モンゴル→中国→日本


12月31日(土)

 翌日、午前6時30分に、列車はウランバートルに到着した。今までに比べてかなり寒い。持参の温度計を出すと、たちまち氷点下30度近くまで下がった。

 さて、モンゴルもビザを取るためにホテルを予約させられたのであるが、それには到着時と出発時の送迎代が含まれている。だから、出迎えが来ているはずである。駅の外に出て、それらしい人を探そうとしたが、その前にタクシーの運転手に捕まった。こっちはちゃんと出迎えがいるのだから、タクシーはいらないのだが、向こうは商売なのでなかなか引き下がらない。

 そのうち、ひげを生やしたオッサンが来て、ロシア語で私はあなたの出迎えだと言う。この人は英語を話さず、しかも私の名前を知らなかった。モンゴルで外国語と言えばロシア語だから、英語を話さないのはさほど不思議ではないが、出迎えなら当然こちらの名前ぐらい知っているはずである。しかし、他にそれらしい人はいないし、そのオッサンが指さす車には、「ジョールチン」(私が手配を頼んだ日本の旅行会社から紹介されていたモンゴルでの現地旅行会社)と大きく書かれていた。そのオッサンは、今日の朝の汽車で到着する日本人をバヤンゴルホテル(私が予約してあったホテルの名前)まで送り届けるようにと聞いていると言った。そこまで話が具体的なら信用しよう、そう思って、車に乗った。しかし、念のため後部座席にのって、いつでも飛び降りられるように身構えていた。

 車で10分ぐらい走り、バヤンゴルホテルに着いた。やっぱりこの出迎えのオッサンは本物であったようだ。お礼を言って、部屋に上がった。部屋は最上階(10階だったと思う)の眺めの良いところで、しかも広い。イルクーツクのインツーリストホテルのシングルルームの2倍の広さはある。シャワーではなく、ちゃんとした風呂であるし、韓国製の石鹸及び歯磨きセットも置いてある。ベッドもふかふかだ。そんなことは日本では当り前のことだが、ここではつい感動してしまった。しかし、よく見渡すと、壁などは薄いベニヤ板で、風呂も一番安い部類のユニットバスである。部屋の広さを除いては、設備的には日本の5000円位のビジネスホテルと同じである。モンゴルのように土地が余りまくっている国では、部屋の大小はあんまり値段に関係するとも思えないから、やはり設備が大事である。これで一泊220ドル(!)も取るわけだから、冷静に考えればやっぱりボッタクリであるとも言える。それはそうとして、まず風呂に入った。車中2泊の汚れを落としたかったからである。

モンゴルの首都、ウランバートルに到着。

 風呂に入っていると、ドアをノックする音が聞こえた。慌てて飛び出してドアを少し空けると、割と派手な格好をした若い女の子が立っていた。こっちは裸(!)だし、一瞬ギョギョッとしたが、何か用かも知れないので、英語で聞いてみた。するとこの人は流暢な日本語で、

「私は今朝佐納様をお迎えに行かなければならなかったガイドの者ですが、遅刻をしてしまいましてごめんなさい。私が事務所に着いたときは、もう運転手は私を待っていると列車の到着時刻に遅れると思って一人で行った後でした。私もすぐタクシーで追いかけたのですが、私が駅に着いたときには、こんどは佐納様がホテルに向かわれた後でした。どうも申し訳ありませんでした」

と言う。なーんだ、これで全部分かった。私の名前などを書いた書類はこの人が持っていたので運転手は私の名前を知らなかったのだ。この人は私に朝食券と、帰りの北京行きのチケットを手渡して、帰りの送迎については、1月3日の午前10時30分に、ここのロビーで待ち合わせましょうと言った。

 朝食券をもらった私は、早速1階のレストランに行った。レストランには客は2〜3人しかおらず、さびれていた。どうやら、このホテルにはほとんど誰も泊まっていないようである。ウエイトレスに朝食券を渡して待っていると、朝食が運ばれてきた。それを見てガーン。三角形に切った薄い食パン一切れ(つまり普通に切った食パン一枚の半分)と目玉焼き一つとりんごジュースだけである。一泊二万円以上も払っていて、こんな食事しか出ないとなると、いよいよこの国には食べ物がないのである。皆がロシアに食料を買い出しに行くわけが分かったような気がした。

 空っ腹をかかえながらも、折角来たのだから市内見物に出かけた。市内の様子は、スヘバートルと同じく、人工的で無機的な町であった。広い通りに人は少なく、ときどきトロリーバスが静かに通って行く。ホテルを出て少し北に行くと、平和通りに出る。正面の建物は中央郵便局である。ここを右に行ってみた。少し歩くと、旧ユーゴスラビア大使館があった。その先にセルベ川があった。セルベ川はガチガチに凍っていた。バイカル湖やアンガラ川のようではなかった。

零下35度の中を地元の人は出勤。

 更に行くと、ベトナム大使館、チェコスロバキア大使館などの大使館がぞくぞくと現れた。その先は高層のアパートが建ち並ぶ住宅地になっていた。そこを左に折れて、少し行ったところをまた左に曲ると、アパート群の中のショッピングセンターのようなところに出た。どんな物が売られているかをチェックする必要があったから、入ってみた。並べてあるものは、缶詰類、酒類、子供服、石鹸の4種類のものだけである。缶詰にしても、全部で数種類しかない。パンやじゃがいもなどは置いていなかった。隣の店に行ったが、ここも品揃えは同じであった。その次の店も、そのまた次の店も同じであった。結局、食べられるものは缶詰しかない。

 ショッピングセンターを出て、市内の方角へ戻って行くと、ポーランド大使館と中国大使館があった。その先にモンゴル国立大学があり、その向こう側に政府庁舎、さらにその向こうにスヘバートル広場があった。ここを南に行くと、さっきホテルから出発して北に進んで平和通りにぶつかった郵便局のある交差点に出るから、その交差点を今度は西に行った。するとオランダ大使館、ルーマニア大使館があり、通りを隔ててその反対側にロシア大使館がそびえていた。何と大使館の多い町である。と言うより、他の建物が少ないのである。ここまでで見た、大使館以外にめぼしい建物と言えば、中央郵便局、国立モンゴル大学、政府庁舎だけしかない。そのあと市内をぶらついて分かったことだが、そのほかには、デパート、国立博物館、何軒かの外国人用ホテルぐらいしか大きい建物はない。あとは、すべて大使館である。この他にも、我が日本大使館、北朝鮮大使館、キューバ大使館、ドイツ大使館などが並んでいた。

ウランバートルの住宅エリア。

一般の商店の店構え。

 外を2時間近く歩いて、寒くなってきたので、一度ホテルに戻った。ついでに一階の銀行で両替をした。ロシアのルーブルが残っていたので差し出したが駄目、人民幣も駄目。そこで、ドルから交換しなければならなかった。50ドルだけ交換したが、何と20000トゥグリクも来た。しかも、全部50トゥグリク札でである。こんなボロボロの札を400枚ももらっても、どうしろと言うのだ。この50トゥグリク札は、額面は10円ちょっとであるが、感じとしては100円以上の使い甲斐があるのである。これを4日で消化しなければならない。再両替は絶望的であるからだ。

 しばらく部屋で休んでいたが、昼になったので、また出かけて行った。食事をしなければならないからだ。モンゴルの食堂は、数字の名前のものが多い。はじめに「25」と言う名前の食堂に行ったが、閉まっていたので、その近くの「35」と言う食堂に行った。ここでは、黒板にメニューが書かれてあり、自分の欲しい料理の合計金額を計算してレジでお金を支払い、レシートを持ってもう一度メニューのところまで行って、食券と交換する。その食券をもってカウンターまで行き、料理をもらう仕組みである。黒板には、モンゴル語で4種類のメニューが書いてあった。意味を尋ねると、肉と、野菜と、スープと、ボーズであると言う。そこで、全部頼んだ。もらった料理を見て、笑いそうになった。肉と野菜は同じ料理であったのだ。肉の方は、ラムにじゃがいもが入ったもの、野菜の方は、じゃがいもにラムが入ったもので、ラムとじゃがいもの比率が違うだけで、同じ味付けであった。スープはやや塩辛い味付けのスープで、具は何も入っていなかった。美味しいものではなかったが、まずくもなかった。

 この日は大晦日であり、しかも土曜日であったからと言うこともあったかも知れないが、午後になると、店がどんどん閉まり始めた。気がついたときには、夕食を食べるところも買うところもなくなってしまった。ホテルで食べるのがいやな私は、意地を張って、結局その日は夕食を抜いてしまった。


平成7年1月1日(日)

 ウランバートルで元旦を迎えた私は、ただの(ではなく、ホテル代に含まれている)朝食だけは食べて、また市内に繰り出した。しかし、やはり、どこの国でも元旦は休みであった。それでなくとも、日曜日である。どちらにせよ休みである。あちこちに行ってみたが、店も博物館も休み。デパートはもちろん休み。その時、ふと、町のはずれにガンダン寺と言う寺があることを思い出した。初詣は神社だが、寺でも似たようなものだから、もしかしたら開いているかも知れない。もちろん、モンゴル人が初詣をするかどうか知らないが。

 行ってみると、寺は開いていた。ラマ寺である。ガラガラと回す筒(マニ車;これを回すとお経を唱えたのと同じ効果があると言う)や、この寒いのに五体投地(這うように参道を進むラマ教独特の参拝方法)をするお婆さんなどを見かけた。本堂では、オレンジ色の袈裟をかけた僧侶が大勢読経を行っていた。境内には無数の鳩が飛び、比較的多くの参拝客で賑わっていた。人口密度の低いモンゴルで、こんなに人を見ると、どこから来たのかと不思議な気がする。寺を出ようとしたとき、バスで乗り付けた団体にあった。出たー。日本人か、と思ったが、韓国人の団体であった。

寺では、マニ車を回して祈る人々が訪れる。

 寺の山門のところで、お守りを売っている人がいた。いくらか聞くと、一つ1ドルだと言う。値切ってみたが、負ける気がないようであった。お守りはロシア語で何と言うか知らなかったが、この人が「彼女は1ドルだ」と言ったので、お守りはロシア語で女性名詞であることが分かった。

 昼近くになって腹が減ったので、昨日の「35」食堂に行ったが、閉まっていた。そこで、その辺をぶらついていると、「58」という食堂があった。メニューはボーズとスープだけであった。それを注文してテーブルで一人で食べていると、小学生ぐらいの女の子がよってきて、持っていたペプシコーラを分けてくれた。どうやら、料理を頼むときに私が喋ったロシア語を聞いていて、外国人と分かったらしい。食事が終わり、席を立とうとしてお礼を言うと、
「パダジーチェ(待って)」
と言う。
「アトクーダ・ブィ・プリエーハリ?(どこから来たの?)」
「イズ・イポーニイ(日本から)」
と言う具合で、話し相手をさせられてしまった。この子は8歳で、学校でロシア語を習っていると言う。モンゴルでは5歳から義務教育が始まり、それと同時にロシア語も習い始めるということである。この子は、自分は習い始めて3年なので余り話せないと言っていたが、どうして、なかなか流暢に話しており、大体のことはロシア語で言うことが出来た。もちろん、私の片言ロシア語では全然歯が立たないぐらい上手である。ところが、日本人の子供が外人はみんな英語がぺらぺらだと思っているように、この子は私がロシア語ぺらぺらと思っているようである。うげー、やめてくれー。

これが「58」食堂での食事。スープとボーズ。

この子が、私についてきた8歳の女の子。

 食堂を出ても、この子はずっと私について来た。これはピンチだと内心思った。この子は、4時からソロバン塾に行く(著者註:モンゴルにソロバン塾なんかあるのだろうか?仮にあったとしても、元旦もやるのだろうか?)ので、それまで暇だから一緒にどこかに遊びに行こうと言う。歩いていると、日本大使館の前に出た。自分はこの国から来たのだと言うと、大使館前に張ってあった、日本を紹介する写真を熱心に眺めていた。宮島の厳島神社とか、新宿の様子とか、相撲とかの写真がモンゴル語の説明文付きで張ってある。これは楽だ。たどたどしいロシア語で説明しなくても、勝手に見てくれる。この子は写真を見終わると、面白いところが近くにあるから、今度は私が案内してあげると言う。その場所は、本当に近くにあった。と言うより、ほとんど日本大使館の隣であった。連れてくれたのは、国立中央博物館。しかし、元旦なので閉まっていた。

 そのうち、猛烈に寒くなってきた。氷点下30度の中を朝からずっと出歩いているからだ。暖かい室内で身体を充分温めた上で、下着2枚と服を4枚以上重ね着すれば、数時間はその余熱でいける。朝から数時間出歩いて、それが切れたらしい。無垢な子供を傷つけるのはかわいそうであったが、最後は強引に振り切って、ホテルに帰ってきた。

 夕方、食事を取るためにもう一度出かけたが、「35」食堂も、「58」食堂も閉まっていた。そんなわけで、また意地を張って、夕食を抜いてしまった。


1月2日(月)

 ウランバートルに着いて3日目になる1月2日の朝、またいつものように食パン半分の朝食を食べて出陣した。この頃になると、腹が減りすぎて、こんな朝食ぐらいを食べても焼石に水、全く食べた気がしなくなっていた。しかし、明日の昼にはここを離れるわけだから、今日が実質最後の一日である。元旦にかかったせいで、ほとんど観光らしい観光と言えばガンダン寺だけだったから、今日は頑張って精力的に回らなければならない。

 まず、市の南にあるボグドハーン宮殿博物館に歩いて行った。ここは中国風の建築ながら、なかなか面白いところであった。おまけでモンゴルの自然動物展もやっていた。帰りは、丁度市バスが来たので、それに乗った。車内の切符売りのにいちゃんが、私のゼミ生の一人にそっくりであったので驚いた。そのあと、歴史博物館に行き、モンゴルの独立の歴史などを見た。昼になったが、時間がもったいなかったので昼食は省略して、その次に、昨日女の子が言っていた中央博物館に行った。これは確かに面白い。ゴビ砂漠から掘り出した恐龍の巨大な化石が展示されている。その後、美術館に行き、チョイジンラマ寺院博物館に行って、最後にピオネール宮殿に行った。そこで日没になってしまい、観光はお開きになってしまった。

ウランバートルの街の様子。

 腹が猛烈に減ってきたので、開いている食堂を探したが、開いているところは一軒もなかった。そもそも、氷点下30度にもなれば、じっとしていてもカロリーの消費が多いのから日本の2倍ぐらい食べなければならないのに、日本の半分の朝飯しか食べず、その上昼飯を抜いて朝から歩き回っているのだから、そら当然ひもじいはずである。そこでデパートの食品売場に行って、ビスケットを買った。

 部屋に戻って、ビスケットを食べようと思ったが、明日の午前中、列車の出発前に何か食べ物を買う時間があるかどうか心配になってきたので、ビスケットはとっておくことにした。それで、ついに痩せ我慢をやめて、ホテルで夕食を取ることにした。それなら、モンゴルの伝統料理でも味わうことにしよう。今日はモンゴルでの最後の晩なのだから。そう思って一階まで降りて行った。レストランでウエイトレスに言うと、モンゴル料理は出来ないと言う。洋食のみである。そこで、ハンバーグを注文した。しばらくして運ばれてきたハンバーグは、どう見てもインスタントのものを「チーン」としたとしか思えなかった。インスタント食品しかないのであれば、モンゴル料理が出せないのも当然である。材料が手に入らないのである。


1月3日(火)

 その次の日は、北京に向けて出発する日である。そう思うと、急にモンゴルを離れたくなくなってくるから不思議である。今まで空っ腹を抱えてひもじい思いをしていたことなど、どこかに吹き飛んでしまった。待合せ時間は10時半だからあまり時間はないが、少しでも見ておこう。そう思って、また市内に出て行った。

 最後だからと思って、街頭でウランバートル市内の様子をカメラに収めていたときのことである。カメラのファインダーを覗きながら構図を考えていると、突然横から何かモンゴル語で話しかけられた。見ると、50歳ぐらいの男性が立っている。どういう事か分からずポカンと立っていると、その人は突然私のカメラを取り上げ、力一杯叩き始めた。そして、私の方にこぶしを振り上げ、殴るぞというそぶりを見せた。私はロシア語で

「ヤ・ニェ・バム・スフォトグラーファバル(あなたの写真は撮っていません)」

と言ったが、この人はなおもモンゴル語で何か言いながら、カメラをさらに数回叩いて、立ち去って行った。今まで色々な国に行ったが、こんな事は初めてである。街頭で写真を撮る場合、国によっては黙って撮られるのを極端に嫌う国民性のところもあるので、注意しなければならない。それに、第一、隠し撮りは失礼である。しかし、今回の場合は、撮ってもないのに、相手が撮られたと勝手に勘違いして殴りかかってきたのである。しかも、この人はファインダーの中に入っていなかったから、覗いている方角とは全然違っていたはずである。それを写そうと思えば、魚眼レンズでも使わない限り不可能である。そんなことも分からないのだろうか。でもまあ、殴られたのはカメラだけで、人間ではなかったから、まだよかったとも言える。

 ホテルに戻って荷物をまとめ、時間通り10時30分にロビーに下りて行ったが、ガイドはまだ来ていなかった。15分が過ぎたが、現れない。そのうち、11時になった。どうやら、このガイドは遅刻の常習犯であるようである。切符には12時10分発と書かれていたし、着いたときに駅からここまで来たから道は分かっているから、もしもう少し待って来なければ勝手にバスで行こう、と考えているところにガイドが現れた。

「すみません。でも、12時10分だから大丈夫です」

と勝手なことを言っている。

 駅に行くと、276号列車はすでにホームに入っていた。北京行は前3輌だけで、あとは国境のザミンウデ止まりであった。車両はロシア製のモンゴル国鉄車両である。と言うことは、ウランバートル−北京間のこの列車はモンゴル国鉄の運行である。ウランバートルを経由する北京−モスクワ間の特急は中国国鉄の運行で、黄さんから冬に乗ると凍えると聞いていたから、ほっとした。ロシア製の車両なら、防寒は万全だろう。しかし、お下がりらしく、かなり老朽化した車両であった。

 切符によると、私は1号車の19番であった。乗ろうとして切符を見せると、車掌がガイドに向かって何か言った。ガイドは、

「この席はないそうです。切符を取り替えに行きますから、ちょっと待っていてください」

と言って、私の切符を取り上げて、どこかに行ってしまった。外は寒いので、タラップを上がった所で待っていると、車掌が切符が来るまで外で待てと言う。外で寒さをこらえて待っていたが、ガイドはなかなか戻ってこない。そのうち、発車10分前になった。さっきまで帰るのが名残惜しくなっていたのに、今度は急に何としてでも帰りたくなった。人間とは勝手なものである。そのとき、向こうから走って来るガイドの姿が見えた。ああ、助かった、と思うのはまだ早かった。ガイドが持ってきたのは、元のままの切符だったのである。ガイドは車掌に何か言って切符を手渡すと、私に

「席は乗ってから車掌に相談してください」

と言って、私を見送るでもなく、すぐに消えてしまった。

 辛うじて車上の人になった私であったが、発車した後もずっと廊下で立たされたままであった。車掌に言っても、

「今忙しい。もう少し待て」

と言う返事。

 車両の半分は中国人の団体であった。何の団体か知らないが、全員茶色の制服を着ていた。この団体は乗るとすぐに酒を飲み始め、タバコをふかしてトランプを始めた。廊下ですれ違うときも、人を押しのけるようにして通って行く。そのうち酒が回ってきたのか、大声で騒ぎ始めた。残りの半分はモンゴル人で、こちらはおとなしくコンパートメントで本を読んだりしている。

 1時間以上経って、空いた席があったから来いと言う。行ってみると、19番の席であった。そりゃ空いているだろう!

 同室になったのはモンゴル人の家族であった。お母さんと、中学生ぐらいの女の子と、小学校高学年ぐらいの男の子である。一見して、普通の人々ではないと直感した。気品が漂っているのである。恐らく外交官か何かの家族であろう。

「ズドラースドビーチェ。グジェ・マヨー・メェースタ?(こんにちは。私の席はどこですか?)」

と挨拶すると、中学生ぐらいの女の子は、

「This bed is vacant, please.」

と正確な英語で答えてきた。今回の旅行中、初めて聞いたまともな英語である。これを聞いて、外交官の家族であろうと言う推測に自信を持った。お礼を言って上段の空いていたベッドに上がり、荷物を片付けたりしていた。旅先であった人は誰でも親しくする主義の私だが、こんな特別な人達だけは別である。失礼のないように接しなくてはならない。不用意に名前や職業や旅行の目的などは聞いてはいけない。と言って、何も喋らず、無視している様子はもっと良くない。この人達が私を警戒しているのが雰囲気から伝わってくる。結局、

「日本から来たものですが、北京まで宜しくお願いします」

と言って、あとは小学生ぐらいの男の子と遊んだりしていた。子供と遊ぶのは、相手に敵意がないことを伝える最も効果的な方法の一つであることは良く知っていたからだ。一緒に歌を歌ったり、窓の外を見たり、ゲームをしたりしていた。

 列車は、モンゴル平原を走る。ザバイカルスクやナウシキの付近とは異なり、はげ山はなくなって、一面の雪ではあるが、一部には枯草も見える。オンボロ列車にしては良く走っている。それに、傑作なのは湯沸器である。中国の車両も、ロシアの車両も、各車両毎に石炭式の湯沸器がついているのであるが、この車両では車掌が薪をくべているのである。お蔭で、車内は煙と灰だらけになった。

 夕方、列車はチョイルと言う比較的大きな駅に停車した。その次の大きな駅は、国境のザミンウデである。翌朝8時の到着である。

チョイル駅の駅舎。


1月4日(水)

 次の日、朝6時に目が覚めた。すると、列車はすでにザミンウデに到着していた。教会のような形をした駅舎に、モンゴル語と中国語で「ザミンウデ」と駅名の表示があった。

 そのうち、トイレに行きたくなってきた。停車中だから、降りて駅のトイレに行くしかない。降りて駅舎の方に歩き始めて、半分ぐらい行ったところで、後方からガタンという音がした。振り向くと、列車が動き始めているではないか!えらいこっちゃ!ちびりそうになった。列車に駆け寄ったが、列車はどんどん加速していく。走る列車の7号車のタラップに飛び乗り、ドアを空けて中に入った。列車の中を前の方に向かって進んで行くと、ザミンウデで全員乗客が降りた後の車内を掃除しているモンゴル人の車掌がいた。私を見て、モンゴル語でガミガミ怒鳴り始めた。何で降りなかったのかと言っているのだろう。

「私は国際列車の旅客です。一号車の席に戻りたいので通してくれますか」

とロシア語で言うと、

「4号車と3号車の間は鍵がかかっている。停車したら外から回れ」

と言われた。

 列車は車庫に引き揚げ、そこでザミンウデ止まりの後部と、北京行きの前部とに切り離された。その間に降りて前に行き、1号車に乗ろうとしたが、まさか車庫から乗る人がいるとは思っていないからドアが閉まっている。ドアを叩いたが、車掌は気が付かない。一晩走ってきて窓は霜がびしっと張っているから、中の乗客も外から合図する私に気が付かない。もう泣きそうになった。そのうち、もしかすると他の車両は開いているかもしれないとふと思った。2号車は駄目であった。しかし、3号車のドアは鍵がかかっていなかった。ラッキー。

 部屋に戻ると、同室のモンゴル人家族は、どこに行ったのかと心配していた。事情を話すと、みんな大声で笑った。中学生くらいの女の子は、

「切り離しが終わったらまたホームに戻るから、そのままホームに残っていても大丈夫よ」

と笑っていた。

 そのうち、またトイレに行きたくなってきた。さっきこんなことがあったから、忘れていたわけではないが一時的におさまっていた。そこで、今度は車掌にホームのトイレに行くと告げて、また外に出て車庫からホームまで歩いて行った。ホームの端のトイレでは、お婆さんが一人、番をしていた。有料らしいのだが、ロシア語で尋ねてもモンゴル語で言うのでいくらか分からない。その時、後から入ってきた中年の男性が気が付いて、ロシア語に訳してくれた。トイレから出てくると、丁度列車が戻ってくるところであった。

 トイレを済ませると、懲りないと言うか何と言うか、折角ザミンウデまで来たのだから、市内をちょっと見てみたくなった。車掌に発車時間を確かめ、まだ2時間ぐらいあるからと言うので、駅の外に出て行った。駅前に歴史的人物であろうか、小さい記念碑があり、左手に木造の家が並ぶ住宅地があり、右手には店のようなものがいくつかあった。しかし、まだ時間が早かったので閉まっていた。中央の通りに沿って両側に鉄筋コンクリート建てのアパートが建ち並んでいる。この通りがメインストリートであろう。道をまっすぐ進んで行くと、学校のようなものが前方に見えてきた。

 その時、左手のアパートとアパートの間から若い男が3人出てきた。ジェスチャーでここから先には行くなと言う。なんやこいつら、と思って立っていると、その3人組は、いきなり叫びながら腕まくりをしてこちらに走り出した。いかん。危ない。私は振り向くと、一目散に駅を目指して走った。地面が凍っているから、走るのは危険だがそんな事は言っておられない。必死に駅までたどり着いて、後ろを見ると、彼等は途中から引き返すところであった。

 この一件で私はすっかりビビッてしまった。もう降りて出て行かないぞと決めた。同時に、モンゴル人について考えた。黄さんが言っていた、「モンゴル人は貧乏で、教育の程度も低い」という言葉を思い出した。ウランバートルの食料事情を見ても、モンゴルが客観的に見て貧乏な国であることは確かにその通りであった。しかし、教育の程度が低いと言うことは当たっているようには感じなかった。ほとんどの国民がロシア語を話せ、それは8歳の子にも当てはまるほど教育はしっかりしている。人々はベルラーさんのように礼儀正しく、思いやりがあり、しかも威張らない。むしろ教育レベルはかなり高いと感じた。もし黄さんの言うように「教育の程度が低い」ならば、それは、ウランバートルの街角でカメラに憤慨した男性や、ここの私を追いかけてきた3人のようなことを指していたのかもしれない。もともと騎馬民族なので、普段はおとなしいが、カッとなるとすぐに手を出すのかもしれない。いずれにせよ、私にはモンゴル人が「教育の程度が低い」とは思えなかった。

ザミンウデ駅で出会った、元気な地元の子供。

 9時すぎからモンゴルの出国審査をし、列車は10時にザミンウデを発車した。中国との国境地帯は、何もない荒れ地であった。ところが、車内のあちこちで急に歓声があがったので外を見ると、何と鹿のような動物が駆けているではないか。こんな国境の地雷や高圧電流のあるところを走って大丈夫なのかなと考えているうちに、列車は走り過ぎてしまった。

 そのうちに、レンガ造りの壁に白いペンキで書かれた漢字のスローガンが目に入ってきた。中国領に入ったのである。「中華人民共和国万歳」と書いてある。天安門に書かれてあるスローガンと同じである。

 中国領の最初の駅、二連は大きな駅であった。列車はまず3番線に入った。ここで出入国審査官が乗ってきて、中国の入国審査をした。二連は中国の内蒙古自治区に属するので、モンゴル族も住んでいる。審査官はモンゴル族の人であった。これはいい考えだ。そうすれば、中国人乗客に対しても、モンゴル人乗客に対しても、言葉の問題がない。それに、ここの審査官は、満州里の時のように高圧的ではなかった。

 入国審査を終えると、列車は1番線のモンゴル寄りの端に移動した。ここで、車内の乗客はほとんど降りて町に出て行った。同室の家族も、お母さんと中学生の女の子が降りて行った。ザミンウデで懲りた私は、車内でおとなしくしていた。それに、ザバイカルスクで台車交換を見損ねたから、ここでは絶対見届けようと思っていた。

 列車はなかなか動かなかった。暇なので、一人残っていた小学生の男の子に、「あっち向いてホイ」を教えて、一緒に遊んでいた(この子は「あっち向いてホイ」をえらく面白がって、結局北京に着くまでずっと付きあわされた)。

 そうこうしているうちに、2時間以上が過ぎた。昼をまわって、おなかも減ってきた。そもそも、昨日の朝からビスケット以外何も食べていない。そのうち、お母さんと女の子が帰ってきた。市内で買ったみかんを持っていた。果物はモンゴルでは全く手に入らない。それを見ると、何か言葉で言い表せないような気持ちになった。わずか数キロ先のザミンウデには、みかんは一つもないのである。それが中国ではどこでも果物はありあふれているのである。

 私も何か食べたくなってきたので、今度はお母さんが残ることになって、私と男の子と女の子の3人で、市内に出て行くことにした。でも、台車交換を見たかったから、素早く何か食べ物を買って、5分ぐらいですぐに帰ってくるつもりであった。駅の正面の改札口は鍵がかかっていた。女の子は、二連駅の職員通路のような所を通り抜け、外に出た。こんな所を通ってもいいのだろうか。

 二連は中国の町としてはかなり小さいと言う印象を受けたが、それでも駅前の商店街は人で賑わっていた。物資は豊富である。そのうちの一軒でカップラーメンを買い、すぐにホームに戻った。すると、列車が引き揚げて行くではないか!全く運が悪い。走って追いかけたが、間に合わなかった。2時間以上も待っていて、5分だけ離れたすきにチャンスを逃してしまったのである。またまた宿題を残してしまった。私はどうも台車交換は見られないようにできているようである。

 駅の待合室で座っていると、我々の車両の車掌がやってきた。発車時間を聞くと、午後3時13分だと言う。まだ2時間もある。こうなれば、これしかない。食べ物のないモンゴルを脱出し、何でもある中国に来たのだから、腹一杯食べよう。幸い、中国の人民幣は沢山あるから、お金の心配はない。

 もう一度町に出て行き、小さな食堂に入った。食堂が開いている!感動ものだ。メニューを見た。おおー、何でもあるではないか。結局、男の子と二人で、焼飯と、うどんと、饅頭と、野菜炒めと、豚肉炒めと、トリ肉炒めと中華スープを平らげてしまった。

 たらふく食べてハッピーな気持ちになっていると、女の子が、列車が入ったと呼びに来た。そこで、急いで駅に戻った。列車は1番線の前の方に移動していた。前3両が、ウランバートルから来た我々の車両、その後ろに、二連発北京行きの車両が連結されている。ここから、モンゴルの276号列車は中国の列車番号、すなわち90号列車となる。

 定刻15時13分に列車は出発、北京をめざす。二連からは中国の公安官が警備に乗車してきた。これがまた例のごとく高圧的である。扉は蹴って開けるわ、すれ違う人は怒鳴り付けるわである。ロシアやモンゴルで中国の印象を聞くと、「中国人は怖い」という答えが返ってくるが、その気持ちが分かるような気がした。そのあと、車内販売が回ってきた。これも態度が悪い。ちょっとキャリーカートを見たのがいけなかった。勝手にコンパートメントに入ってきて、私が手に持っていた財布をもぎとり、何か買うまで返さないと言う。ジュースを買うと言うと、ジュースだけでなく、みかんとお菓子も買えと言う。うっとうしいので、そのままみかんとお菓子も買う事にした。彼等は勝手に私の財布からお金を抜き取り、商品と一緒に返した。後で金額を確かめたが、多い目に抜かれてはいなかった。

 この列車で、知りたいことが一つだけあった。この列車は北京駅には翌朝6時20分に到着するのだが、90号と言う列車は、フフホト発北京行きの列車の番号でもあり、その列車も6時20分に北京に着くのである。そうすると、フフホト発の列車とこの列車は、集寧(正確には集寧南)という駅で出会う事になる。果して、集寧南で連結をするのであろうか。答えは、今晩8時30分になれば分かる。

 答えは、ノーであった。あとで北京駅で確かめたところによると、ウランバートルからの列車は週に2回だけの運行であり、その時だけ二連発北京行きが運転される。残りの5日は、フフホト発北京行きが運転される。そういう事は中国の国内時刻表には書いてなく、あたかも毎日運行のように書かれていた。

 列車は大同に停車、そのあと張家口、康庄と停車したはずだが、眠ってしまった。


1月5日(木)

 寝ていると、急にガタッと来た。飛び起きると、列車は停車していた。ここには以前にも来たことがあったので、すぐに分かった。万里の長城を越えるため、スイッチバックになっているのである。折り返しの駅、青龍橋に運転停車したのである。機関車を付け替え、進行方向が逆になって、列車は八達嶺を越える。ここを過ぎれば北京はもう近い。

 列車は定刻1月5日の午前6時20分に北京に着いた。氷点下5度である。全然寒くない。むしろ暖かい。12月23日に出発して以来、約2週間にわたる鉄道(大?)旅行は終わった。同室のモンゴル人家族と一緒に駅前に出て、挨拶をして別れた。別れるときに、これからどこに行くのか聞いてみた。「モンゴル大使館」という答えが返ってきた。私は予約してあった新僑飯店にチェックインし、風呂に入って汚れを落とし、ゆっくり2週間の鉄道旅行の余韻にひたるのであった。


1月6日(金)

 再びユナイテッド航空で成田まで。

(おわり)


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