第4日(平壌→開城・板門店→平壌)


5月2日(日)

 午前8時、開城板門店訪問のため、ホテルを出発した。平壌から開城までは170km、ずっと高速道路ができている。

平壌−開城高速道路。車は滅多に通らないし、道もあまりよくない。

 高速道路を少し走ると、サリウォン(沙里院)を通過する。このあたりから、道の両側に戦車が配備されているのが見えてくる。リピーターの人によると、一昨年くらいまでは戦車はほとんどなかったそうである。それが昨年くらいから配備され始め、来るたびにその数が増え、また、配備地域もどんどん拡大しているそうである。戦車はいずれもむき出しのまま置いてあるのではなく、民家の屋根のような物が作られて、その下に隠されている。上から偵察衛星で見ても分からないようにするためであろうか。いくつかの戦車では、実際に兵士がハッチを開けて出入りしているのも見えた。

道の脇には戦車が配備されているのを見る。

 我々は案内員から見えないようにカメラを構え、戦車の写真ばかり撮っていた。そのうち、戦車が近くに見える所を通ったが、案内員がこちらを見ていたので、誰も写真を撮らなかった。すると、P案内員が急に戦車を指差して「戦車!(撮らなくて良いの?)」と言ったので、一同大笑いになった。

 1時間ほど走った所に休憩所があるので、我々はそこでトイレ休憩を取ることにした。これは、この高速道路にある唯一の休憩所でもある。かつてはスフン(瑞興)休憩所と呼ばれていたが、最近、近くの畑に潅漑設備ができて豊富な水が供給されるようになり、穀物の収穫量が飛躍的に増えたので、スゴク(水穀)休憩所と改名したとL案内員は説明した。ここには売店もある。

水穀休憩所。

休憩所の売店。

 そこからまた開城に向けて走る。だんだん戦車の数が多くなり、検問もいくつかあった。確か、3つ目の検問であったと思うが、検問の所で2回目のトイレ休憩も兼ねて停まったとき、ちょうど反対車線を軍のバスがやってきて、やはり検問で停まった。そのとき、我々のグループのうちの数人が、バスに近づいて行ってその写真を撮った。これで、そのバスに乗っていた軍関係者が怒ったのである。C案内員が呼び出され、バスから降りてきた軍関係者と一緒に検問の建物の中に入って行った。しばらくして帰ってきたC案内員から、

「写真を撮ったことで、先方から文句を言われました。軍関係の建物や人の写真は撮らないでください。この先、軍事境界線にだんだん近づきますから、写真撮影には特に注意して下さい」

と注意された。でも、フィルム没収は免れた。

農村風景。

 さらに走って、左手に開城の街が見えてきた。ところが、今日は中国人の団体も板門店を見学に来ているらしく、かち合うとゆっくり見学できないから、という理由で、開城郊外にあるワンゴンワンルン(王建王陵)を先に見に行くことになった。P案内員はそのことを運転手に告げたが、考え事でもしていたのか、運転手は開城市内へ行く分岐で高速を降り損って、板門店方面へ行きかけた。P案内員が驚いて、

「オディガ!(どこ行くの!)」

と言ったので、運転手は行き過ぎたことに気づいた。それで、我々の車は中央分離帯の切れ目のようなところから中央分離帯を乗り越えて反対車線に入り、分岐のところまで戻って開城市内に向かった。

開城市内に入った。

開城市内。

開城駅前を通る。

 そして、一度開城市内を通りぬけて郊外に出、数キロ行った所にある王陵まで行った。ここでも、我々が到着するとすぐに、女性説明員が出てきた。高麗国の建国者、王建王の墓である。

王建王陵を見学。

 王陵を見た後、再び開城市内を通りぬけて、板門店に向かった。開城市内から板門店までは、8kmである。10分もしないうちに到着。朝鮮人民軍兵士の出迎えを受けた。

板門店の手前にある、「ソウル 70km」の看板。

板門店のゲートには、「自主統一」の文字が書かれている。

板門店内で見た、「後代に、統一した祖国を譲り渡してあげよう」の看板。

 まず、売店で記念品などを買った後、板門店総合講義室という小部屋に通されて、板門店地域の模型を見ながらの説明を受けた。真ん中に、いわゆる板門店があり、そこを通る軍事境界線が示されている。大まかにいえば、軍事境界線は北緯38度線に大体平行に東西に走り、それによって朝鮮半島は南北に分断されている。しかし、軍事境界線を細かく見ると、それは決してまっすぐではなく、非常に入り組んだ形をしていた。実際、共同警備区域になっているいわゆる板門店会議場付近では、軍事境界線は東西ではなく、むしろ南北に走っていて、会議場の西側が韓国領、東側が北朝鮮領になっていると考えると理解しやすい。模型では、手前が北朝鮮側、奥が韓国側となるように作られていた。

板門店共同警備区域の模型を見ながら、兵士の説明を聞く。

同上。

 この模型には、板門店の共同警備区域内はもちろん、軍事境界線から両側2kmの幅(すなわち、合計4kmの幅)で設けられた非武装地帯内にある、南北双方の建物がすべて再現されている。白いのが北朝鮮側の建物、青いのが韓国側の建物である。この説明を行うときも、兵士は、

「白いのは朝鮮(北朝鮮とは言わない)の建物、青いのはアメリカの建物」

と説明していた。そして、南側のいくつかの建物を棒で指し示しながら、

「アメリカは、これらの建物に核兵器を秘密裏に持ち込んでいる。(非武装地帯内には一般兵器ですら持ち込みできないのに)ここに大量に核兵器を配備するなど、明らかな協定違反である。我が方はそれを知っているが、それでも協定を遵守して、非武装地帯内に一切の兵器は持ち込んでいない。平和を願う我々とは違って、帝国主義者アメリカのやることは汚い」

とアメリカを非難していた。壁には朝鮮半島の地図も張ってあって、韓国内の軍事基地が示されている。

「アメリカは南朝鮮にこんなに多くの核兵器を持ち込んで配備している」

と声を荒げていた。

「南朝鮮にはこんなにたくさん核兵器が配備されている」と声を荒げる朝鮮人民軍士官。

 我々のバスには、3人の兵士が護衛に乗り込んできた。非武装地帯内に入る。非武装地帯内にも農村があり、朝鮮人参を作っていた。開城は有名な朝鮮人参の産地なのである。わざわざ非武装地帯内で農作をするのは、一種の政治的宣伝に使うためであり、韓国側も同様に非武装地帯内に農村を設けている。

 我々は、まず、停戦談判会議場なる建物を見学した。朝鮮戦争の停戦が実現した後、ここで何度か会議が開かれたらしい。

停戦談判会議場。

 そのあと、隣にある停戦協定調印式場を見た。我々を案内してくれた朝鮮人民軍兵士は、

「アメリカ側から降伏の申し入れがあった後、どこで降伏文書の調印を行うかが問題になった。アメリカ側は初め、アメリカ空母上で調印することを主張したが、降伏文書の調印なのだから、敗戦国アメリカが戦勝国朝鮮に来て調印すべきだ、と我が国が提案すると、アメリカは、『ごもっともな意見です』と認めて、そして、1953年7月27日、ここでアメリカが我が国に対する降伏文書に署名調印したのである」

と、誇らしげに説明した。

停戦談判会議場の隣りにある、停戦協定調印式場。

停戦協定調印式場内部の様子。

 この建物の横には、展示室があるのであるが、電気が消えていて、中に入っていこうとすると怒られた。ところが、Eさんが

「どうしてだめなの」

と繰り返し尋ねたので、P案内員が交渉した結果、展示室の参観もOKと言うことになった。リピーターの人によると、これは異例中の異例らしく、今までは参観希望を出しても、この展示室の参観は滅多に許されなかったそうである。我々のP案内員は、交渉には特に長けている。こっちが冗談半分にダメ元で言ったことでも、本当にOKにしてしまうのである。P案内員は、東北弁か九州弁に似た、いつもの独特のイントネーションで

「やり方があるんですよ」

と言っていた。

 早速入ってみると、正面奥に金日成主席の大きな肖像画が懸けてある。展示は朝鮮戦争にかかわる全く普通の展示にしか思えなかった。そんなに、参観を制限しなければならないような展示内容でもない。アメリカが白旗を上げて板門店にやってきたときの写真、国連側代表としてアメリカの司令官ウイリアム.K.ハリスン少将が停戦協定の文書に署名するときの写真などが展示されていた。その時も警備兵は、

「ハリスンは、『私はアメリカの歴史上初めて降伏文書に署名し、歴史に汚点を残した初めての司令官になってしまった』とつぶやきながら署名した」

と得意げに説明した。そのほか、1976年8月に起きたポプラ事件(北朝鮮側は、板門店事件と呼んでいる)の時の斧も展示されていた。一説によると、この展示室を見せたくないのは、この斧があるからかもしれないと言われている。

 これらを見終わると、いよいよ板門店内の共同警備区域の見学である。北朝鮮側から板門店に入るには、2本の道がある。そのうち、我々のバスが通ったのは、軍事境界線から遠い方の道である。

 軍事境界線に近い方の道は、実際には使われていない。なぜなら、その道の先には橋があり、その先は韓国領となっているからである。この橋のたもとにはポプラの木があった。先述したポプラ事件(板門店事件)の元となった木である。国連軍兵士が斧でポプラの木の枝を切ろうとしたところ、これに激高した北朝鮮軍兵士が斧を取り上げたのでけんかになり、結局、北朝鮮軍兵士がアメリカ人兵士2名(ボニファス大尉とパレット中尉)をその斧で殺害、他のアメリカ人兵士と韓国人兵士数名にも重傷を負わせた、と言う事件である。韓国側から板門店を訪れると、この木の切り株すれすれのところまで行ってくれる。事件後、ポプラの木は切られて切り株だけが長い間残っていた(ただし、現在では切り株そのものが取り除かれて、何も残っていない)ので、韓国側から見ると、切り株があって、その先に橋があることになる。韓国側は、この橋を、「帰らざる橋」と名付けているのである。つまり、切り株は、「帰らざる橋」の韓国側のたもとにあったのである。これは、1987年に南側から板門店に来たときに、この目で確かめたから間違いない(当時はまだ切り株があった)。それに、さっき、非武装地帯に入る前に見た板門店の模型でも、ポプラの木は橋の韓国側のたもとにあることになっていた。しかし、我々のバスに乗り込んできた警備兵は、橋の北朝鮮側のたもとにポプラの木の切り株がある、と言って、向こう側を指さした。場所も違うし、そもそも切り株は除去されたはずなのに変だな、と思いつつも向こう側の道を見たが、我々のバスはすぐに通りすぎてしまったので、切り株は見えなかった。しかし、警備兵は、「切り株が見えたでしょう」と言っていた。

 我々は、板門店の共同警備区域に入った。板門店の共同警備区域内には、統一閣という建物と、板門閣という建物がある。その脇に、金日成主席が死去の前日、執務室で書いたという書類にある「キム・イルソン」という署名を形どった親筆碑が建てられている。

「これが、偉大な首領金日成将軍様の最期の自筆であり、この親筆碑の石は、ここに置くために遠くから運ばれてきた一枚物である」

と警備兵は説明した。

金日成主席の最期の親筆碑。

 そのあと、板門閣の正面の方に回った。眼下に、テレビニュースなどによく出てくる板門店の建物が見える。ここでは、軍事停戦委員会や、南北会談が行われるのである。建物は全部で7棟あり、白い4棟が北側の建物、青い3棟が南側の建物である。

板門店にて。手前側の4人は朝鮮人民軍兵士。奥の2人(双眼鏡を覗いている兵士と、建物の影から様子をうかがっている兵士)は韓国兵。正面奥の白い大きな建物は、韓国の「(新)自由の家」。

 軍事境界線は、これらの建物のちょうど真ん中を通っている。その向こう側は韓国領であり、韓国軍兵士とアメリカ軍兵士とが共同で警備しているのが見えた。北朝鮮軍兵士が微動だにせずに立っているのとは対照的に、南側の兵士は、韓国兵もアメリカ兵もだらだらと歩きながら、時々面倒くさそうに双眼鏡でこちらを見ており、気合いが入っていないように見えた。以前、韓国側から来たときには板門閣に対峙して建てられていた南側の建物「自由の家」はは東側に移動され、もと「自由の家」があった所には、新たに鉄筋コンクリートの大きくてきれいな建物が建てられていた。Bさんから聞いた話では、この建物も、「自由の家」と呼ばれているらしい。

 我々は、兵士の誘導にしたがって軍事境界線に近づいて行き、7つある会議場の建物の1つを参観した。会議場の中には、テーブルが置いてある。良く知られているように、このテーブルの真ん中にマイクが置いてあり、そのマイクコードが軍事境界線である。もちろん、今は我々のみがこの建物の中におり、しかもこの建物の韓国側の出入り口は施錠されているから、マイクコードよりも向こうに行っても構わない。警備兵の簡単な説明を聞いた後、我々一行10名は、二手に分かれてこのテーブルに座らされ、南北会談の真似をさせられた。

板門店会議場の内部を見学。

 続いて、板門閣を見学した。板門閣は上に登れるようになっており、そこが展望台になっている。板門店内はもちろんのこと、南北両方の非武装地帯がよく見渡せる。ある人が、

「南側のツアー客はいませんね」
と警備兵に尋ねると、
「我々のツアー客がいるときには、南側はツアー客を入れない。逆に、南側のツアー客が来ているときは、それが帰ってから我々のツアー客を案内している」
という答えであった。それで、その人が、
「それでは、今日は何時にツアー客が来る、という連絡を互いに行って、参観時間の調整をしているのですか」
と尋ねると、
「連絡などは一切行っていない」
ということであった。
「時間調整をしていないとすれば、両方のツアーがかち合って、どっちが先に見学するかで喧嘩になることはないのですか」
と聞くと、
「その心配はない。向こうは敗戦国側だから、言わなくても自主的に譲ってくれる」
という答えであった。でも、別の人によると、韓国側から板門店を訪れたときには、

「南北で参観時間の調整をして、観光客同士がかち合わないようにしている」

との説明があるらしい。

 また別の人が、
「向こうに大きな建物ができてますが、ああいう物を作る、という事前連絡はあるのですか」
と聞くたが、やはり、
「事前連絡はない」
という答えだった。それを聞いたある人が、
「向こうのあの建物の方が、この板門閣よりも綺麗じゃないですか。それに対抗して、こっちはもっと綺麗な建物を作る、という計画はないのですか」
と尋ねたので、L案内員は通訳すべきかどうか困っていた。

 ここからは、北朝鮮側の「宣伝村」が見える。北朝鮮では、人々が如何に幸福に暮らしているか、ということを南に見せるために作られた村であり、南側の推測では、建物はあるが、実際には人は住んでいない、と言われている。我々のように北側から来た場合でも、この宣伝村には近づくことはできず、ここ板門閣から眺めるのみである。距離は、ここから2kmくらいであろうか。1983年に南側から板門店を訪れたレーガン元アメリカ大統領が、この宣伝村を望遠鏡で見て、

「まるでハリウッドのセットのようだ」

という名言(?)を残した。ただ、リピーターの人によると、窓の開き方が変わったり、ベランダに置いてあるものが動いていたり、全くの無人、というわけでもなさそうである、ということであった。

 主要個所の見学が終わったので、我々は、板門店内のレストランに行き、昼食をとった。このレストランはパンムンジョムグァン(板門店館)と呼ばれ、かつては、停戦監視のための中立国監視委員会(具体的には、チェコ軍とポーランド軍の兵士)の宿舎として使われていたものである。

 ここでは、我々は小部屋に通されて、昼食をとることになった。テーブルには、いろいろな料理がすでに並べられていた。これらの料理はすべて、板門店に勤務する朝鮮人民軍兵士が作ったものばかりという。どういう訳か、案内員は同席しなかったので、昼食を食べながら、我々は北朝鮮の悪口をありったけ言いまくった。でも、実はちゃんと盗聴されていたのではないだろうか。

朝鮮人民軍兵士が作ってくれた昼食。

 これで、板門店の観光は終わり。再び、開城市内に戻った。市内の様子は、平壌とは全く違う。建物も古いし、人々の服装も平壌よりは質素に見えた。1980年代前半の中国の地方都市の様子に似ている。

 でも、ここでうれしいことがあった。バスの中から我々が手を振ると、道端で遊んでいる子供が、笑顔で手を振ってくれるのである。おばちゃんまでが、手を振ってくれた。平壌では、道行く人に手を振れるような雰囲気ではないし、向こうも、手を振ってくれそうな感じではない。それが、ここでは、コミュニケーションが成立した。田舎だからであろうか。本当にうれしい出来事であった。

地元の子供たち。カメラを向けると、こちらに手を振ってくれた。

 開城市内では、コリョ・パンムルグァン(高麗博物館)を見に行った。そう言えば、来る時のバスの中で、L案内員は

「朝鮮戦争のとき、アメリカはここ開城と金剛山とを自分のものにしようとして、敢えて爆撃しなかった。だから、開城市内には、古いものが数多く残っている」

と説明していた。その口調には、「開城も金剛山も、アメリカには引き渡さなかった」という自信めいたものがあるように思えた。

高麗博物館を訪れる。

 この博物館でも、我々が着くとすぐに、女性説明員が出てきて、説明してくれた。それによると、ここは、もともとは高麗時代の大学であり、ソンギュングァン(成均館)と言ったそうである。それを、現在では博物館として開放しているのだという。この博物館では、ここに保存されている古い文物をいろいろ見せてもらった。

博物館内部の展示。

 我々の通訳は、ずっとL案内員が担当している。3人いる案内員の中で、L案内員が一番若く、日本語も一番未熟なので、練習させられているのである。ところが、博物館に置いてあるものを見て、忍者の話が出たときに、L案内員が「まきびし」と言ったので、私は驚いてしまった。日本語が一番下手なはずのL案内員ですら、こんな忍術道具の名前まで知っている。それも、我々が「まきびし」と言ったのをL案内員が理解したのではなく、L案内員が自分の口から「まきびし」と言ったのである。

 本当ならば、博物館を見終われば平壌に戻るはずであったが、皆の希望で、開城市にある小高い丘、チャナムサン(子男山)の上の金日成像を見に行った。万寿台のミニチュア版である。また皆で銅像に向かって礼をした。ここで、新婚さんを見つけて、皆で、

「チュッカハムニダ(おめでとうございます)」

と言い、さらに、写真を撮らせてもらっていいですか、と聞いたところ、OKしてくれたものの、その人の顔は緊張のあまり、気の毒なほどにこわ張っていた。

子男山の金日成主席像を訪れた新婚カップル。

 帰りも、来たときと同じ高速道路を通って平壌まで帰った。

 夕食は、高麗ホテルである。我々は、来た当初は中国製のビールやジュースを良く飲んでいたが、中国製の飲み物は有料、北朝鮮国産の飲み物は無料であることを知り、途中から国産の飲み物に変えた。ポンハク(鳳鶴)ビール、平壌ビール、リョンソン(龍城)サイダー、ペ(梨)サイダー、ペ・タンムル(梨甘水)、オミジャ・タンムル(五味子甘水)、シンドク・セムムル(新徳泉水)、アダルサン・セムムル(阿達山泉水)などという飲み物があった。


   


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