ソ連


8月2日(金)

 列車に乗り始めて3日目、ペトロフスキー・ザボトと言う駅に到着した。ここでも、停車時間があるので、ちょっと駅の外に出てみる。

列車に乗り始めて3日目、ペトロフスキー・ザボト駅に到着。

 ハバロフスクから48時間、ウラン・ウデ駅に到着。ソ連邦ロシア共和国ブリヤート自治区の首都である。ここを過ぎると、列車はバイカル湖に沿って走る。右手にバイカル湖が見えてくると、同乗のアメリカ人の団体が「ヤッホー」などといって騒ぎ始めた。歌を歌ったり、風船を振りかざしたり、車内でお祭り騒ぎをしている。これだから、アメリカ人はどうも相手をしにくい。大の大人が、小学生のようにはしゃいでいる

車内で陽気にはしゃぐ、アメリカ人の団体。

 列車はバイカル湖に別れを告げて、また、白樺林の中を走る。夕方近くなって、スルジャンカと言う駅に到着。イルクーツクの一つ手前の駅である。このスルジャンカとイルクーツクとの間に、山肌にレーニン像の描かれたところがある。

山肌に描かれたレーニン像。

 イルクーツクには、夕刻到着。バイカル湖を源とし、エニセイ川に続くアンガラ川の鉄橋を渡り、イルクーツク駅には現地時刻の19:32(モスクワ時間14:32)に到着した。同室だった家族連れ、それに車内ではしゃいでいたアメリカ人の団体も全部ここで降り、我々の車両は私1人(と車掌2人)だけになってしまった

3日目夕方、やっとイルクーツクに到着。


8月3日(土)

 クラスノヤルスクに到着。ここから、少し乗客が乗ってきた。私のコンパートメントにも、孫を連れたロシア人のおばあさんが乗ってきた。一日、白樺林の中を列車は走る。真夜中、ノボシビルスクに停車。


8月4日(日)

 列車に乗り始めて5日目の朝、オムスク駅に到着。夕方、スベルドロフスク駅に停車。孫を連れたおばあさんは降りてしまったが、代わりに、ビジネスマン風の若い男性など、3人が乗ってきた。もう、かなり西の方まで来た。

5日目、オムスク駅に到着。


8月5日(月)

 モスクワのすぐ近郊まで、白樺の景色が続いていたが、ついにその白樺もなくなり、モスクワ市内に入った。近郊の通勤列車のような列車ともすれ違う。ハバロフスクから乗り続けること130 時間、午後4時過ぎ、ついに終点のモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着

ハバロフスクから乗り続けること 130 時間、ついに終点のモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着。

 ここからタクシーで市内のインツーリストホテルに。クレムリンのすぐ近くのホテルである。


8月6日(火)

 朝から早速、赤の広場やクレムリン、モスクワ川などを見に行く。あと、百貨店に行ってみたり、その辺の通りを歩いてみたり。

無名戦士の墓。

大クレムリン宮殿とモスクワ川。

 午後、タクシーで、モスクワ・キエフ駅まで。モスクワ発、チェコスロバキアのプラハ行き国際特急スメタナ号に乗るためである。

タクシーで、モスクワ・キエフ駅まで。

 列車は、モスクワを発車、ソ連邦ウクライナ共和国の首都キエフ、ソ連とチェコスロバキアとの国境駅チョップを経てチェコスロバキアの首都プラハまで行く。

 同室になったのは、ブルガリア人の男性、ロシア人の女性(この2人は夫婦)、ロシア人の若い女性、それに私である。この列車は2人の男性車掌が勤務していたが、シベリア鉄道の女性車掌と違って、愛想が悪くてぶっきらぼうである。私のことも勝手にモンゴル人と決め付け、「おい、モンゴル野郎!」などと呼んでくる。


8月7日(水)

 朝、キエフに停車。昼、ジメリンカと言う駅で機関車を付け替えて、進行方向が変わる。

ウクライナ地方のジメリンカ駅で機関車付け替え、進行方向が変わる。

 ウクライナ地方を走っている間は、車窓の景色はなだらかな平原であった。しかし、夕方が近づくと、だんだんと山がちになってきた。

ウクライナの風景。この後、国境に近づくと、山がちになっていく。

 廊下に出てみると、一人の男性が、廊下でうずくまっている。「どうしたのですか」と声をかけると、「ひどい頭痛で」と言うので、日本から持ってきた頭痛薬を分けてあげた。この男性は、薬を飲む前に説明書を確かめようとしたが、日本語のみで書いてあるので、一瞬ためらっていた。でも、私が、「心配しなくても、頭痛の薬ですよ」と言うと、薬を飲み込んだ。

 夜、再びこの男性に廊下ですれ違った。ニコニコして、「さっきの薬は良く効きますね。ありがとう」と御礼を言ってくれた。聞くと、この人は、モスクワ駐在のスウェーデン人ジャーナリストだと言う(実は、それは嘘であったことが後でわかる)。それからしばらく、その男性と世間話をして過ごした。

同室になったブルガリア人(左)、ロシア人(中)と私(右)。

 国境が近づくと、車掌が出国カードと税関申告書を配りに来た。聞くと、ロシア語とチェコ語のものしかないという。それでは困る、英語のものはないのかと聞くと、「ロシア語もチェコ語もダメだとしたら、これしかない」と言われて、ポーランド語のものを渡させた。そんなん、余計分かりまへんがな!

 予定では、今夜9時に国境駅のチョップに着くはずであったが、列車は約2時間遅れて運転しており、チョップに着いたのは午後11時になった。暗闇の中に巨大な駅舎がそびえており、何となく不気味な感じがした。

 チョップに着くと、ソ連の出国手続き。まず、税関検査。荷物検査そのものは問題なかった。その次に、係員が、「両替証明書を見せろ」と言ってきた。ハバロフスクで両替した時の証明書を見せると、「額が多すぎる。きっと、使い残しのルーブルがあるはずだ」と言われた。私としても、使い残しのルーブルを何とかドルに再両替したかったので、「はい、ありますが、ドルに再両替できますか?」と聞くと、係員は、「これは銀行に行かねばならん。あとで呼ぶから、一緒に来い」と言った。

 他の乗客の税関検査をしている間、私は待っていた。それが終わり、やはり使い残しのルーブルを持っていた数人の乗客と一緒に私は呼ばれ、駅舎内の銀行に連れて行かれた。

 銀行は混雑していた。ようやく私の順番になり、パスポートを提示してルーブルを渡すと、銀行の女性職員は、ドル札の代わりに、一枚の紙切れを返した。見ると、私の名前、パスポート番号、今日の日付が書いてあり、その下に、

「上記の者が、2000ルーブル預金したことを証明する。1年以内に、当銀行の当支店で引き出すこと。1年以内に引出しがない場合、預金は凍結される」

と書かれてあった。まんまとやられた!1年以内に、しかもここでしか引き出せないとは、事実上の没収である。

 でも、私は、帰りもシベリア鉄道経由の予定で、来月には再びここチョップに来ることになっていた。そのときに、預金を引き出せばよい。とは言うものの、仮にそうしても、帰りの車内でも2000ルーブルも使い切れないので、またソ連からモンゴルに出国(帰りはソ連からモンゴル経由で北京まで行く予定にしていた)するときに、そこの銀行に預けさせられるのがオチだろうけれども。

 ルーブルを没収されたあと、待合室のようなところに通された。その部屋は暗く汚く殺風景で、ぼろぼろの服をまとって目だけはぎらぎらした人相の悪いソビエト人たちでごった返していた。しかも、我々数人がその部屋に入ると、係員は出入り口を施錠してしまった。少し心配になってきた

 その部屋で、待てど暮らせど係員は来ない。もしかすると、我々を残して列車は出発してしまうのではないか、との疑念が脳裏を横切り始めた。もう、0時まであと数分、もうすぐ日付が変わる。本当に心配になってきた。

 そのときである。係員が我々を呼びに来た。それで、我々は無事列車に戻ることができた。


8月8日(木)

 列車に戻ってみると、列車はもうすでに台車交換を終えていた。ソ連とチェコスロバキアとで線路の軌道幅が違うので、この駅で、乗客を乗せたまま車両を吊り上げて、台車交換をするのである。面白そうなのでぜひ見たいと思っていたが、ルーブルを没収されに銀行に行っている間に終わってしまっていた!大変残念。

 午前0時30分、列車はゆっくりと動き出した。国境の手前で一度停止。ここでパスポートチェック。これは問題なかった。

 やがて列車は国境を越え、チェコスロバキア領へと入って行った。


8月7日(水)

 せっかく8月8日になったと思ったら、再び8月7日である。ソ連のモスクワ時間とチェコスロバキアの夏時間との間には1時間の時差があり、時計が1時間戻ったのである。それで、ソ連時間の8月8日午前0時30分から、チェコスロバキア時間の8月7日午後11時30分になり、2度目の8月7日を迎えることになった。

 チェコスロバキアの入国審査、税関検査は問題なし。それに、ロシア語しか話さないぶっきらぼうなソ連の係員とは違い、ここの係員は正確な英語を話すし、礼儀正しい。


   


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