”年功序列” 大学の年功序列 終身雇用制度のもとで日本の多くの私立大学は、ますます高齢化が進み、逆ピラミッド型の年齢構成が見られるようになっている。 50才近くになってもしぱしぱ若手教員として扱われるような雰囲気がある。この教員組織は、個人的主義的な専門家の集まりである。その意味では、企業に見られるような組織の中なの年功序列制度は、それ程強く働いている訳ではない。 しかし、大学が日本の集団主義的な社会で活動している限り、教育活動のいろいろな側面で年功序列的なものが色濃く残っている。 私立大学で教員の昇格人事は、助手から講師、助教授、教授、さらに大掌院の担当まで、すべて一定の年限をべースにして資格審査が行われている。年限がくれば、ほとんどの教員が一定の審査基準を経てこの段階を上っていく。 企業と同じ様に外部から集団に入る時の審査は非常に厳しい。 しかし、内部の昇進は、個人的な能力がもっとも重視される高度専門家集団の組織でも、年限がもっとも重要な基準になる。その意味で、基本的には大学も年功序列制度といってよいであろう。 もっとも学部長や所長など大学の管理職については、選挙によって選出するために基本的には本人の才能によるが、一定の短い任期が過ぎ管理職を離れると、教授会の一員としての行政権限しか持たないので、企業のトップマネジャーと性格が全く違うようである。 待遇の面では、企業のケース以上に純粋な形での年功序列制度が支配している。上述のような年限での昇進をベースにして、大学の卒業年次の古さに応じた年功給与体系が確立している。 企業が年功序列制度のもとで、従業員の勤労意欲を刺激するために導入されている能率給制度は、大学ではまったく見られない。 年齢という要因以外には、学内の待遇における平等主義が、日本の大学の基本的なやり方である。 一定基準のもちごまを超過した授業担当時間への超過報酬以外に、研究、教育、行政のどの面でも、教員の業績・貢献に対する付加的な給付や待遇が行われることはほとんどない。まさに典型的な集団主義社会である。 ジョブホッピングで自分の能力を売り込み、より高い給与と待遇を得ようと大学を転々とするアメリカの教員とはまったく異なっている。 こうしたシステムの差が、教員に与える研究教育活動への刺激・機会の提供と教員の意欲・やる気の差となり、結局、両国で大学教育の効率性に大きな格差を生むような働きをしている。 br> 意思決定における年長者の発言力と若手のやる気 現場での研究教育活動については、それぞれが独立した専門家、“一国一城の主”であるために、基本的には年功序列はまったく関係がない。しかし、大学教育の集団的な活動においては、やはり年功的な側面がしばしば間題にされている。 多くの予算を必要とする共同研究が行われる場含、特に理科系では、現場での活動に年長者の発言権(予算の配分権を含めて)が非常に強くなることがある。 そのためにその分野にあまり経験のない年長者が理解を示そうとしない新しい研究領域や問題で、若い教員が自由に多くの予算を便って研究教育活動をすることが困難になり、日本の学術の進歩を疎外しているという批判も聞かれる。 その点でアメリカの大学は、研究者集団の年功に一切関係なく、まったく個人的な能力・責任において、社会的に重要な問題について若いうちから大きな研究費を得て自由に研究できるというメリットがある。 大学改革の面で年功序列的な発想が問題になるのは、教育体系の改革問題である。一般に若い教員は、(個人的な性格、学問分野、教育への熱意の程度による差が大きいが)、社会的に見て新しい間題や新しい分野の研究に対する関心がより強く、その成果を大学の教育活動のなかにどしどし取り入れたいという強い欲求を持つ傾向がある。 意思決定機関の教授会では、年功に関係なく全員参加形式の会議運営と意思決定がなされる。大学の規模にもよるが、インターフェイスの教授会は、100人にも達する大きな会議になると議論が長引き、大学改革問題で新しい斬新な試みには必ず異論が出て全体の合意を得るのが難しく、現状維持的な傾向が強くなる。 高齢化が非常に進んでいる私立大学では、研究領域の異なる保守的な年長者を説得することは相当困難な仕事になる。その結果、新しいユニークなカリキュラムや教育手法の導入という、今一番社会的に要望されている根本的な教育革新がなかなか進まない。 もちろん年長者には、長年の研究教育の蓄積に支えられた優れた見識と管理指導能力が備わっている教員も多い。 基本的には、年長者の集団のリーダーとしての資質によって、新しい教育革新への活力が大きく左右されている。社会環境の変化が激しい時代には、若手に対して物分かりの良い年長の教授に恵まれた集団は、それだけ生き生きしているように見える。 最近では、教員の研究教育活動は非常に幅広く、プロジェクトマネジャーのような研究教育活動の行政的な管理能力(予算の獲得能力も含めて)がますます重要になってきている。これはある意味では、待殊な才能を要する高度な専門的な能力であり、アメリカでは専門家としての活動が非常に重視されている。 しかし、日本の教員は若いときから雑用はさせられるが、プロジェクトマネジャlとして体系的に訓練される機会はあまりない。したがって、多くの大学の教員を含む共同の研究教育活動においては、集団の年長者がその役割を果たすようになるが、特定分野のスペシャリストとして経験だけからでは、より幅広い分野を含む行政的な管理能力を十分発揮できるかどうか間題になるところである。 結局、大学の年功的な管理組織は、高齢化した大きな組織の大学内で調和を保つためには非常に重要である。しかし、大胆な教育改革に効率的に取り組まなければならない時代においては、年功序列的な発想だけに基ずく管理運営手法は、必ずしもに新しい時代を切り開くのに適切なものとはいえないようである。 こうした意思決定メカニズムのもとでは、社会の動きに敏感に対応した新しい大学を作り出していくというような革新的なエネルギーの結集は、よほど優れた行政手腕を持つ指導者に恵まれなければ無理である。 むしろ、若手教貫の新しい発想とバイタリティを大学行政のなかにより有効に生かせるならば、教員組織全体の大学改革への参加意識が強められ、改革への大きな力になるであろう。 (注) 一連の大学教授論は、1998年、ロンドン滞在中に書かれたものです。現在、大学改革に伴って、教員の意識も急速に変化していますが、本質的なものは変わっていないようです。 |