木材を割って使うという使い方は鋸の発達していない時代には通常行われていたと考えられる。
法隆寺回廊 回廊の連子格子の格子材、
東大寺正倉院正倉の校倉の材料はその良い例であろう。また
神谷神社本殿(香川県)では楔で割った長押が楔の跡を残した
状態で使われている。また驚いたことには、
高山寺石水院の
座敷の天井板には割って凹凸のある板がそのまま使われている。
日本では横挽き鋸は古くから使われていたが,縦挽き鋸が用いられるようになったのは室町時代以降
というから、それまでは木材はほとんど楔で割って用いられたのであろう。中国や朝鮮ではもっと前か
ら縦挽き鋸が使われていたというが日本ではどうして使われなかったのだろうか。それは日本にはスギ
やヒノキという容易に、しかも縦に真っ直ぐに割れ易い木があり、割って製材した方が簡単で、あえて
縦挽き鋸を使う必要が無かったとされている。木材を割る製材法は繊維に沿って割れるので、繊維を時
として切断してしまう鋸による製材法よりも確かに木材の性質を生かして上手に使うことにつながる。
しかし室町時代に入り、真っ直ぐに割れる木材が少なくなるとさすがに楔で割る製材だけではどうしよ
うもなくなり、縦挽き鋸が使われるようになってきたわけである。
法隆寺回廊の連子格子の格子材は当初の天平時代のものは太いものや細いものがあり、大きさがまち
まちであるという。ところが江戸時代に修理したものは、すべて同じ大きさになっているという。異論
があるのかもしれないが、天平時代の格子材は割って製作されたため大きさが不揃いとなったが、江戸
時代では縦挽きのこが発達して使われるようになっていたので、格子材は同じ大きさになったのではな
いかと私は考えている。
木材を縦に割って使う使い方は今でもまだいくつか残されている。割り箸、樽類などである。木材は
縦長の繊維が材軸方向に並んでできているので、この繊維に沿った方向が最も強い。製材品などの材軸
と繊維の方向がずれている場合、目切れといっているが、強度が落ちるほか、繊維に沿って斜めに割れ
るなどの障害が出てくる。
割り箸は細いわりにはかなりの力がかかるので、目切れでは時と
して斜めに裂けてしまう。機械仕上
げの割り箸では繊維方向を全く配慮していないので、第一、使おうとして割ると斜めに割れてしまうこ
とがあり、使う前に何とも不愉快になってしまうし、使っていて折れてしまうこともしばしばである。
これでは折角のご馳走も台無しである。
樽材を割って使うのは割り箸とはまた異なった理由による。中に
入れる水が漏れないようにするために
は樽の板の長手方向に繊維が沿っていることが必要である。また樽は水に浸かってぬれたり、乾燥した
りすることもあるので、そのたびに収縮膨張を繰り返すが、目切れだと板と板との間に隙間ができて水
漏れをおこしてしまうだろう。かって酒の醸造にスギの樽が使われていた頃、心材と辺材の境界を含ん
だ円弧状の板が最良のものとして使われたが、辺材と心材の間には白線帯といわれる心材化途上の部分
があり、この部分は水分を通過させることが特に少なく、したがって、この部分を含んだ板を使えば、
酒の漏れを最小限に抑えることができたためである。
繊維が斜めに走っていることで使用上支障が生じる顕著な例は、
野球のバットであろう。ボールをで
きるだけ遠くへ飛ばすために力一杯打つわけであるから、その衝撃力は大きい。野球を見ていると、バ
ットが斜めにおれて飛んでいくのをよく見かける。バットが斜めに折れるのは繊維が斜めに走っている
からである。とりわけバットのグリップ部分の繊維が斜めに走っていると、必ずそれにそって斜めに折
れてしまう。斜め折れを無くするためには、バット材を割って、それからバットを削り出せばよいわけ
であるが、原木事情などもあって、なかなかそうは行かないようである。何年か前は日本のプロ野球で
バットがよく折れていたが、最近はメジャーリーグでもよく折れているようだ。斜めに折れて吹っ飛ん
でいくバットで怪我人が出ないことを祈りたい。
(山林 No.1443 大日本山林会 (2004.8) に掲載)
富貴寺大堂
大堂といってもさほど大きくはないが、1本の大きなカヤノキで建てられたという。
国宝建築に使われている樹種が何なのかを鑑定するのは、建築年代が古いこともあって材面を見ただ
けではなかなか難しい。木材を切りとって調べられれば、ほぼ見当はつくのであろうが,国宝建築に傷
をつけることは全く許されない。修理の時の資料が調べられればよいが、部外者にはそれも不可能であ
る。文化庁文化財保護部建造物課の将来的に確保が困難となることが予想される文化財修理用植物性資
材という文書によると、桧皮やこけらなどと共にヒノキ、スギ等の高品質大径材、ケヤキ、クリ等の広
葉樹が上げられている。したがってこの4樹種は国宝建築にも多く使われていることは明らかである。
日本で最古の法隆寺の建物は総ヒノキ造りであることは、法隆寺大工の西岡棟梁の話からも明らかで
ある。それでは国宝建築のほとんどがヒノキなのであろうか。
吉野山に建つ金峯山寺本堂は創建後焼失を繰り返し、現存
の建物は1591年に建てられたものであ
る。量感に富んだ建物で、建物正面には大きな柱が並び、堂内に入ると、さらに大きな柱が林立してい
て、その数68本を数えるという。直径1mにも及ぶものもあり、長さは9mある。この柱の中には表
札が掛かったものがあり、樹種名が書かれている。スギ、ヒノキ、マツ、ケヤキなどであるが、ツツジ
の名前も出てくる。これらの柱の太さはまちまちで、曲がったものや面取りされないものもある。その
ため、堂内を歩くとあたかも太古の森林の中にいるような雰囲気になる。本当にツツジなのかどうか知
る由もないが、これだけ多樹種の柱が使われている建物は他にはなさそうである。
国東半島に建つ富貴寺大堂は12世紀の建物である。寺の案内パン
フレットによると高さ970丈
もある大きなカヤノキ1本でこの大堂が建てられ、まだ木が余ったので仏像まで彫られたとある。これ
は全くの伝説であろうが、総カヤ造りだとすると、大変珍しく、国宝建築の中ではこれだけであろう。
総カヤ造りを裏付けるかのように、境内には大きなカヤノキが1本亭亭とそびえているのには驚いた。
1000年後にはこのカヤノキ1本で大堂が建て替えられるかもしれない。
東大寺南大門には直径1mを越す柱18本が使われて
いる。この柱の下のほう2mくらいまでは、人
が行き来する衣擦れのせいか、白っぽく磨かれていて、木目がはっきり見えるところがある。この木目
を観察すると、どうもヒノキではなくスギのようである。また割れの入り方が,柱の一ヶ所に集中的に
生じており、柱全面に小さな割れが生じるヒノキの割れ方とは異なる。文化財建造物保存技術協会の話
でも、南大門の最近の修理資材としてはスギのみが使われているとのことであるから、この門の材料は
間違いなくスギ材だと思われる。南大門は鎌倉時代の1199年に建てられたものであるから既に800年を
経過している。スギはヒノキに比べ、強度的に1ランク弱いとされているが、これが今後何年も
つのか見守っていきたいものだ。
高山寺石水院は13世紀前半の建物であるが、拝所の床
板には屋久スギが使われているという。この
時代にどのようにして京都で屋久スギが流通していたのであろうか。そんな疑問が生じるが、いずれに
しても、これは大変珍しい例といえよう。
使用部位によって共通して使われている樹種もある。例えば梁材にはアカマツが多く使われている。
瑞巌寺庫裏や妙法院庫裏
では屋根裏に何段も組まれたアカマツ梁材による重厚な小屋組みを見ることが
できる。また、彦根城天守の梁組みの中には多重曲がりのアカ
マツの梁材が使われていて、ユーモラスで変化に富んだ曲線を描いている。
この他、宮島の厳島神社回廊の床張りにはマツやクス
ノキが、松本城天守、
犬山城天守、彦根城天守、
姫路城天守などの城にはマツやツガがそれぞれ多用されている
ようである。また、小浜の明通寺本堂
にはヒノキアスナロが使われていると案内のおばさんから説明を受けた。また、高岡市の
瑞龍寺仏殿は
ほぼ総ケヤキ造りとも云えるくらいケヤキが多く使われている。これらはそれぞれで地域の木が使われ
ていることを示していると云ってよさそうである。
(山林 No.1444 大日本山林会 (2004.9) に掲載)
金剛峯寺不動堂の節まみれの柱
折からの西日で、風化して突出した柱の節が壁面に影をおとしていた。
節は枝が幹の中に巻き込まれた部分である。一般に節は木材利用の観点からは欠点とみなされている
ので、木材に節がないことが理想的である。しかし節は枝につながり、枝には葉がついていて、その葉
によって光合成が行われ樹木は成長するわけであるから、樹木が生きていくためには節は必ずなくては
ならないものである。したがって、樹木から節を全くなくすることはできないが、部分的に無節材を得
ることはできる。天然林では自然落枝によって枝が無くなり、無節材を形成する。また、人工林では吉
野林業に見られるように、密植による自然落枝や北山林業に見られるように、枝打ちによって枝をなく
し、無節材を形成させることができる。
東大寺転害門の柱であるが、柱には随分大きな節がたくさん
ある。この門が建てられてから1200
年も経過しているので、柱の材面は節周辺で凹凸が激しくなっているが、柱としての機能は今なお維持
している。宮大工西岡棟梁の後継者小川棟梁は仕事に行き詰まるとこの門の前に来て気持ちを鼓舞する
とNHKテレビで述べていた。とりわけ節の多い柱を見ると、1200年も前の大工道具も発達していな
い時代に、よくもここまで仕上げたものだと天平大工の心意気に打たれるというのである。節の周辺で
は繊維が錯綜していて、大工道具の発達した現代でも、節を含んだ材面をきれいに仕上げるためにはそ
れなりの技術を必要とすることは明らかである。
また、高野山の金剛峯寺不動堂は1197年に建てられたもので
あるが、柱の中には節の多いものもあり、その中の1本の柱は風化のせいか節の周りが著しく痩せこけ
て節だけが突出しているのが目に付いた。
東大寺南大門には直径1mを越す柱が18本使われて
いて壮観である。これらの柱を見ていると、柱
のあちこちにえくぼのような窪みがあることに気が付いた。よく観察してみると窪みの奥にはどうも節
がありそうである。生節は柱の表に出ているので、多分、この窪みは死節や腐れ節を掘り起こした跡の
ようだ。とすると、この頃にも、死節や腐れ節を柱の表面に出すことを嫌ったのであろうか。
一般に、鎌倉時代までの建築物を見ていると、特に節を避けて木を選んだ形跡は無く、無節材も節を
含んだ材も同等に使われているようである。ところが、17世紀はじめに建てられた
二条城二の丸御殿
では明らかに無節材が使われているようである。この建物には書院造りの完成した姿があるといわれて
いる。またそれ以降に立てられた国宝建築も、無節材を使っているものが多いという。
今日、木材市場において取引される木材の価格は材面に現れる節の量によって決まるくらい、節は材
価決定のための重要な因子となっていて、節が無いことが高価格材の第一条件である。
住宅建築に使用される部材は段々小さくなってきて、柱は10.5cm角に過ぎない。こんな小さな断面に多
くの節があれば、見掛けもよくなく、強度的に弱い材も出てくるであろう。節が許されるか許されない
かは建築様式の発展にともない、どうも使用部材の寸法が小さくなったことによると云えそうであ
る。
節を持つ材すべての価値が低いかというとそうでもない。生節を一杯持った天然のヒノキ材は装飾価
値を買われて高価に取引されている。世界的にはノッティパインと呼ばれ、生節を一杯持ったマツ材が
日本のヒノキの場合と同様に賞揚されている。強度の観点から装飾の観点に見方を変えると木材の価値
もまた異なったものになるということであるが、多分に希少価値が評価の対象となっている。
それでは現在育林中の造林木をどう使えばよいのか、大変難しい問題であるが、大きな断面で使うこ
ともその解決策の一つではなかろうか。鎌倉以前の建築様式に帰ることを再検討してみては如何なもの
であろうか。
木材を小さな断面で使うためには、現在行われている造林法を改め、密植するか、幼齢期から枝打ち
して成長量を抑制することが必要である。
(山林 No.1445 大日本山林会 (2004.10) に掲載)
奈良市法華寺町に海龍王寺はある。土塀は相当痛みがひどく、
境内は草蒸しているが、建
物はよく手入れされていて、古寺の風貌躍如たるものがある。そんな建物の一つ西金堂に小さな五重小
塔は安置されている。この塔の高さは約4mと小さい。しかし建立年代は古く、8世紀前半、天平時代
初期とされている。なぜこのような小さな塔が建てられたのか、推測の域を出ないが、大きな塔を建て
るのでは経費がかかるので経費節約のためではないかと考えられている。小さいとはいっても造りは大
きいものと変わっていない。屋外で風雨に曝される大きい塔は軒下など傷みやすく、修理に際し改造さ
れる場合があるが、この小塔は室内に建立されているので、軒回りが建立当初のままよく保存され、当
時の建築技法をよく今に伝えていて貴重であるという。この五重小塔も、垂木は地円飛角の構成を採っ
ていることが判る。
根来寺は1585年、豊臣秀吉の攻略を受け、ほとんどの堂宇や
坊舎を焼失した。根来寺大塔は幸い
難を逃れたが、梁にはその時の弾痕が残されている。最近、1976年から始まったこの寺の発掘調査
により、秀吉の攻略以前には何百という坊舎が建ち並び、何千人という人々がこの地に住んでいたこと
が証明された。また根来寺は単なる宗教寺院ではなく、鉄砲を導入した武力集団を擁していたほか、寺
そのものが防御施設を持ち、城塞化されていたことも明らかになった。しかし、秀吉の根来攻めの前に
はあえなく焼亡してしまったわけである。このように秀吉は信長とともに多くの神社仏閣を焼き払って
いる。根来寺のほか、延暦寺、日吉大社などである。また秀吉は園城寺(三井寺)寺領の没収廃絶を命
じている。その結果、現在国宝に指定されている園城寺勧学院客殿、同寺光浄院客殿、延暦寺根本中堂、
日吉大社西本宮本殿/東本宮本殿はいずれもその後の16世紀後半から17世紀前半にかけ再建された
ものである。また、秀吉は国内のみに止まらず、韓国の著名な建物を焼き払っている。
仏国寺、宋廟、
昌徳宮などの建物である。これらの世界遺産の指定を受け
ている建物は、いずれもその後、17世紀に
再建されたもので比較的新しい年代のものが多いのはこのせいである。しかしこの一方で、秀吉は伏見
城、聚楽第、豊国廟、内裏建物などに多くの優れた木造建築物を建造した。家康の時代に入り、これら
の建造物はほとんど破却されたが、一部は移築されて現存している。その一つは琵琶湖の北部に浮かぶ
竹生島の宝厳寺唐門及び
都久夫須麻神社本殿である。前者は豊国廟の極楽門を移築したとされ、また後
者は豊国廟あるいは伏見城の遺構であるとされる。これらの建物はいずれも絢爛豪華な桃山風装飾が施
されている。また今一つは南禅寺方丈であり、内裏建物を移築し
たものであるという。また、定かでな
いが本願寺飛雲閣、大徳寺唐門も聚楽第からの移築と伝えられ
ている。小さな小さな国宝建築
円成寺春日堂・白山堂
ごく小さなお宮であるが、屋外に建てられていて、模型ではない本来の建物である。
奈良市中院町の元興寺極楽坊にも同じような五重小塔がある。
高さ5.5m、海龍王寺五重小塔より
やや遅れ8世紀後半の建立とされている。海龍王寺の塔が箱枠に組物を張りつけて外観を整えているの
に対し,この塔は部材と部材の接合部分も大きい塔と同じように切り欠いて合わせてあり、より精密な
模型となっていて、これを手本にすれば実物の塔が造り易いように工夫されているという。
法隆寺には玉虫厨子がある。高さ2.33m、7世紀に作られたものであるという。使用されている
樹種は主としてヒノキで、一部ケヤキであるという。厨子は本来仏像や経典などを納めるための仏具で
ある。この玉虫厨子も、もとは金堂の中に安置され、小さな阿弥陀三尊像が納められていたという。と
ころがこの厨子は建物の形をしており、それも古代建築の精巧な模型になっている。法隆寺の建物が現
存最古の建物であるが、この厨子は模型とはいえもっと古い時代の建築様式を示していることになる。
しかし、この厨子は国宝の分類としては建築ではなく工芸の分野に分類されている。
奈良市忍辱山町の円成寺には鎮守社として12世紀末に建てられ
た春日堂・白山堂がある。ともに同
形、同寸法の春日造の小さな社殿である。1214年の春日大社造替に際し、本殿を移築したものでは
ないかとする説もあるが、その真偽は別として、この小さな社殿は日本最古の春日造であるという。こ
の小さな社殿は前述の五重小塔や玉虫厨子と異なり、室内ではなく屋外に設置されている模型では無い
れっきとした本来の建物である。建物相応の立派な屋根がついているとはいえ、雨露を防ぐには小さく
、土台周辺部は傷みが著しいのが目に付く。これら二つの堂に隣接して、やはり小さい宇賀神本殿(重
要文化財)が建っているが、こちらの方は覆屋で覆われていて雨露から守られている。
これらはいずれも小さな国宝建築であるが、いずれも古い時代の木造建築の様式を今に伝え、その存
在感をアピールしているといえる。
さほど小さくはないが、屋内に設置されている国宝建築には1124年に建てられた
中尊寺金色堂が
ある。お堂は土地の樹種を使ったのかヒバが使われているという。1950年の学術調査で、堂の下部
から奥州藤原氏三代の遺骸を収めた金箔押の木棺が確かめられ、また源頼朝にうたれた四代目の首級を
収めた首桶も明らかになった。したがって、この堂は単なるお堂ではなく葬堂としての機能を持つもの
でもある。金箔、螺鈿、彫金や蒔絵など当時の工芸技術の粋を集めて装飾されたこのお堂は建築という
よりもむしろ工芸品といったほうが適当なのかもしれない。創建当初、屋外に設置されていたという
が、これらの装飾の損傷を防ぐため、その後木造の覆堂の中に設置されてきた。しかし、現在は鉄筋コ
ンクリートの覆堂の中でガラスケースに納められていて、このガラスケースの中の湿度は除湿機により
年間をつうじほぼ一定の65%に保たれている。古今稀に見る豪華な装飾が施されているお堂とはいえ、
ガラスケースに納めるのはいささか不自然な気もするが、お堂の装飾を後々まで残すためにはこの過保
護もやむをえないところであろうか。
(山林 No.1446 大日本山林会 (2004.11) に掲載)
国宝建築における秀吉と家康
豊国神社唐門
秀吉をまつった豊国神社は徳川氏により徹底的に破却され、以後200余年間廃絶、明治維新となり復興
された。その間この唐門は二条城を経て南禅寺に移されていた。
一方、家康は徳川幕府の威信をかけて二条城を建築した。二条城二
の丸御殿は徳川将軍家の京都にお
ける宿館であった。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院(小広間)、白書院(御座の間)
の建物が、東南から西北に雁行して建ち並ぶ広大な宮殿で、書院造の完成した姿を見ることが出来ると
いわれている。時代は下がり、慶喜が大政奉還したのもこの二条城二の丸御殿の大広間である。皮肉に
も二条城は徳川幕府の衰退も見てきたことになる。
明治時代に入り、秀吉の功績が認識され、豊国神社が再建され、秀吉没後、二条城を経て南禅寺に移
されていた唐門が移築された。この豊国神社唐門は西本願寺唐門、大徳寺唐門とともに京の三唐門の一
つとされている。これらはいずれも絢爛豪華な彫り物で飾られ、日没まで見飽きることが無い日暮門と
いわれている。
北野天満宮は実在の人物菅原道真を祀った廟として947年に創
建された。その後幾度か建替えられた
が、現在の社殿は1607年豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として建替えたものである。本殿と拝殿の
間を石の間でつないだ形式で、石の間造とも呼ばれる。この形式は後に豊国廟に用いられ、江戸時代に
は伊達正宗が豊臣家に仕えた工人達を京都から呼び寄せて建てたという
大崎八幡神宮(仙台市)、初代
徳川将軍家康を祀る日光東照宮、三代将軍家光を祀る
輪王寺大猷院霊廟に採用された。このようにこの
形式は東照大権現を祀った日光東照宮に採用されたことから、その後権現造の名称で呼ばれるようにな
り、華やかな装飾性がこの形式の特徴であるかのような印象を与えている。しかし、廟建築の形式、石
の間造の原型は前記のように北野天満宮であり、この北野天満宮の装飾はむしろ少なく、他の石の間造
の建物に比べごく地味で、落ち着いた印象を受ける。
なお、徳川家の庇護によって再建、整備された建物には
知恩院御影堂および同三門があり、ごく最
近、2002年に国宝に指定された。御影堂では名工、左甚五郎が置いたとされる忘れ傘を軒下に垣間見る
ことができる。また、三門は東福寺三門に次いで国宝に指定された三門としては2例目で、規模は
東福寺三門より大きい。
山林 No.1447 大日本山林会 (2004.12) に掲載)
国宝木造建築を訪ねて
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