ガボン→サントメプリンシペ→ガボン


3月17日(火)

 朝9時に、サントメプリンシペ大使館に、ビザの受領に行った。昨日車で送ってくれた人はいなかったが、他の人も皆親切であった。パスポートを受け取って、「メルシー」と言うと、「ボン・ボヤージュ」と言ってくれた。

 そのあと、また昼までホテルで休んでいた。冷房があるので、特に用がなければ、部屋にいるのが一番快適である。昼に部屋を空け、荷物をフロントに預けて、昼食に出ていった。近くの店でカレーを食べる。お皿一杯のドライカレーの上に、魚、ポテト、なすび、人参などが載っていて、ボリューム満点である。1000CFA。店もきれいにしてある。やっぱり、アフリカの方が中国よりもきれいだ(もちろん、ガボンだけで全アフリカを代表してはいけないけど)。

カレーの店にて。

ドライカレーを作る。

 昨日、今日と2日間スコールが来ないので、午後はかなり暑い。外にいると、汗が滝のように流れてくる。服を絞ったら、汗が絞れそうだ。そんなわけで、毎日、ペットボトル2〜3本の水を飲んでいる。コカコーラやファンタは、750mlという特大のビンで売られている(普通の330mlのもあるけど)。外を歩いて帰ってくると、この特大のビンでも、一気に飲めてしまうほど喉が渇く。これだけ水を飲んでいても、ほとんど汗になって出てしまうので、意外なほどトイレに行かない。

 サントメに着いたらポルトガル語なので、昨日からポルトガル語の会話帳を見ているが、なかなか頭に入らない。まあ、フランス語も割合通じるということなので、あんまり心配はしていないけど、基本単語くらいは憶えておいた方がいいだろう。

 午後2時にホテルを出発。バスターミナルまで行って、ミニバスに乗る。空港には午後2時40分に着いた。ミストラルボヤージュからは、出発2時間前には空港に着いているようにと言われていたので、当然、普通通り出発2時間前から搭乗手続きを始めるものと思っていたが、係官に聞くと、搭乗手続きは4時30分からだという。飛行機は5時10分発のはずだから、出発40分前にならないと、搭乗手続きを始めない。まるで国内線のようである。

 時間があるので、空港ロビーで待っている間、売店で絵はがきを買って、極地研や京大に手紙を書いて、空港内の郵便局から投函した。一通130CFA。昨日、家に出したときは一通260CFAであった。昨日のが間違いか、はたまた、今日のが間違いか、それとも、昨日はボッタクリであったのか、良くわからん。でも、カメルーンから出した封書が450CFAであったから、葉書一通が260CFAというのは納得できる。今日のが間違いかもしれない(もちろん、カメルーンもボッタクリやったら知らんけど)。

 午後4時半になって、搭乗手続きが始まった。続いて出国検査場に行くが、係員が来ないので、ずっと待っていた。その間、掃除の兄ちゃんが色々と話しかけてくるので、暇つぶしに喋っていた。5時に出国。待合室は広く、免税店も大きいが、全く人けがない。そのうち、さっきの掃除の兄ちゃんが、待合室を掃除するふりをしながらやって来て、免税の酒を代わりに買ってくれというので(免税品を買うにはパスポートと搭乗券が必要)、4500CFAの酒を買って、5000CFAで売ってやった。

まるでセスナのようなサントメ航空機。

サントメ航空機のコックピット。

 5時15分、係員が来て、飛行機まで連れて行ってくれた。乗客は、サントメ人一人、フランス人一人、レバノン人一人、それに自分の計4人だけであった。どうりで、搭乗手続きも出国手続きものんびりしているはずである。飛行機はロシア製のプロペラ機で、わずか15人乗りという小さいものであった。ポルトガル人の機長とサントメ人の副操縦士、ポルトガル人のパーサーとサントメ人のスチュワーデスが乗っていた。従って、本日は、乗員4人、乗客4人の計8名だけでサントメまで行くことになる。

サントメ航空機機内にて。

サントメ航空のスチュワーデス。

 5時20分、離陸。ガボンとサントメプリンシペとの間には、1時間の時差があるので、時計を1時間遅らせた。サントメ5時30分着。入国手続きは簡単であった。

 外へ出ると、ホテルの客引きが来ていた。1泊35ドルと言うので、少し高いと思ったが、テレビ、冷蔵庫、クーラー付きらしいから、とにかく行くだけ行ってみることにした。町から遠くないかどうか尋ねると、その客引きのオッサンは一瞬言葉を詰まらせたが、「町から約1kmだ」と言った。これは多分、かなり遠いのだろうと思いながら、車に乗った。

サントメの空港。

 車は海岸沿いに走り、市内を一度抜けて、郵便局の角を曲がり、競技場の横を通って、再び海岸沿いの道をかなり走って、目的のホテル、Residencial argentimoaに着いた。町から恐ろしく遠い。これは、恐らく、町から5kmはあるだろう。

 泊まる時になって、その客引きのオッサンは、40ドルだと言い出した。抗議すると、部屋代35ドルと、朝食代5ドルとの答えであった。部屋はきれいであったし、シャワー・トイレ付きなのは良い。冷房も効いている。それでも、1泊40ドルは痛いが、しかし、もう夜になってあたりは暗いし、ここは市内からは遠いし、今から別のホテルを探すのは無理だ。とにかく今晩はここに1泊するしかない。

 電気はあるが、電圧は極めて不安定で、他の部屋のエアコンがONになる度に、電灯が暗くなる。水道は、ホテルの人に言って元栓を開けてもらわないと出ない。水はかなり貴重らしく、10分もすると、また元栓を閉められていた。だから、シャワーを浴びる時は、ホテルの人に言って、すぐ入らなければならない。

 後でガイドブックを見たが、市内の、シャワー・トイレ共同、エアコンも扇風機も無い安ホテルが、数年前の値段で1泊28ドルと書いてあったから、朝食別でここが35ドルというのは、悪くないような気もしてきた。でも、市内から恐ろしく遠いのは問題だ。客引きのオッサンは、日に3回、市内までの送迎バスがあるから、と言っていたが、要するに、朝、昼、夕方しかないと言うことである。客引きのオッサンに地図を見せて、このホテルの場所を尋ねると、半島の、サントメ市とは反対側にいることが分かった。道路は半島をぐるっと回るように海岸沿いに作られているので、市内まで5kmもあるのである。直線距離なら、半島を越えてわずか1kmである。客引きのオッサンは誇らしげに、

「どうだ。市内まで1kmと言ったのは、ウソではなかっただろう」

と胸を張って言った。しかし、半島越えの道路は無いそうだ(けもの道程度の道ならあるらしいけど)。客引きのオッサンは、相乗りタクシーなら、ここから市内まで片道1000ドブラで、タクシーは多いから、問題ないと言っていた。

 暗くて良く見えなかったが、ホテルは海岸のいいところにあるらしく、部屋にいても波の音が聞こえてくる。近くには、教会と小さな店、それに民家がいくつかあるだけ。夜の祈りのために、村人が教会に集まって、賛美歌を歌っていた。近くの店に行ったが、置いてあるのはビールやジュースだけであった。子供も大人も、皆ボロボロの服を着ている。この国は、本当に貧しいようである。こっちが歩くと、子供が大勢寄ってくる。その中に、フランス語を話す12〜3歳くらいの女の子3人がいた。道端で、焼き鳥を売っていたので、買おうと思っておばさんに話しかけるが、ポルトガル語なのでうまく通じない。女の子の一人が通訳に入って、値段交渉をしてくれた。こっちは500CFAを主張したが、相手は1000CFAと言って譲らない。買うのをやめようかと思って立ち去りかけると、その女の子が、
「この焼き鳥はおいしいから、買わないと絶対損よ」
と言うので、
「まあいいか」
と思って1000CFA札をポケットから取り出した途端、その3人組の別の一人が背後からその1000CFA札をひったくって逃げた。
「こら!」
と言ったときには、教会の裏手の暗闇の方に走っていくところだった。あとの二人が、
「あの子は友達だから、行く所は分かってる。私たちが取り返してあげるから、一緒に行きましょう」
と言うので、
「お前らもどうせグルやろが。その手には乗るもんか」
と言いたかったけど、そんなフランス語は知らなかったので、日本語で文句を言って帰って来た。

 ガボンでは英語を話す連中は要注意だったが、ここではフランス語を話す人間までが要注意である。1000CFAは額としては大きくないから、これくらい取られてもどうということは無いが、手に持っているお金をもぎ取って逃げて行くとは、タチが悪い。平均年収が300ドルしかない貧しい国に、観光客が大勢(今日の飛行機を見ていると、そうでもないのだが)押し寄せた結果、島の人々をスポイルしてしまったのであろう。到着初日からこんなことがあったので、日本から遠路はるばる憧れてやって来て、やっと辿り着いた島なのに、イメージがぶち壊しである。


3月18日(水)

 折角持ってきた蚊帳なので、昨晩は初めて吊ってみた。まあまあOK。蚊取り線香も焚いた。でも気のせいか、寝ようとすると、蚊の羽音がするような気がする。電気をつけても、蚊らしきものは見えない。ここのマラリアは特に悪性だということなので、気にしているから蚊が飛んでいるように思うのである。

 朝7時から朝食だというので、テラスに行ってみたが、まだ出来ていなかった。外を見ると、村人がすでに教会前の広場に大勢集まって来ている。しばらくするとトラックが来て、その荷台に乗って町の方に行ってしまった。毎朝こうやって出勤しているのだろう。

 朝食が出来たのは、7時30分ごろ。大勢でワイワイガヤガヤ言いながら作っているので、一体どんな朝食が出てくるのだろうかと期待して待っていたが、バナナとパパイヤとパンとミルクだけであった。あんなに大袈裟に作っていたのに、大したこと無い。これで5ドルですか?

 客引きのオッサンは昨日、「朝8時に市内までの送迎バスがある」と言っていたので、ロビーで待っていたが、バスは来ない。そのうち、ヨーロッパ人の女性二人が出て来て、車を待っている様子なので、

「市内までの送迎バスを待っていらっしゃるんですか?」

と聞いてみたが、この人たちは、島巡りツアーに行く予定で、ツアーの車を待っているのであった。今日は島の北側を見に行き、明日は島の南側を見に行くという。その二人のヨーロッパ人が、

「あんたは?」

聞くので、

「今日はガボンのビザ申請をして、その後市内でも見に行くつもりです」

と答えた。とにかく、今日はまずガボンのビザ申請をしなければならない。そうしないと、この島を脱出しても行き先が無い。観光はそれからである。二人のヨーロッパ人は、

「では、今日は仕方ないとしても、もし良かったら、明日一緒に来ませんか。明日は島の南側に行くから、きっと面白いですよ」

と誘ってくれたので、

「それはありがたい。じゃあ、明日は、仲間に入れてください」

とお礼を言った。

 8時30分になったが、市内へのバスも、ツアーの車も来なかった。二人のヨーロッパ人は、次第にいらいらし始め、ホテルの人に車のことを尋ねているが、らちが開かない。8時50分、昨日の客引きのオッサンを乗せた小形ジープが来た。ヨーロッパ人二人はこのジープで島巡りツアーに行き、自分は、昨日の客引きのオッサンとともに、市内に行くバスをさらに待つことになった。この男の名はマルチンと言い、このホテルの従業員ではなく、市内の旅行会社所属のガイドであった。その旅行会社が、ここのホテルと契約しているので、マルチンは、このホテルのための客引き、宿泊客の送迎、観光の案内などのサービスをやっているのだと言う。マルチンは更に、新聞記者も兼ねていて、ロイターの駐サントメプリンシペ特派員としても仕事をしていると言う。サントメでは、現金収入の道が少ないので、一人がいくつかの職を兼ねるのは当たり前だそうだ。

 市内へ行くバスを待っている間、マルチンが、
「私は今、マラリアにかかっている」
と言ったので、驚いた。
「ここのマラリアは悪性で、下手をすると死ぬこともあると聞いている」
と言うと、

「初めて罹ると確かにそうだが、二回目からは大したこと無い。だから、一回目のマラリアで死ななかったら、あとは大丈夫だ。我々は生まれてすぐに皆マラリアに罹って、死ぬ奴は皆死んでいるから、生き残っている人はマラリアに対して抵抗力を持っている。まあ、我々にとってマラリアは風邪のようなもので、年に何回かはかかるもんだ。こっちも、いちいちマラリアぐらいで仕事を休んだりしないしね。でも、外国人は違うから、注意した方がいい。あんた、マラリアの予防薬は持ってるんかね」

と言うので、
「ラリアムを飲んでるよ」
と言うと、うなずいていた。

 そんな会話をしながらバスを待ったが、バスは待てど暮らせど来ないので、まず、市内にある、マルチンの所属する旅行会社のオフィスまで、乗り合いタクシーで行くことにした。タクシーは割合頻繁に通るが、いずれも満員で乗せてくれない。大分待ったが、9時半頃に1台拾うことに成功、オフィスまで行った。オフィスは、旅行会社と製パン所と銀行を兼ねていた。金庫の横でパンのたねをこねているので、どうも奇妙な感じだ。ついでに、セーファーフランをドブラに替えようと思ったが、持っていた5000CFA札の一部が破れていたので受け取ってもらえず、ちょっと多すぎると思ったが、10000CFA両替せざるを得なかった。マルチンは、

サントメは物価が高いから、これでも足らないくらいだ」

と言っていた。小さい札の方が使いやすいから、1000ドブラ札を100枚もらった。1CFA=10ドブラのレートである。

 オフィスで待っていると、車が来た。その車で、マルチンと共にガボン大使館まで行く。ガボン大使館は、ガイドブックに書いてあるところとは違うところにあった。移転したのであろう。中に入って、ビザが欲しいと言うと、すぐに発給できるのはトランジットビザだけだと言われた。ツーリストビザは、リーブルビルにテレックスを打つので、時間がかかるとのこと。ガイドブックの情報とは違っていた。トランジットビザは4日間有効で、写真2枚と申請料30ドル、それにガボン出国のための航空券が必要。これは少し困った。赤道ギニアには、陸路で行くつもりをしていたから、ガボン出国の航空券は無い。ガボンからは陸路出国の予定で、航空券を持っていないことを伝えると、その陸路で出国した先の国からの航空券を見せろと言う。これも困った。赤道ギニアから先のことは全く考えてなかったし、もちろん、赤道ギニアを出国するための航空券など持っているわけも無い。そこで考えて、「陸路でカメルーンに行く」と答えて、帰りの、ドゥアラからパリまでの航空券を見せた。すると、サントメからリーブルビルまでの航空券も見せろと言うので、明後日のガボン航空のチケットも見せた。大使館では、パスポートと、ガボン入国のチケットと、カメルーン出国のチケットとを、サントメプリンシペ出国の当日まで預かると言う。金曜日午前中に、取りに来いと言うことであった。

 これで、ビザの件が解決したので、バスで市内を一周回ってもらい、市場やサンセバスチャン要塞を車窓から見て、ミラマーホテルのベーカリーショップでミネラルウォーターを買い、ホテルに戻ってきた。やはり物価は高く、ミネラルウォーターは12000ドブラもした。

サントメ市内。

同上。

同上。

 ホテルで少しだけ休憩したが、そのあと、今度は歩いて市内まで行ってみた。海岸の道に沿って歩いていると、また子供が寄って来る。市内までは、歩くとほとんど1時間かかった。やはり、5kmはあるだろう。市内は人も車も少なく、ガランとしている。特に、街の中心部はほとんどの店が閉まっており、壁は汚れ、窓ガラスは割れて、荒れ放題になっていた。たまたま今日は閉まっている、というようなものではなく、潰れて数年になる、という感じであった。ゴーストタウンというのは、こんな所を言うのであろう。通りには、薄汚い服を着た若者があちこちでたむろして座り込んでおり、ニヤニヤしながらこっちを見ている。市場には物があった(あるいは、市場にしか物が無かったと言う方が正しいような気もする)が、少し多い目のお金とカメラとを持っていたので、外から見るだけにした。しかし、おなかが減ってきたので、さっき行った、ホテルミラマーのベーカリーショップに行って、パンを買って食べようと思った。途中、サンセバスチャン要塞の横を通ったので、さっきは車窓だけだったから、要塞の中に入ってみようかと思ったが、閉まっていた。この要塞の中には、博物館があるということであったので残念である。

 要塞の向かい側には、中華民国大使館があった。以前は、中国大使館が(もちろん、別の所に)あったが、サントメプリンシペの政策変更で、中国と断交して、経済優先のために台湾と国交を結んだのだそうだ。政治のことに口出しするつもりは無いが、いくら経済優先と言っても、中国と断交して台湾と国交を結ぶのは、現代社会の一般的な政治的流れとは逆である。何しろ、あの韓国ですら、台湾と断交して中国に乗り換えたくらいであるから。

 ホテルミラマーのベーカリーショップに行くと、店員がしきりに「アンブルゲ」を勧めるので、キョトンとしていると、ハンバーガーをポルトガル語読みしているだけのことであった。しかし、ハンバーガーは高かったので、パンと紅茶にした。5000ドブラ。

 帰る途中、薄汚い身なりの若い女が「ハーイ、アミーゴ!」と言うので、無視するのもかわいそうだから「ハロー」と言うと、「私に1000ドブラ恵んでくれ」と言ってきた。更に少し行くと、若い男が、「その腕時計を私にくれ」と言いながら近づいてきた。海岸で写真を撮っていると、今度はおばさんが、「いいカメラやねー、ちょっと見せて」と言う。手渡したら最後だ。この島は、本当に貧しい。

 昼から、少し昼寝をして、そのあと、川に洗濯に行った。もちろん、ホテルでも言えば水は出してもらえたが、川で洗濯するのも面白そうなので、皆が洗濯している川に行って、一緒に洗濯してみたまでのことである。しかし、砂が付いて、元より汚くなってしまった。

サントメの下町。

 ホテルでは、1000ドブラ払って、ガスを使わせてもらい、お湯を沸かした。ここのホテルは井戸水を汲み上げており、現地の人はそのまま飲んでいる。実は、客に出す冷えた水も、井戸水そのままをビンに入れて、冷蔵庫に入れるのを見た。例のヨーロッパ人たちは、今朝の朝食の時、知ってか知らずにか、そのお冷やをそのまま飲んでいた。今まで、ミネラルウォーターですら電気湯沸器で煮沸してから飲んでいたので、有り難いことに、一度も下痢をせず、体調は万全である。ここでは、冷房用に電気は来ているが、部屋にコンセントが無いので、ガスを借りたまでのことである。

 ホテルから見えるところに、高い鉄塔が十数本建っているのは、アメリカの国際放送VOA(Voice of America)の送信所である。市内を走る車のほとんど全てがトヨタ製である。このゴーストタウンのような街や貧しい人々と、巨大なアンテナ群や日本車とは釣り合わない。

 夕方、マルチンが来たので、
「明日、二人のヨーロッパ人と一緒に、島巡りツアーに参加したい」
と言うと、
「OK。別の車で行くと30ドルかかるけど、彼女たちと同じ車なら20ドルでいいから、安上がりになりますよ」
と言う答えであった。

 夕食は、卵とライスなるメニューを注文した。すると、オムレツとチャーハンが出て来た。両方で15000ドブラ。


3月19日(木)

 ここのホテルには、アフリカ人一人と、例のヨーロッパ人二人と、自分の合計4人だけしか泊まっていないようである。アフリカ人は商用で来ているようであった。ヨーロッパ人二人は、詳しくは聞いていないが、話から推測すると、どうやらアンゴラ駐在の人で、今、休みでサントメに来ているらしい。アンゴラも旧ポルトガル領だから、サントメプリンシペとは仲がよく、サントメとルアンダとの間に直行のフライトがあるから、アンゴラ駐在の人がサントメで休日を過ごすのは、よくあることらしい。このホテルは、ホテルというよりは、ほとんど民宿で、オーナーは愛想の良い青年である。あと、料理人が2人と、メードが3人いる。

 朝、ヨーロッパ人二人がジープで出かけようとしたので、挨拶をして、

「今日は私も同じツアーです。よろしく」

と言うと、運転手が、

「いや、あなたは違います」

と言う。二人のヨーロッパ人も、

「あなたは別の車ですよ」

と言うので、

「そんなはずありません。昨日マルチンに言うと、『別の車なら30ドル、同じ車なら20ドル』と言うから、同じ車で頼んでおいたんですから」

と言ったが、二人のヨーロッパ人は、

「それなら、マルチンが、もっと大きい車を手配するのを忘れたんでしょう。とにかく、この車には4人しか乗れません。後でガイドが乗ってきますから、もうすでに4人です。悪いですけど、あなたの乗るスペースはありませんから、マルチンともう一度交渉してください」

と言い残してジープに乗り込んで、行ってしまった。

 しばらくして、マルチンが現れたので、車に乗れなかったことを告げると、

「そうなんですよ。昨日あなたから、今日のツアーに参加したいという申し出を受けたあと、あの二人のヨーロッパ人にそのことを伝えたら、彼女たちは、『あのアジア人と一緒に行くのはいやだ』と言うもんですから、仕方なく...」

と言う。二人のヨーロッパ人の言っていることと全く違う。どっちが本当だか分からないが。でも、仕方ないので、今から別の車を用意してもらうしかない。マルチンによると、島の北部巡り、島の南部巡り、山巡り(サントメ島は、火山島である)の3つのコースがあり、各コースとも、ガソリン代込みで30ドルだという。ただし、昼食代は含まないという。島の北部は、ビーチ巡りが主であるのでパスし、南部巡りか、山が面白そうだと思った。しかし、南部巡りも、洞窟があるらしいが、それ以外には、ヤシやカカオ、コーヒーなどのプランテーション巡りが主で、これも余り面白くない。山の方は、大小の滝があるらしい。火山島ならば、温泉とか、火口の見学とか、なにかありそうなものだが、観光開発が進んでなく、山の上に通じる道路が無いので、火山そのものは見られない。そこで、洞窟と、大小の滝、それに、ビーチを一つだけ見る、と言う、オーダーメードのコースを頼んでみた。マルチンは、「それなら、50ドルだ」と言ったが、それを値切って、45ドルに負けさせた。クラブ・サンタナと言うビーチリゾートと、ボカ・デ・インフェルノという洞窟、小さい滝、大きい滝の4ヶ所を周り、運転手とガイドの分も含めて、昼食代は別に負担、ということで話がまとまった。

 マルチンは、

「すぐ車を用意するから、ホテルでもう少し待っていてください」

と言い残してオフィスへ帰って行った。ホテルで待っていたが、マルチンはなかなか来ない。マルチンが来たのは、それから約2時間後の、11時前であった。それから出発。運転手は、割と小柄な青年であった。ガイドは、マルチン自身がやるという。島の東側の海岸に沿って、南下する。VOA送信所の横を通り、いくつか村を抜けたところで、給油するというので、ガソリンスタンドに入った。すると、マルチンは、

「ガソリン代はあんたの負担だ」

と言い出した。さっき、昼食代以外は全て込みで交渉したのに、話が違う。

 ガソリンを入れた後、更にいくつかの村を抜けて南下し、クラブ・サンタナに着いた。途中の道路は完全に舗装されており、車は快調に飛ばすことが出来た。サントメ市内の道は穴ぼこだらけなのに、こんな辺鄙な所の道はしっかりしている。首都が一番みすぼらしいとは、変わった国だ。クラブ・サンタナはビーチリゾートで、フランス人の経営らしい。1泊130ドルのバンガローがいくつも建っていた。海は、大変にきれいである。こんなに澄んだ透明な海は、生まれて初めて見た。海岸では、地元の村人が、やし油を絞っていた。

クラブ・サンタナの椰子園。

椰子の実を売る兄妹。

サントメのビーチ。

同上。

 クラブ・サンタナを見た後は、ボカ・デ・インフェルノに向かった。途中、どこかの家に立ち寄るので、怪訝な顔をすると、マルチンは、「ここは私の別荘だ」と言った。これは、冗談でも何でもなく、本当である。マルチンはうまく商売をして、大金を稼いでいるのである。それに、ロイターに旅費を出させて、取材名目で世界中を飛び回っている。アフリカはもちろん、ヨーロッパと南北アメリカのほとんどの国に行ったことがあるという。ここからは一番遠いアジアも、かなりの国に行ったことがあるらしい。何しろ、北朝鮮にも行ったことがあるというのだからすごい。ただ、日本はまだらしい。

「でも、もしかすると、今年中に日本に行く機会があるかもしれない」

とマルチンは言っていた。

 マルチンの別荘で一休みして更に南下。ボカ・デ・インフェルノは海岸の一種の侵食地形で、波が押し寄せると、数メートルの高さのしぶきを吹き上げる。名前からして、洞窟のようなものかと思っていたが、岩に穴が開いているというよりも、自然の橋のようであった。

ボカ・デ・インフェルノ。

 ボカ・デ・インフェルノを見終わって、来た道を北上し、サントメ市内に入る直前で山に向かう道に入り、小さい滝に行った。滝の近くで車を停め、滝まで歩いて行ったが、近所の子供がぞろぞろ付いてくる。滝を見終わって帰るときも、走って車を追いかけてきた。

サントメの子供たち。中央はマルチン。

 その後、一度サントメ市内に戻って、昼食にした。ご飯に、豆と肉のシチューをかけた、ハヤシライスの様なもので、3人で37000ドブラ。食事を終えて食堂を出て、車に戻るまでの間も、周りの人がポケットに手を突っ込んできたり、荷物を取ろうとするので、油断も隙もない。

 昼食を済ましたので、今度は大きい方の滝に行った。セントニコラスの滝と言うらしい。マルチンが、

「滝つぼの水は、死ぬほど冷たい」

と言うので、水に入ってみたが、冷たいどころか、ちょうど良い水温であった。私がじゃぶじゃぶ入っていくのを見て、マルチンは目をまん丸くして、水をちょこっとだけすくい、

「ひえ〜。よくもこんな冷たい水に入れるもんだ」

と言っていた。

セントニコラスの滝にて。

 そのあと、市内に戻って、郵便局に寄ってもらって、家に葉書を出した。3000ドブラ。そのあと、サンセバスチャンの要塞に行った。今日は、博物館は開いていた。入場料1ドル。博物館では、係りの人が展示物一つ一つについて親切丁寧に説明してくれた。展示物は、キリスト教関係の物、ポルトガル植民地時代の物、植民地化する以前の伝統的な物、ポルトガルからの独立運動に関する物、独立後の国の歩み、現代のサントメプリンシペの芸術家の作品などであった。

 夜、ホテルが、サントメプリンシペの伝統料理を出してくれた。35000ドブラ。魚料理であったが、塩辛くて、そんなに美味しいとは思わなかった。

ホテルのオーナーの青年。


3月20日(金)

 今日がサントメ最後の日である。毎週金曜日にラリアムを飲むので、忘れないうちに、朝食後に飲んでおいた。マルチンは、9時に来るはずであったが、まだ現れない。10時20分、マルチン登場。それからガボン大使館に行って、パスポートと航空券とを返してもらった。

 私はリュックサックに鍵をとりつけていたのだが、マルチンがそれを見て、

「よその国はともかく、サントメプリンシペは治安がいいから、リュックに鍵など付ける必要はない」

と言った。とんでもない。ここは泥棒ばかりだ。

 午後から、ホテルで休養。スコールになったからである。夕方には、サントメを離れることになる。

 朝、マルチンが来るのが遅かったことに対して、少し文句を言ったので、マルチンは、今度は約束より少し早く、4時40分に来た。5時出発。空港5時20分着。空港税は、何と20ドルもする。セーファーフラン払いで、12000CFA。関空よりも空港税が高いというばからしさ。ドブラがあと少し残っていたので、記念に、切手を買って、ドブラは使い切った。空港待合室は殺風景で、免税店も無い。ここで飛行機を待っている間に、蚊に咬まれた。マラリアにはなりたくない。

 ガボン航空のF28型機は、サントメプリンシペ時間の午後7時5分、ガボン時間の午後8時5分定刻に動き始めた。乗客は、わずかに9名しかいない。リーブルビルまで45分。午後8時50分、これも定刻に到着した。気温29度。でも、サントメよりも少し涼しい気がする。

 入国審査を受けるとき、壁に、「72時間の通過ビザ、35000CFA」と書いた紙が張ってあるのを見つけた。やっぱり通過ビザはあったのだ。入国審査、税関は問題なし。外に出ようとすると、出口の所で、機関銃を持った兵士に呼び止められ、別室に連れられそうになった。荷物検査をするという。他にも、数人、呼び止められた人がいて、部屋の外で順番を待っている。しばらく待っていると、その兵士が、
「今日はどこから?ロメか?それともアビジャン?」
と聞くので、
「サントメ」
と答えると、
「何だ、それなら行って良い」
と言われて、解放された。丁度、エール・アフリクも同じ時間に着いたので、それに乗って来たと思われたのであった。

 空港の外に出て、何人かいたタクシーの客引きを無視して表の通りまで出、通りがかったタクシーを止めた。しかし、人相の悪そうな男であったので、値段交渉決裂を装って、別のタクシーを止めた。しかしこれも人相が悪かったので、また別のを止めた。しかし、これはもっと人相が悪かったので、更に別のを止めた。この運転手は、人の良さそうな男であったので、これに乗り込んだ。

「アルザスロレーヌ通りの、オテル・エカトゥールまで」
と言ったが、この男は、アルザスロレーヌ通りも、オテル・エカトゥールも知らなかったので、
「まず独立通りまで行って、エールフランスのオフィスのある所を左へ」
と言うと分かったようで、
「ダコール!」
と言う答えが返ってきた。

 ホテルに着いたのは午後9時半。空港から2000CFA。下手すると、入国審査、税関検査に手間取り、午後11時頃になるかと思っていたが、思ったより早く着けた。ホテルの人たちは、ニコニコして

「ボン・ソワール。おかえりなさい」

と声を掛けてくれた。

 部屋に入り、早速洗濯をした。水の不自由なサントメでは、充分洗濯できなかったからである。そのあと、すぐに寝る。


  


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