2月21日(金)朝、目が覚めると、船は陸地の近くを航行していた。きっとデービス基地の近くまできたのであろう。しかし、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。ブリッジに上がって行くと、船長が、「氷山が多すぎて、停泊する場所がない」と言っている。
小型艇を降ろしたのは12時30分。約20分でデービス基地に到着した。我々の滞在時間は、僅かに1時間しかない。基地は、「都会」という感じ。スマートできれいな建物が多数並んでいる。やはり、コンテナにペンキを塗っただけの中山基地とは何となく違う。室内は20℃以上に暖房されており、皆半袖で働いている。それに、オーストラリアは女性隊員が多いのには驚いた。見た感じであるが、3割近く女性がいたように思う。ちなみに、中国隊には、女性が3人いた。また、雪龍号の船員にも、1人、気象観測担当の女性の船員がいた。
さて、デービス基地では、基地の主要な建物を一通り見せてもらった。その後、基地の郵便局を見せてもらったりして帰ってきた。途中、小型艇が3度もエンストをするのには参った。
帰りに立ち寄ったオーストラリアのデービス基地。
デービス基地はさすがに大きい。
デービス基地付近で見掛けた象あざらし。
2月22日(土)一日のほとんど寝ていた。午後から、船の揺れが大きくなり、天候も悪くなった。暴風圏に入る前に、低気圧に当たったようである。
夕方、1月19日、ケ小平死去の正式発表が船にも伝わる。
2月23日(日)低気圧を抜けて、揺れは小さくなったが、今度は、この辺りから暴風圏である。午前10時現在、南緯60度、東経83度の位置にいる。まだ、時々氷山を見かける。結局、オーロラは見えずじまいで、帰ることになった。
夜、テレサテンの東京コンサートのビデオを見る。
2月24日(月)昨夜は割合大きく揺れた。机の上のものは下に落ちるし、引き出しは出てくるし、食堂では置いてあったビンが落ちて割れ、ガラスの破片が飛び散り、中身がこぼれて床を汚していた。恐らく、最大で30度近く傾いたであろう。
午前11時46分、南緯55度、東経91度を通過。ついに南極地域を脱出した。流氷や氷山は全く姿を消し、気温も+5度位まで上がっている。今まで白い景色ばかり見てきたので、海が余りに青いのに驚く。
2月25日(火)午前10時から、ケ小平追悼の汽笛が数度鳴らされた。
今日は、一日中霧が立ち込めていた。夕方、船員の一人に呼ばれたので、部屋に遊びに行ったが、マネーの話ばかりで全く面白くない。「日本ではニコンのカメラはいくらする」「日本でカラーテレビはいくらする」から始まって、最後には「今回の南極出張でいくら儲かる」「お前の月給は1万ドルを下らないだろう」等々。南極に金儲けに来たわけではないし、月給1万ドルなど、誤解もはなはだしい。日本での生活も、決して楽ではない事を説明するが、納得しない。「日本にアルバイトに行った友達は、中華料理店で働いて、月に6000ドル稼いでいると言っている。外国人でそれだから、日本人のお前の給料が1万ドルに満たないはずがない。絶対に信じられない」と言う。そんなに信じられないなら、日本に働きに来てみればよい。厳しい現実が分かるだろう。この船員のように、日本にひとたび渡りさえすれば、自分も億万長者になれると信じきった中国人が、「黄金の国ジパング」を夢見て、ボートピープルとして日本に押し寄せてくるのである。
2月26日(水)かなり北上して、暖かくなってきた。もう半袖でも大丈夫なほどだ。昼に南緯45度を通過。思ったより早い。これなら、明後日にもオーストラリアに着きそうだ。少し早いが、上陸の準備のために船員がパスポートを集めに来た。
ところが、昼食のとき、ある人から聞いた話では、船はフリーマントルに行かず、別の港に入る事を検討しているらしい。オーストラリアのある会社が、フィリピンに貨物を送るために船を捜しているらしく、南極で物資を降ろして軽くなったわが雪龍号も、名乗りを挙げているらしい。基地ではヘリコプター代をかなり使ったので、その分を取り戻すのに、ちょうど良いサイドビジネスが転がり込んできたわけである。フィリピンは元々寄港地に入っていなかったが、ビジネスのためとなると、航路を曲げて行く事くらい朝飯前である。旅程ががんじがらめに決められている日本の観測船では、絶対にこんなことは出来ないが、中国では、ビジネスのためと言うことであれば、何でも可能である。昼から会議を開いて、この話を受けるかどうか決めるらしいが、もし受けるとなると、フリーマントルには行かなくなるから、しらせとの合流もなくなる。我々としても、変なところで降ろされると、重い荷物を持ってパースまで行くのも大変である。
後程、船長にその事を言うと、船長は一瞬戸惑った様子を見せたが、やがて、「誰かが要らないことを喋ったようですね」と前置きをした上で、「やはり船はフリーマントルに向かう事になった」と言った。入港予定日は、3月1日の午前9時である。サイドビジネスの件はお流れになったと言う。船長は、「あるはずの貨物が無くなった」と言ったから、恐らく他の船にビジネスを先取りされたのだろう。
2月27日(木)船では、今日から暖房が無くなった。外は大変に暖かい。南緯40度をすでに過ぎた。
先日配給された麦芽飲料を飲もうとするが、麦芽飲料の袋が、手で開封するための切り目が入ってるものと入っていないものとがあり、一様でない。全部切り目を入れるより、このようにばらばらにする方が難しいはずだ。次に、湯を沸かそうとするが、新品なのにヒーターの接触が悪く、湯を沸かすのに苦労する。中国製は何を取ってみても、どれ一つとしてまともなものが無い。
2月28日(金)海洋観測隊の人が言うには、雪龍号は一昨年の火災事故での故障個所を修理した後、試験航海に出て、事もあろうに、尖閣諸島(もちろん、彼らは「釣魚台列島」と言うが)に行ったそうである。我が国の警備艇が接近してきて警告を発し、ヘリが上空を何度も旋回したそうである。皆、尖閣列島に上陸する気満々で行ったが、北京から、それ以上接近するなという指示が来て、引き返したという。その人は、「もし行っていたら、ただで日本観光ができたのに」と笑っていた。
船の位置は南緯35度を越え、外はさらに暑くなってきた。
夕食後、隊員の1人が部屋に来て、「しらせが見えた」と言う。我が国の南極観測船「しらせ」もすぐ近くにいたのである。急いで甲板に出た。前方に見える船がそうだと言う。ブリッジに上がると、VHFでしらせがこちらを呼んでいた。急いで応答し、雪龍号の位置などを伝えた後、中山基地での我々の仕事内容とその成果について報告し、昭和基地との同時観測の可能性などについても話をした。
接近してくる船を双眼鏡で見ると、5002という番号と、「しらせ」の3文字が確認できる。間違いなくしらせである。しらせは、船体が思ったよりずんぐりとした格好をしていた。雪龍号が前後に細長いのとは対照的である。中国人の隊員たちは、しらせを一目見ようと、甲板に出て来て、カメラを覗いたり、手を振ったりしている。しらせ側も、大勢の人が甲板に出て、こちらに手を振っていた。そして、しらせと雪龍号は至近距離をすれ違った。しかし、至近距離と言っても、声が届くほどの距離ではない。すれ違いざま、雪龍号はしらせに汽笛を数回鳴らしたが、しらせからの応答の汽笛はなかった。
3月1日(土)朝目が覚めると、雪龍号はすでにフリーマントル港外に停泊していた。天気は快晴、気温は33度で、南極帰りにはこたえる。午前9時少し前、雪龍号は埠頭に向けてゆっくりと動き出した。日本の漁船も多数来ているのが見える。水産庁の船もあった。
それに、今日は週末なので、港からはたくさんのモーターボートが外洋に向けて走ってくる。ロットネスト島に遊びに行く人たちだ。モーターボートは、まるで日本の暴走族まがいの走行をしており、我々雪龍号めがけてまっすぐに走ってきたかと思うと、衝突直前にクイッと急カーブを切って、「ヤッホー」などと言いながら離れていく。
雪龍号は、ゆっくりと港の中を進み、3ヶ月前、往路でここに立ち寄ったときに停泊したF-shedの隣の岸壁に接岸した。タラップを出し、税関職員が乗り込んでくるのを待つが、なかなか税関職員は来ない。皆、甲板から見ていたが、係員が余りに遅いので、一部の人はしびれを切らして勝手に下船し、市内観光に行ってしまった。厳密に言うと、密入国だ。しかし、それを見ていた船員も、別段止めようともしない。
私とN先生は密入国はせず、おとなしく船室で待っていた。すると、出入国審査官が聞きたい事があるそうです、と船員が私を呼びに来た。船の応接室に行くと、女性の係官が私のパスポートを持って座っており、オーストラリアには何日滞在するのか、オーストラリア国内ではどこに行くつもりか等と色々な質問をしてくる。最後に、帰りのチケットを見せろといわれ、チケットを手渡すと、オープンチケットでは入国は許可できないので、予約をするようにと言われた。上陸後すぐに予約をする予定である、と説明したが、今ここで予約をしないと上陸を許可しないと言う。係官と共に、船にはエージェントの人が来ており、その人の携帯電話で予約をしろという。エージェントの人も、携帯電話で予約すると手数料が一人15A$がかかるけれども、やむを得ないのではないですか、という顔をしている。仕方が無いので、15A$はもったいないが、そうしてもらった。パースから東京までは週3便、一番早いのは明日の日曜日の便である。予約は取れた。
我々の後で、入国審査を受けたMさんも、同じような質問を受けていた。ところが、Mさんは、オーストラリアに最低2ヶ月は滞在したいと、頑として主張している。この人は何と聞き分けがないのだろうというような顔をしていた係官は、最後にぽつりと言った。「ビザがないのに、2ヶ月も滞在は許可できません。」この一言で、全部分かった。我々も、Mさんも、3ヶ月ビザを用意して来ている。それを、この係員は、ビザを持って来ていないと思ったのだ。と言うより、船員が勝手にそう決め込んで、係員にそう言ったのだった。Mさんはすぐに、「ビザならここにあります」とパスポートのそのページを開いて見せた。それを見た係員は、「Oh, my God! あなた(船員のこと)が、この3人(我々2人とMさんのこと)はビザを持っていないと言ったから、パスポートを確かめなかったのが間違いでした」と言った。これで、Mさんは無条件に入国許可。それならば、我々も携帯電話で帰りの切符を予約する必要はなかったのである。全く、船員の早合点のおかげで、15A$損をしてしまった。こうして上陸が許可され、まだ残暑厳しいオーストラリアに入国する事ができた。
午後は、N先生と鉄道でパースまで行ったが、私は特に見たいところもなかったので、N先生と別れて、すぐに帰ってきた。夕方帰ってきたN先生が言うには、パース市内をぶらついている時に回転寿司を見つけて、思わず入ってしまったそうである。出発以来約80日、3食すべてが中華料理、すなわち、240回連続油っこい中華料理攻め(と言っても、朝はお粥なので、少しましだが)から開放されたわけである。パースですぐに帰ってきた私は、まだあと数回中華料理攻めが続く事になる。
夕方、甲板に出ると、一休さん達と出会った。明日、下船して帰ることを告げた。一休さんは、「明日、空港までのタクシーは、領収書をもらっておけば、国内で清算できるでしょう」と言うので、「我々には立替払いは認められていないので、自分で払うしかありません。もちろん、我々を派遣した文部省に言わせれば、日当の中に現地での交通費として含まれていると法的には解釈されている云々、と言うでしょうけれども」と答えると、一休さんは、「中国なら、領収書を持って帰れば、清算できます。日本は、堅すぎますね」と言う。「それは一長一短で、中国のように何でも領収書さえあればいいのであれば、パースに観光に出かける時にタクシーに乗って、その領収書をもらっておけば、それも支払われることになってしまうではないですか」と言うと、一休さんは、「そうですよ!中国では、公金というのは、ちょろまかすためにあるんですよ」と笑いながら言う。
3月2日(日)今日も暑い一日である。雪龍号は、フリーマントルで停泊中に、在豪の華僑のために、南極に関する展示会をするらしく、船尾のヘリポート横のコンテナ室で展示の準備が進められていた。
船尾のコンテナ室は即席の展示会場に。 午後から、荷造りをする。帰りの飛行機は、午後10時10分発。午後7時頃にここを出発すればよいであろう。ついに、南極出張最後の一日となった。
夕食後、隊員の皆さん、船員の皆さんに別れを告げ、雪龍号のタラップを降りて、タクシーで空港に向かった。Lさん、一休さん、船員のKさんを始め、何人かが荷物をタクシー乗り場まで運んでくれた。彼らは、まだシンガポール経由で上海まで行くから、あと1ヶ月の船旅が続く。我々2人は、明日には日本である。空港までは約半時間。37A$であった。
ところが、空港でチェックインをする時になって、またまたトラブルになった。と言っても、本当はこちらがトラブルを作ったのであるが。何かというと、荷物が重量オーバーなのである。座席はエコノミークラスであるから、規定では一人20kgまでである。しかし、ディスカウントチケットの場合でも、一人25kgまではサービスしてくれるのが普通である。今回、我々のチケットは、完全なノーマル料金のチケットであるから、多分一人30kg、すなわち二人で60kgまでは恐らく大丈夫であろうと、N先生と話をしていた。そこで、分厚い書類や、パソコン、南極で拾ってきた石など重いものは全て機内持ち込み手荷物のカバンに入れ、衣類など軽いものだけを預ける荷物の方に入れた。
カウンターで預ける荷物の重量を量ると、ほぼ60kg。係員は、超過料金を取るかどうか考えているようだった。そこで、こちらから、「実は、我々は南極に行ってきたので、こんなに荷物が多いんです」と先に釈明をしておいた。チケットがノーマル料金であった事も助けになったのだろうか、係員は、「OK」と言った。どうやらこれで、超過料金は取られなくて済む、と思ったのもつかの間、カウンターの係員は、機内持ち込み手荷物も重量を量ると言う。こんな事は始めてだ。すると、その係員は、カウンターの上を見ろという。カウンターの上のディスプレーには、「機内持ち込み手荷物は5kg以内のもの一個だけに」と表示されていた。そして、手荷物の内、5kgを超える分については、機内に持ち込まず、預けるようにと言う。真っ青になった。手荷物は、重いものばかりだ。基地で拾ってきた石もある。全てをはかりに乗せると、合計で90kgにもなった。「これは、30kg分のエキストラチャージだ」と、係員は言った。30kg分のチャージがかかるとすると、約10万円にもなる。それは痛い。
顔色に出たのか、係員は、「あなたがたは、本当に南極に観測隊員として行ってきたのですか。何かそれを証明できるものがありますか」と聞いてくれた。荷物の箱には、日本語と英語で、「国立極地研究所 National Institute of Polar Research, Japan」と書いてある。また、中国から送られてきた英文のメールやファックスの写しをことごとく出して見せた。それを見た係員は、「分かりました。ボスと掛け合ってみましょう」と言ってくれた。結果はOK。超過料金無しだ。カンタス航空は、とても親切である。お礼を言って、ボーディングパスを受け取った。係員は、「You are welcome. This is the Australian way」と言った。N先生は、「日本とオーストラリアとの発想の違いだなあ。正当な理由があれば認めるから、嘘をついてまで無理に機内に持ち込むなということだなあ」と言っていた。まさしくその通りである。
座席に着くと、基地での辛かった作業、不便な生活、一緒に仕事をし、今もなお基地で越冬観測をしてくれているQさん、Hさんをはじめ中国の隊員達の顔、内陸調査隊を送りに行った時の事、観測機器を設置した時の数々のトラブル...すべてが懐かしい記憶となって脳裏に浮かんできた。自分は本当に南極に行ってきたのだろうか。そして、本当に今、日本に帰ろうとしているのだろうか。まるで、自分の体が遊離して、ふわふわ浮いているようであった。自己の存在に対して、実感が感じられない。南極に行ってきたのは、自分ではなかったような気がするのである。自分が見てきたものも、すべて夢か幻であったように思えるのである。それと同時に、終わった、脱出した、文明社会に戻れる、という現実に対する安堵感も込み上げてきた。越冬中に精神状態が少し不安定になった人もいるという話を聞いてはいたが、行く前には、そもそも自分は越冬はしない訳だし、仮に越冬をしても、中国を一人で放浪したりした事もある自分は恐らく大丈夫なのではないかと、やや、高をくくっていたところがあった。しかし、実際に南極に行ってみて、現実はそんなに甘いものではない事を思い知らされた。船よりも、基地が精神的に辛かった。基地に着いた直後は、ここまで来てしまったからには、泣いてもわめいても、もう途中で帰る訳にはいかないのだから、腹をくくって開き直るしかない、と思っていた。そういう風に開き直れば、基地での生活くらい何ともないと思っていた。しかし、開き直りで乗り切れたのは最初の1ヶ月位だけであった。後半になると、精神的に参ってきて、もう開き直れなくなってきた。基地ではビデオも禁止であったし、ウォークマンを持って来なかったから、歌や音楽を聞くこともできない。ラジオジャパンも、あまり受信状態が芳しくないから、日本のニュースもろくろく入ってこない。食べ物は、同じような材料の中華料理が来る日も来る日も出てくる。シャワーは水のように冷たい、トイレは不便である。万が一の事があるといけないので、基地から1km以上離れる時は、基地長に申請をして、トランシーバーを携えて出かけなければならないため、実際にはどこにも行けない。 こんな孤立無援の状態が続くと、言葉は悪いが、「まるで軟禁されているようだ」という圧迫感で頭がおかしくなりそうであった。ちょうど10年前に中国を50日間一人で放浪した時も孤独ではあったが、自由はあった。明日はどの街に行こう、という事を自分で決め、同じ中華料理ばかりであっても、自分が選んだ食堂で、そこのメニューから自分が選んだ料理を食べる事ができた。南極では隊員全員が仲間であるから、孤独ではなかったが、そういう意味での自由がなかった。見えない鎖につながれているようであった。だからこそ、雪龍号が来るのがどれほど待ち遠しかった事か。そして、2月18日にはじめて雪龍号が来た時に、どれほどうれしかったことか。
3月3日(月)機内では、本当に良く眠った。目が覚めると、もう朝食の時間であった。あと2時間で成田に着く。成田に着いたのは午前8時30分。まず、大阪の実家に電話をかける。出発して以来、家族には全く連絡をしていなかったから、予定より一週間も早く帰って来て、家族はびっくりしていた。実際、家族は、帰ってくるのは予定より遅れて、15日位になるのではないかと予想していたようである。そのあと、極地研に直行した。関係の事務部署の方々に挨拶をし、S先生、O先生、Y君を始め実際の研究担当の方々に帰国報告をした。
昼食は、我々の方から、中華料理店に行きましょうと提案した。240回も中華料理ばかり食べてきたから、「中華料理など見たくもない」と言うような低次元の気持ちはとっくの昔に通り過ぎて、「これだけ中華ばかり食べてきたから、あと一食や二食の中華料理は何ともない」と言う、半ば悟りの境地に達していたからだ。N先生も、「中華の昼食でも、別段どうということもない」と言っていたから、きっとN先生も、同じ悟りの境地に達していたに違いない。
午後からは、今回の日中の国際協同プロジェクトの担当である、文部省に挨拶に出かけた。仕事の内容、基地の様子、船の様子、中国隊の概要等を報告した。帰りに、秋葉原にちょっとだけ立ち寄って、そして、およそ85日振りに自宅に帰り着き、これで本当に南極出張の全てが終わった。
(おわり)
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