2月11日(火)まず、延ばし延ばしにしていた光関係から、手を着ける事にした。UAP棟の模様替えに伴って、観測中のリオメーターと磁力計とを除いて、他の機器ははずしてあったから、スキャンニングフォトメーターを取り出し、配線をし直して、キャルをもう一度やってみた。ところが、いくらやっても出力が出ない。それも、全チャンネルである。フォトメーターのボックスの後ろのコネクターを確認すると、一つのコネクターがゆるんでいた。これを締め直してもう一度やったが、やはり出力が出ない。きちんと締まっているコネクターも確認すると、BNCコネクターがすべて加工不良で、中のピンが短い。コネクターを加工し直したところ、正常に出力が出るようになって、一安心であった。
午後からは、フォトメーターのキャルの続きをやった後、キャルランプをオーロラに見立てて、模擬観測をした。その後、リオメーターのデータの解析方法、QDCの作り方等について、再確認の意味を兼ねて、実習した。
これが我々の作品。リオメーターのアンテナ。
我々作業班5人。 今日は基地に来てから二度目の日番が回ってきて忙しかったのだが、仕事は一日も早く終えなければならないので、残業をする事になった。全天カメラの動作チェックをするには、夜の方がいいから、一石二鳥である。
数日前から、Cさん達が、オーストラリアの隊員と一緒に、何とか半島に調査に出かけていたのだが、それで持ち帰った標本を、夕食時に陳列していた。石に付いた地衣類(苔)や、まだ生きているミジンコなどである。「これらは、その何とか半島の、それも西北部の一部地域にしか生息していない珍しい動植物である。こちらの苔などは、優に700年を越えている」と、生物が専門のCさんは得意気になって説明している。その横で、中国の隊員は、そのCさん自慢の標本を、Cさんにはことわらずに、勝手に手でつまみ上げて、自分の席に持って帰って見たりしている。これでは、折角の貴重な標本が台無しである。まったく、神経を疑う。
食事の後、日番なので宿舎の掃除をし、掃除を終えてUAP棟に上がっていくと、もうQさんは全天カメラ、ビデオ、LD記録装置等の接続を終えて、後は空が暗くなるのを待つのみとなっていた。もう白夜ではなくなって、夜9時過ぎには太陽が沈むようになっている。ただ、太陽は浅い角度で沈んで行くから、夜11時30分頃にならないと、星は見えてこない。それまで、ビデオや、LD記録装置の動作チェックをしたり、日本語の説明書に書かれている、いろいろなボタンの意味、操作方法などをQさんに説明したりしていた。
今日、再び、帰りの日程についての発表があり、やはり西風が吹き次第、われわれは基地を離れるそうである。余りに西風が吹かない日が続けば、ヘリを借りることも検討するが、デービス基地から次にヘリが借りられるのは、早くても24日以降になるので、恐らくそれまでに一回ぐらいは西風が吹くのではないか、ということであった。
2月12日(水)2月も中旬になって、めっきり寒くなってきた。昼間でも、0度を越えないことが多くなってきた。基地を改装して、トイレに小便器が増設されたのでうれしい。宿舎棟には40人近くが住んでいるのに、今までは、大便器が二つだけしかなかったから、トイレが不足気味であった。しかし、シャワーは2月に入ってからずっとぬるい日が続いている。洗濯機はあれから見に行ってないが、多分壊れたままなのだろう。
基地のペンキ塗りはまだ続いている。HさんとQさんとは、ペンキ塗りから逃れたいがために、今日はグランドプレーンの固定作業の続きをやると言っていた。
ところが、今日、デービス基地からたまたまインダクションの担当者が来たので、Hさんはそちらに忙しくなった。インダクションの不調は、センサーの周りが氷結したことが原因らしい。しかし、センサーと氷とがどう関係するのか、よく分からなかった。冬になれば、毎日氷結するはずである。Qさんはリオメーターの仕事をやり、われわれは、古いオゾン計など、持って帰る物の整理を始めた。
西風が吹き次第、と言ってはいるものの、まだ一部の部屋は改装中だし、ペンキ塗りも終わっていない。外では、コンテナの移設作業も続いている。隊長が前に言っていたように、今月15日が仕事納めなのであろう。それ以降に西風が吹けば、われわれは基地を去ることになるようである。何の根拠もない勝手な予想だが、何となく、われわれは2月21日に出発し、3月5日に帰国するような気がする。果たして、この予想は当たるかどうか。
2月13日(木)宿舎棟の廊下には、隊員用のロッカーとして使える、靴箱を大きくしたような箱が作り付けで置いてある。鍵はかからないものの、ふたは閉められる。皆、空いている箱に、自分の作業着や軍手などを入れている。部屋の中は暖かいので、私は、オーストラリアで買っておいたオレンジを、廊下のこの箱に入れておいて、計画を立てて大事に食べていた。基地ではりんごの配給はあったが、みかんの配給はなかったので、このオレンジは疲れをいやすにはなくてはならない貴重なものであった。
それが、昨日この箱を開けてみると、オレンジが半分位に減っているではないか。オレンジは13個が一つのネットに入っているのだが、ネットが破られて、オレンジは5〜6個しか残っていない。これが最後の一ネットであった。それだけではない。空きびんなどのごみを代わりに入れてあるのだ。鍵こそかからないが、きちんとふたをして置いてあるものを、黙って持って行って、しかもその後にごみ入れに使うとは。洗濯ばさみに続いて、オレンジもやられてしまった。持って行った本人は、「南極まで来たからには、基地にある物は皆の共有物。窃盗をしたつもりはない」と言いたいのだろう。私も、南極に来たのだから、もし私が持ってきたもので、それを必要とする人がいれば、いくらでも分けてあげるつもりでいる。しかし、ふたをして置いてある箱の中に入れてあるネットを勝手に破って持って行かれると、私も頭に来る。このように人の目を盗んで持って行くのは、共有精神とは別物である。そんなことがまかり通るのならば、私の財布に入っている現金も、南極に来たからには皆の共有物だ、と言うことになってしまうではないか。
夕食の時、「ペンキ塗り班よりお知らせします。基地のペンキ塗りは、本日を以って任務を完了しました」という発表があった。これで、夏隊の、基地での仕事はすべて終わった事になる。あとは西風が吹くのを待つのみである。
Hさんが、明日2時に日本の極地研究所から電話がある予定であると教えてくれた。実は、今日もかかって来たらしい。
2月14日(金)今日は、起きたら11時だった。仕事が大体片付いたと思うと、気がゆるんでしまった。曇ってはいるものの、今日も勢いよく東風が吹いている。西風はなかなか吹かない。
中国の隊員達は、カメラを持って外に出たり、部屋で音楽を聞いたり、食堂に集まっておしゃべりをしたりしている。皆、任務が無事達成できたと言う安堵感で、表情がとても明るい。
聞いていた通り、午後2時に日本の極地研から電話がかかってきた。O先生、S先生、Y君たちと話をする。N先生は、S先生から「食事はどうですか」と聞かれて、「そろそろ飽きて来ました」と答えたところ、「それくらいなら、まだいい方ですね」と言われたそうである。実際、基地でも船でも食事は中華料理オンリーであるが、基地は北京風、船は上海風の味付けであると中国の隊員が言っていた。船の料理は油をふんだんに使うのに対し、基地の料理は、船よりは油が少ないので、我々にとっては少し胃の負担が軽い。朝食は粟・とうもろこし・米のお粥と饅頭、ザーサイ、焼き豚など、昼食と夕食は、米飯、スープ、肉の副食2品と野菜の副食1品というのが典型的スタイルである。
今日はバレンタインデーでもあったので、春節の時に配給されたチョコレートを、自分で自分にプレゼントして食べた。
そのあと、UAP棟に行って、フォトメーターを屋根の上に設置する作業を行った。そのときにHさんから聞いた話では、当面、21日を仮の出発日とすることになったそうである。それまでに西風が吹けば、それはそれでそのときに判断するが、西風が吹かなくとも、21日には小型艇を接岸させる努力だけはする。もし小型艇が湾内に入って来れれば出発するが、もし小型艇が来れないとなると、それ以降の水路が最初に開いた日と、デービス基地からヘリが最初に借りられる日との、いずれか早い方の日に出発するらしい。不思議な事に、21日出発の予想が当たりつつある!
2月15日(土)基地では、鉄屑など不燃性ごみの収集が続いているし、建物の改装も続いている。つい先日までは、西風が吹き次第出発するので、一日も早く仕事を終えるようにと言っておきながら、いざ仕事が終わってしまうと、一瞬の内に言葉を翻して、21日を出発予定日とするので、それまでまた働け、と言うわけである。それでも、発電棟の人から聞いた話では、中国の隊員には、夏隊員で一日10$、越冬隊員で一日18$の給料が出ているらしく、そうだとすると、この給与額は中国国内の平均的日給の数倍から10倍程度に当たる。それだからかどうか知らないが、皆文句も言わずに黙々と仕事をしている。
さて、仕事が再開され、宿舎棟のトイレのタイルも張り替えることになり、その間トイレが使えないことになった。小便器が増設されて便利になったと喜んでいたのに、またまたトイレが不便になった。トイレのついでに言っておくと、中山基地のトイレは、空いている時はドアを閉めて、使用中の時はドアを開けるのが正しい。と言うのも、基地のトイレには、鍵がないからである。中国国内のトイレのように戸までない、と言う事はないが、とにかく鍵はない。中国人は、ノックもせずにトイレのドアを開けるから、今までにも、用を足している時にドアを開けられた事が何度もあった。ある時など、急にドアを開けられた挙げ句、「入ってるんなら、そう言えよ」と逆に文句を言われてしまったこともある。彼らは、「ドアが閉まっている=没人(メイレン)」と思うのだ。そんな訳だから、用足しの時に、始めからドアを開けておけば、誰の目にも使用中である事が一目瞭然であり、従って、文句を言われる事もないと言うわけである。私は中国旅行で開放型トイレにも慣れているが、慣れないN先生はやはりドアを閉めて、その代わり、用足し中に足音がすれば咳払いをする事にしている、と言っていた。
夕食後、磁力計の不可解なデータが自然現象なのか、それとも故障なのかを調べるために、地質のグループが設置しているフラックスゲート磁力計のデータを比較のために見せてもらいに行った。莫愁湖の向こう側に小屋を建てて設置してあり、3成分の6秒値をディジタル、アナログ両方で記録している。我々の磁力計におかしな変化が出ている時間帯に、こちらの磁力計にはそれらしい変化は記録されていなかった。やはりこちらの磁力計がおかしいようである。
磁力計を見た帰り、Qさんが、ある人が、出発日は19日になったと言っているのをさっき聞いたと言っていた。出発日は早まるかも。
2月16日(日)今日は、南極に来てから一番寒い日である。朝、気象棟に見に行ったときの気温は氷点下5.6度、係りの人が言うには、今朝の最低気温は氷点下8度であったそうである。しかも、風が強い。莫愁湖の半分が凍っている。朝から、四川電視台のP記者、人民日報のK記者、黒龍江画報のB記者、それにMさんの4人がUAP棟に来て、色々と取材して行った。取材は、極地研究所の資料として残すため、こちらがお願いしたものである。
今日もシャワーがぬるく、湯の温度がたったの19度しかなかった。これでは、水である。南極まで来て、水のシャワーに入るとはなかなか辛い。しかも、脱衣場のヒーターが壊れてしまった。シャワーを浴びた後も、ブルブル震えるほど寒い。全く、基地の物は一日一日と壊れていく。これで、まともに動いているのは、宿舎棟にある電気掃除機だけになった。でも、掃除機も、いずれ壊れるのであろう。
今日聞いた話では、雪龍号は、明後日、18日に来る予定だそうである。我々は、可能なら19日にも雪龍号に移るとのこと。中山基地滞在も、今日を入れてあと4日となるのだろうか。
てっきりそう思っていると、夕食の時、基地長から、「雪龍号はすでに基地から4マイルの所で待機している。海上気象予報によると、今晩から明日にかけて、西風に変わるとの予報が出されている。早ければ、明日の午後にも夏隊は基地を出発する」とのアナウンスがあった。これまた寝耳に水である。場合によっては、明日にも基地を去るとは思ってもみなかった。
2月17日(月)夜中の0時から、全天カメラのピント合わせをやろうとした。しかし、一面の曇天で、星が見えなかったために、断念した。
朝起きてみると、相変わらずの東風、しかも基地はすっぽりと雪化粧である。これでは、恐らく今日の出発は無理であろう。
その後、第一次隊の基地長で、基地での越冬中に病気になって帰国後亡くなった、高欽泉教授の墓に、皆で参拝して献花した。その時、聞いた話では、明日の北京時間午前8時、すなわち、中山時間の午前5時に、雪龍号が来る予定になっているそうである。
高欽泉教授の墓。 その後、科学班で、我々の歓送会を催してくれた。基地には、外国からの訪問者があったときに使う応接室があるのだが、そこで歓送会を開いた。応接室に初めて入った。応接室には、中国の地図と、孫中山(孫文)の銅像が置いてある。例えば毛沢東基地とか、ケ小平基地とせずに、「中山」基地と名づけたのは、将来、台湾の科学者を呼べる可能性を残すためである。訪問者の記録帳に名前を書き、折角なので写真も張っておいた。数年前に来たS先生の署名もあった。面白いというか、不思議というか、それ以前にも、一人だけ日本人がこの基地を訪れている。「南極一周航海中に立ち寄りました」と書かれていたが、一体どんな人なのだろうか。
2月18日(火)朝起きてみると、雪龍号はまだ来ていなかった。風はやはり強く、天気もそれほどいいわけではない。しかし、朝食後、全員が外に出て、国旗掲揚、国歌斉唱、そして記念撮影をした。出発式をしたからには、今日こそ雪龍号が来るに違いない。皆そう思って、帰る準備を始めた。基地内は、にわかに慌ただしくなった。基地を離れるときにも極地研究所に連絡を入れなければならないので、基地長のサインをもらいに行くと、基地長は済ました顔で、「今日は帰らないよ。この天気じゃ無理だ」と言う。それでは、さっきの出発式は何だったのだろう。しかも、皆今日帰るものと信じて、準備している。帰らないのであれば、帰らないと言えばいいのに。
昼食の時、基地長が立ち上がって、「これから、発表をします」と言ったので、天候が悪いので今日は帰らない事になった、と言うのかと思っていると、「午後、雪龍号が到着するので、夏隊員は本日基地を離れる。全員、準備を整えて待機しているように」とのことであった。さっき自分が言った事と、正反対である。全く何が何だかよく分からない。
午後、私用通信費の支払いに、通信室まで行った。通信室にいると、雪龍号との交信が聞こえるので、一番確かな情報がリアルタイムで入ってくる。そのうえ、氷の状態を見に行った隊員のトランシーバーの交信も聞こえる。氷の状態を見に行ったCさんの報告では、氷の状態は余り良くなく、雪龍号からの小型艇は近付きにくそうとのこと、また、雪龍号からの報告では、海上は風が強く、氷縁に達する前に、氷が開いた海上の部分ですでに、小型艇は波を受けて危険であろうとのことであった。
通信費の支払いが終わって、帰る途中、ある隊員に会ったので、「さっき通信室で雪龍号との通信を聞いていましたが、どうも今日の出発は無理みたいですよ」と言うと、その人はびっくりしたような顔をして、「では、通信室に聞きに行きましょう」と言うので、もう一度通信室に行くと、通信士が、「いや、今日は帰りますよ」と言う。通信士は交信を全て聞いていたはずなのに、えらく楽観的である。
部屋に戻って待機を続けたが、出発の連絡はない。そのうち、天気はだんだん悪化して、小雪が舞ってきた。もうこれで今日の出発は無しだ、と思って、眠ってしまった。起きたのは夕食の少し前。外は吹雪になっていた。夕食の時、基地長が立ち上がったので、また、いつもの通り「明日こそ出発します」と言うのかと思っていると、「明日から朝食の時間を30分遅らせて、8時にします。また、明日午前9時から、全体会議を開きます。それから、今晩からカラオケを解禁します。以上」とだけ言って座った。我々の出発のことは、もう連絡事項にも入らなくなった。
2月19日(水)雪はやんだが、基地付近は所により15cmの積雪となっている。気温は日毎に下がり、昼間の最高気温でも氷点下5度を越えなくなってきた。はたして、今日は帰れるのだろうか。朝食の時、基地長と隊長とが、「今日の午後には出発できるだろう」と言っているのを聞いたが、昨日氷の状態を見に行ったCさんは、「当分出発できそうにない」と言っていた。
午前9時、会議が始まったが、我々は参加せず。会議は延々続き、終了したのは午後1時であった。いつもより1時間遅い昼食となり、その時、基地長から、「雪龍号は既にこちらに向かっており、あと約3時間で到着する。その後、小型艇が接岸を試みる。今日出発できるかどうかは、それ次第だが、とりあえず夏隊員は出発の準備をしておくように」との発表があった。この日の昼食は、会議が延びてコックが料理を作っている時間がなかったために、ジャジャ麺と呼ばれる、中国風うどんだけであった。さて、これが中山基地最後の食事となるかどうかである。
昼から、風は少し弱まったが、雲はやはり多い。部屋で待機していたが、午後4時になっても、雪龍号が来たと言う情報は入ってこない。また通信室に行って聞くと、雪龍号はまだ基地から10マイル以上離れていると言う。雪龍号が来たのは午後5時30分頃。基地から、2.5マイルの所に停泊し、小型艇を出して、接岸を試みているらしい。しかし、接岸はやはり容易ではないらしい。皆、荷物を外に出して、いつでも出発できるように待機していたが、一向に連絡はない。
午後7時30分、QさんとHさんの部屋に行った。ここは通信室のすぐ近くで、交信の内容が全て聞こえてくる。行って5分も経たないうちに、「接岸は無理と思われます。雪龍号に帰還したいので、許可願います」と言う小型艇からの無線と、「了解。今日の出発は中止と決定せざるを得ないですな」と言う隊長の声が聞こえてきた。これで、今日の出発は完全になくなった。宿舎棟に知らせに行くと、一同がっかり。荷物をまた部屋に運び入れ始めた。西風が吹かないまま、あえて接岸を試みたが失敗。これで、東風の時は脱出不可能である事が証明された。後は、西風が吹くのを待つか、ヘリを借りるしか手はない。
2月20日(木)今日も東風である。記憶が定かでないが、我々が基地に来てから、西風は恐らく3回しか吹いていない。前回は、2月2日であったと思う。もう半月以上東風が続いていることになる。今日は、朝からまとめて洗濯をした。この分だと、まだ暫く出発しないだろうと思ったからだ。シャワーの湯は、少しだけ暖かくなって、30度位にはなった。洗濯機は相変わらず不調であるが、時々脱水機が少しだけ回転するので、根気よくやれば洗濯できる。基地にいるのなら、全天カメラのピント合わせでもやりたいが、天気はずっと悪いままだ。
昼食のときも、基地長は、夏隊の出発について一言も触れなかった。西風は余り吹きそうにないから、24日以降に、ヘリで帰る事になるのだろうか。
午後、N先生はUAP棟に行き、私は部屋で昼寝をしていた。すると、午後3時半頃になって、急に、周囲がバタバタし始めた。余りに騒がしいので起きて外を見ると、皆が荷物を外に運び出している。今から出発だ、と言っている。「こりゃ、えらいこっちゃ。UAP棟にN先生を呼びに行かなあかん」と思って飛び起きたところに、N先生が戻ってきた。
今日の出発はないものとばかり思っていたから、少し慌てた。二人で急いで荷物をまとめ、QさんとHさんにも手伝ってもらって、荷物を外に出した。海の方を見ると、雪龍号から来た小型艇が、氷の中をかき分けるようにこちらに進んでくるのが見えた。ブルドーザーと雪上車とで荷物を途中まで運び、そこからまた人海戦術で、小型艇の接岸場所まで運んだ。そのとき聞いた話では、二日前に、ケ小平が死去したらしい。小型艇が接岸したのは午後5時頃。昨年の越冬隊が基地を離れたときに小型艇が着いた磯場のすこし左手の、やはり同じような磯である。荷物を積み込み、QさんとHさんとに挨拶をして、小型艇に乗り込んだ。
「雪龍号」から迎えに来た小型艇。
越冬隊員たちを残して立ち去るのは本当につらい。 小型艇が、我々今年度の夏隊を乗せて岸を離れたのは、午後6時30分。1月2日以来、ちょうど50日を過ごした中山基地を去ることになった。出発の知らせを聞いてから僅か3時間、基地生活のあっけない幕切れであった。氷点下7度の寒さの中、小型艇は流氷の中を抜け、氷の開いた海を走り、中山時間午後8時、北京時間午後11時に雪龍号に到着した。Lさんも出迎えに来てくれた。縄ばしごで雪龍号に乗り移り、その後、荷物を部屋に運び入れた。これで、やっと帰れる。
寝る前、5億年のZさんが、明日天気が良ければ、雪龍号はオーストラリアのデービス基地に立ち寄るので、もし行きたければ準備しておくように、と知らせに来てくれた。驚くやらうれしいやら。明日が楽しみである。