出発まで


平成5年

 大学で地球物理学を専攻した私は、よく人から、「地球物理なんかやると、南極に行かされるで」と言われたものであった。しかし、当時の私は、自分が本当に南極に行くことになるとは夢にも思っていなかった。

 その私が、本当に南極に行くことになったきっかけは、平成5年の10月のある日、大学院の時の後輩のY君から研究室にかかってきた一本の電話であった。極地研究所では、この度、中国との3年間の協同観測事業を行うことになり、中国の「中山基地」に派遣する隊員を探しているところなので、考えてみてもらえないかということであった。自分でもよく考えないうちに、「ぜひぜひ行きたい」と口が勝手に答えてしまっていた。


平成6年

 まずは、極地研究所と連絡を取って、南極に行くための手続き方法や、現地での任務の内容について説明を受けることから始めなければならなかった。平成6年の春の学会で、極地研究所の先生方にご挨拶する機会があったので、その時に、大まかなことは大体つかめた。

 それによると、極地研究所では、各国と「国際協同観測」と呼ばれているプロジェクトを行っており、科学者を互いの基地に交換派遣して、協同研究を行ってきているのであった。今回、中国の上海にある「中国極地研」と初めて国際協同観測を行うことになり、すでに、Gさんという、中国の科学者が一人、昭和基地で越冬を終えたばかりであった。今度は、日本側から中国の基地に人を派遣して、共同観測を行う番になっており、そのために、3年計画で毎年2名ずつ、合計6名の日本人研究者を、中国の中山基地に派遣する計画が進行中であった。極地研究所のS先生、O先生、Y先生の3人が実際の研究を主に担当されるということであった。

 中山基地での超高層物理学関係の日中協同プロジェクトの1年目のテーマは、オーロラの明るさを測る「スキャンニングフォトメーター」と呼ばれる機器と、オーロラをビデオ撮影するための「全天カメラ」とを中山基地に設置することであった。2年目のテーマは、昼間や曇天でもオーロラを観測するため、電波を用いてオーロラを測定する「リオメーター」と呼ばれる観測システムを設置することであった。私は、この2年目の派遣候補として挙げられたのであった。

 そんなわけで、私の任務は、平成7年末から平成8年初めにかけて中山基地を訪れ、この「リオメーター」を設置することであった。それまで、私は、リオメーターと言うものを見たことが無かった。名前から考えて、何か、一種の測定器のようなものかと思ったが、聞いてみると、リオメーターとは「Relative Ionospheric Opacity Meter」の略で、宇宙空間から到来する銀河雑音がオーロラによってどれだけ吸収されたかを測ってオーロラを観測する装置で、35m四方の大きさを持つ巨大なアンテナ群と、受信機一式、そしてビーム制御とデータ記録とを行うパソコンとからなるかなり大掛かりなシステムであることがわかった。

 月末になって、中国極地研の隊員が研修のために来日したとの連絡を受けた。私も極地研に赴いて、日本側の1年目の派遣隊員であるK氏、A氏、昭和基地で越冬した中国人科学者のGさん、中国側の1年目の派遣隊員であるXさんに面会し、スキャンニングフォトメーターと全天カメラとを見せてもらった。

 研修では、これらの機器の原理や使い方、データ記録・分析ソフトの操作方法などについての説明を一通り受けた。私は、これらの機器の大まかなことが分かっているだけで良いので、実際に操作の練習をすることはなかったが、現地で越冬観測するXさんは、こと細かい細部に至るまで、完全に理解するまで、何度も何度も繰り返して操作の練習をしていた。南極で越冬観測に従事するためには、単にスイッチやつまみの操作ができるだけではだめで、状況に応じて、観測モードの的確な切り替えができる判断力も要求される。また、現地で壊れた場合、少々の故障ならば修理できるように、内部構造にも精通しておく必要がある。これらについて、総合的な研修を受けるのであった。

 私は3週間べったりではなく、一度岐阜に戻った。GさんとXさんとが帰国する直前、もう一度極地研を訪れたが、その間の僅か2週間ほどの間に、Xさんがこれらの機器についてのベテランになっているので、驚いた。

 その後、長らく、極地研からの連絡はなかった。年末になって、11月に、K、A両氏が、中山基地に向けて出発されたとの話を伺った。


平成7年

 中山基地に行かれていたK、A両氏が、3月に帰国された。基地についての貴重なお話を色々伺い、写真なども見せてもらった。

 6月になって、極地研から、来月末に身体検査をやるので、上京するようにとの連絡を受けた。その時、今年のもう1人の隊員の候補として、N大学S研究所のN先生の名前が挙がっていることを知った。N先生は、見た感じ、50代で、中山基地に派遣されるのは若い研究者だとばかり思っていたので、少々驚いた。しかし、N先生はリオメーターの専門家であるし、過去にも2度昭和基地での越冬経験もおありとのことで、N先生と一緒に行くことになれば、もう何も心配することは無いから、私としては大歓迎であった。

 また、7月末から3週間の予定で、2年目のプロジェクト担当の中国の隊員が研修のために来日するので、身体検査終了後も東京に残って、研修に参加するようにとの連絡を受けた。

 7月末、身体検査のために上京した。極地研の指定により、T病院で受検することになった。N先生はヨーロッパ出張中と言うことで、来月受検するらしい。そんなわけで、私一人で受検するのかと思って、検査当日、病院に行くと、昭和基地に行く予定の方数名と一緒であった。検査項目は、採血、検便、検尿、直接レントゲン、眼科、歯科、心電図、呼吸器、耳鼻科、内科の問診等であった。耳鼻科では、平衡感覚のテストがあり、目をつぶって頭をかしげた状態で、部屋の中を歩かされたり字を書かされたりした。やはり、目をつぶって片足で立つテストでは、皆、「これでふらついたら南極に行けない」と思って、必死で立った。越冬ではないので、精神科の検査はなかったし、その他の検査項目も、越冬の人よりは少なかった。しかし、私は外国基地派遣ということで、同じ夏隊でも、昭和基地に行く人よりは検査項目が若干多かった。

 身体検査を終え、極地研で、S先生と打ち合わせをした。私は、今回の任務は、リオメーターの設置だけと思っていたが、そこで、フラックスゲート磁力計も設置することになったことを聞いた。それだけでない。S先生が、ちょっと困ったことになった、ということを言った。中国極地研から連絡があり、実は、この6月に観測小屋でボヤがあり、火はすぐ消し止められたものの、観測機器の一部が故障してしまった。そのあと、今月(7月)に猛烈なブリザードが来襲し、観測小屋自体が強風で倒れてしまった。昨年、Kさん達が設置した機器等は、再設置しなければならない、と言うことであった。つまり、2年分の仕事をやらなければならないのである。

 これは大変である。目の前が真っ暗になった。スキャンニングフォトメーターや全天カメラは、去年Xさんが来たときに軽く説明を受けただけで、細かいことまでは分からない。正直言って、少し不安である。しかし、Xさんがまだ越冬中であるから、交換する部品を持って中山基地に行き、相談しながらやるしかない。そう思えば、さほど心配するほどのことでもないと思われた(実際には、後にもう一度どんでん返しが起こるのである)。スキャンニングフォトメーターと全天カメラとを担当されているO教授から、これらの機器に関する指導を受けておかなければならなくなった。

 明後日から、去年も来たGさんと、今年の越冬隊員のLさんとが、研修のために来日する予定である。当日、成田空港まで出迎えに行った。Gさんと1年ぶりに会った。Lさんは、Gさんより少し年下で、湖南省の出身だという。湖南省は中国でも方言の違いが大きい地域の一つで、Lさんの発音は、私にとってはかなり聞きづらかった。

 研修では、まず、リオメーターの原理についてY先生の講義があった。そのあと、過去に昭和基地で取得したデーターを用いて、パソコン上でデーター解析の練習をした。データーは昭和基地で過去にとったものであるが、ソフトは中山基地用に作ったものであるので、メニューなどは、英語で表示してある。しかし、ソフトの詳しいマニュアルは、日本語版しかない。そこで、私とLさんとで、マニュアルを中国語訳することになった。マニュアルを訳すためには、ただ字面を見て中国語に置き換えていったのではだめで、内容を全て完全に理解して訳さなければ、まともな訳にならない。Lさんにとっては、原理や操作方法についての勉強も兼ねているわけで、私にとっては、現地で作業の際に必要になる中国語の勉強になり、この翻訳作業は、後に大いに役に立った。

 それが済んで、次には磁力計の設置の仕方について、説明を受けた。これは、リオメーターに比べれば、割合簡単に出来そうであった。

 その後、Lさんたちにリオメーターの実物を見せて説明した。アンテナの各部の構造や、組み立ての手順、動作中の様子、その他すべてが、事前に説明したとおりであることを見てもらい、要点を確認した。2日ほど、実際にLさんに観測の練習をしてもらった。

 10月になって、ついに中国側から日程についての連絡があり、我々の日程もフィックスされた、と極地研から連絡を受けた。それによると、我々は来年1月9日に成田空港を日航機で発ち、ニューヨークまで行く。そこでチリ航空機に乗り換えて、サンチアゴまで行く。さらにチリ航空国内線に乗り換えて、南米大陸最南端のプンタアレナスまで行く。機中2日の旅である。そこで、チリ空軍機に乗り換えて、キングジョージ島の「長城基地」に入り(中国は南極に2ヵ所基地を持っている。「中山基地」と「長城基地」である)、そこで中国の南極観測船、「雪龍号」に乗船する。「雪龍号」は1月20日に長城基地を出発し、南氷洋を半周して、2月3日に「中山基地」に着く。我々はそこで任務に従事し、3月6日まで中山基地に滞在した後、「雪龍号」で基地を出発し、3月23日にオーストラリアのタスマニア島のホバートに到着、我々はそこで「雪龍号」を下船する。その後、シドニー経由で3月27日に帰国する、と言う日程であった。

 日本は昭和基地しかないために、「しらせ」の航路は、往復ともオーストラリア経由である(以前は南アフリカ経由もあったが、今は無い)。ところが、中国は基地が2ヶ所にあるため、往復ともオーストラリア経由の年と、行きは南米経由、帰りはオーストラリア経由の、両方の年がある。大体、2〜3年に一度、南米経由となるそうである。長城基地の、隊員や物資は全て航空機で輸送できるのだが、越冬中の燃料となる重油だけは、船でしか運べない。燃料補給をする年のみ、「雪龍号」が南米経由となるそうで、たまたま、今年はそれに当たっているのだそうだ。南米に行く機会などめったにないし、南氷洋半周に至っては、極地研の人でさえ「すごい旅程だ」と言うくらいなので、我々は非常にラッキーである。

 12月4日付で、文部省から正式の出張命令が私と大学とに来て、承諾書を送るように要請された。いよいよ、本当に行くのだという感じがしてくる。


平成8年

 出発は、1月9日の火曜日であったが、私は6日の土曜日の午後から極地研に行っておくことにしていた。6日の午前中、大学で何人かの先生方に出発の挨拶をし、昼過ぎに研究室に戻った。そろそろ家に戻り、荷物を持って、いざ行こうかな、と思っていると、外線がかかってきた。出ると、母親の声であった。電話の向こう側で、母が、「南極行きは中止」と3回くらい繰り返しているが聞こえた。「人が今から行こうとしている時に、何をアホなことを言う親や」と思って、「いや、行くよ」と言ったが、母は、「とにかく、南極行きは中止」と繰り返して言うだけであった。しばらくして、母はようやく、「極地研から、中止の連絡があった」と絞り出すような声で辛うじて言った。それで、私も事の重大さに気付いた。電話を切ると、続いて、N先生から電話があった。詳しいことは分からないが、極地研から、出発中止の緊急連絡が入ったという。それを聞いて、電子メールをチェックすると、S先生から、やはり、「出発は中止との緊急連絡が中国側から来た。今日は土曜日なので、月曜日以降、極地研の事務課に連絡を取ってください」とのメールが来ていた。

 極地研に電話をしてみると、Y君がいて、「どうやら船が事故を起こしたらしいが、詳しいことは分からないし、いい加減なことも言えないので、月曜日以降に事務課に連絡を取ってください」とのことであった。出発中止は本当であった。しかし、出発前に、都内で人に会う約束をしていたので、予定通り東京には行くことにするから、ゲストハウスの予約は落とさないようにお願いしておいた。

 月曜日に、S先生や極地研の担当の方々から事情を聞いた。「雪龍号」は、長城基地で燃料輸送のための停泊中に補助エンジンから出火したため、中山基地までの航海をキャンセルし、チリのプンタアレナスに引き返してこれから修理を行う。従って、今年の夏のオペレーションは、全て取りやめになった、との連絡が、中国側からあったとのことであった。

 我が国では、昭和32年に南極観測を始めて以来、昭和基地に行く人も、外国協同でよその国にいく人も、出発後にやむなき事情で旅程が変更になったことはあっても、出発そのものが中止になったことは前例がなく、極地研も、文部省の担当者も、このことをどう取り扱えばよいのか、かなり困った様子であった。元々3年プロジェクトであり、来年度は来年度で既に計画が決まっているからだ。今年の出発が無くなったからと言って、プロジェクトをずらせることが出来るのか。

 今後のことは、どう転ぶか分からないが、とにかく今年のプロジェクトは無くなったので、仮に来年度もう一度同じプロジェクトを行うにしても、予算の確保、隊員の選考等々、すべて一からやり直しである。私は、指示に従って履歴書を出したり、身体検査を受けたりするだけで良いが、文部省や極地研の担当の方々は大変である。

 4月になり、プロジェクトを一年ずらせて行うこと、従って、私が平成8年度中山基地派遣隊員の候補に再び挙っていることを、極地研から伺った。しかし、身体検査をもう一度受けること以外に、本年度私がすることは何も無かった。当たり前である。本来ならば、もうすでに終わっているはずのことであるのだから。

 6月になって、中国極地研からお偉方が来日するので、上京するようにとの連絡を極地研から受けた。来日したのは、中国極地研および国家南極考察委員会の教授4名と、通訳として、Gさんの5名であった。

 まず、一昨年のボヤとブリザードによる建物倒壊の被害状況についての説明があった。やはり、Kさんたちが設置した、スキャンニングフォトメーターと全天カメラとは、再設置しなければならないことが分かった。また、全天カメラの映像は、ビデオ並びにLDに記録しているのであるが、どちらも、壊れて動かなくなっていることが分かった。壊れたのは記録装置だけで、カメラそのものは、恐らく大丈夫であろうとのことであった。また、オゾン計は、RS−232C基板が不調で、データー出力が正常でないとのことであった。

 次に、「雪龍号」の事故についての説明があった。現在、「雪龍号」の故障箇所はすでに修理を終え、次の航海への備えは出来ていると言う。

 現在の中山基地については、やはり越冬観測が続けられているとのことであった。「雪龍」は中山基地に行かずに戻ってきたものの、昨年の越冬隊員は、オーストラリアの船で中山基地入りして越冬しており、基地は閉鎖してはいないとのことであった。

 最後に、今年の南極観測についての説明があった。毎年のことなのであるが、中国は何事も決定が遅く、日程がまだ決まっていない。しかし、11月ごろに出発して、オーストラリア経由で中山基地に向かい、3月ごろにオーストラリアに帰着するスケジュールとなる公算が高いという。今年、南極に派遣される隊員で、我々とチームを組む人は、現在人選中であるが、間もなく決定されるという。

 そこで、上述のように、物資は上海に戻っているということなので、物資のチェックと、今年の隊員たちの研修とを兼ねて、リオメーター建設訓練をもう一度しようということになった。昨年リオメーターの越冬観測訓練をしたLさんは現在越冬中であるので、今年行く越冬隊員の人に、リオメーターの原理や観測方法等について、改めて研修を受けてもらわなければならない。今までは、毎年中国から隊員候補が来て、こちらで研修をしていたが、今年は、すべての物資が上海にあるので、こちらから中国に出かけていこう、と言うことで合意した。

 そんなわけで、今年は、私が8月に、上海に出張することになった。日程は、8月5日から21日までとなった。後半には、Y先生も1週間ほど時間を作って訪中し、作業に合流されるとのこと。中国極地研には、以前から一度行ってみたいと思っていたので、いい機会であった。

 7月末、去年に引き続いて、またも身体検査をT病院で受検した。それから10日余り、東に出張した後は、こんどは西の上海に出張しなければならなかった。

 上海での作業は、すべて順調とは行かなかったものの、まあまあ何とか終えられた。中国側の今年の派遣隊員は、QさんとHさんという二人の人だそうだ。

 文部省から、日程と出張命令とが来たのは、11月15日のことであった。それによると、我々は、12月9日に成田からカンタス航空機でパースに向かい、パースの外港であるフリーマントルから「雪龍号」に乗船し、中山基地で任務についた後、3月5日にフリーマントル帰着、3月10日に成田空港帰着というスケジュールとなっていた。

 出発の予定日は12月9日。極地研と相談し、出発当日は月曜日なので、文部省への挨拶は、帰国時に行うことになった。極地研には、前日の8日から行っておくことにした。8日は日曜日であるが、S先生とO先生とは出勤してくださるとのこと。出張旅費はS先生が預かっておられるので、それを受け取ることと、スキャンニングフォトメーターのフィルターをO先生から受け取らなければならない。


  


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