「カンタータ第132番」Bereitet die Wege, bereitet die Bahn
小林 英夫



Bereitet die Wege, bereitet die Bahn: BWV 132
カンタータ第132番   《道を備え、大路を備えよ》      【道を備えよ】
待降節第4主日。   初演1715年12月22日、ヴァイマル。  30歳。
台本作者(詩人):ザロモン・フランクSalomon Frank 1659-1725

1. Aria (Soprano)

Bereitet die Wege,

bereitet die Bahn!

Bereitet die Wege

und machet die Stege

im Glauben und Leben

dem Höchsten ganz eben,

bereitet die Wege

und machet die Stege,

Messias kömmt an!

Bereitet die Wege, . . .

第1曲 アリア(ソプラノ)

主の道を備えよ、

 広き道を整えよ。

主の道を備え、

 その道筋を正せ。

信仰においても生活においても

 いと高き方を迎えるための地ならしをせよ。

主の道を備え、

 その道筋を正せ、

メシア(キリスト)はそこまで来ておられる。

主の道を備えよ、. . .


押韻:1 3 7 Wege−4 8 Stege, 2 Bahn−9 an, 5 Leben−6 eben

 このカンタータの演奏された待降節(Advent)というのは、教会暦の中でクリスマス前の4回の日曜日(主日)を含む期間のことで、クリスマス当日(12月25日)の曜日に応じて長さが変わります。つまり、最短は、今年(西暦2000年)のように12月25日が月曜で、待降節第1主日が12月3日の日曜日、待降節の期間が以後24日までの22日間となる場合、最長は12月25日が日曜で、待降節第1主日が11月27日の日曜日、期間が以後12月24日までの28日間となる場合です。

 カンタータの歌詞を理解する上で重要なのは、この待降節という期間が、自分の生活や心のあり方を反省し、罪を悔い改めて、キリストの来臨(誕生)を迎えるにふさわしい心の準備を整えるための期間であり、バッハ時代のルター派の教会では、ルターの書いた教理問答(Katechisumus)に基づく連続説教が行われていたということです。

 教理問答というのは、基本的な信仰箇条と信徒としての生活規範を問答形式でまとめたもので、おそらく信徒たちは物心ついたときから、家庭で、あるいは教会で、繰り返し教えられ、口にしてきた(文字の読めない者でも、暗誦できるほどに)はずのものです。その信仰の原点に立ち帰って、キリストの誕生を迎えることは、
BWV 40にも書きましたが、信徒としての自分自身の誕生を再確認することでもあるわけです。巷にジングルベルが流れて人々の心がうきうきと、という師走の風景とはちょっと違うようです。

 このカンタータの歌詞は当日の聖書朗読箇所であるヨハネ福音書1章19節〜28節(洗礼者ヨハネがキリストについて証言し、ヨルダン川で洗礼を授ける)と、他の福音書の並行箇所と、それらに引用されたイザヤ書40章3節、『主の道を備え、原野に私たちの神のために平らな広い道を通せ(Bereitet dem Herrn den Weg, machet auf dem Gefilde eine ebene bahn unserm Gott) etc. と、教理問答からの洗礼についての部分(原文が手元にありませんので語句単位での確認は取れていません)などから構成されています。

 第1曲は、野の風景を象徴するパストラーレの中からメシアの到来を予告する洗礼者ヨハネの声(ヘンデルのメサイアでもお馴染みの荒れ野に叫ぶ者の声)が聞こえてくるという設定になっていますが、すでに中間部の、信仰・生活などの語に説教者の視点が入り込んでいます。

2. Recitativo (Tenore)

Willst du dich Gottes Kind

und Christi Bruder nennen,

so müssen Herz und Mund

den Heiland frei bekennen.

Ja, Mensch, dein ganzes Leben

muß von dem Glauben Zeugnis geben!

Soll Christi Wort und Lehre

auch durch dein Blut versiegelt sein,

so gib dich willig drein!

Denn dieses ist der Christen Kron und Ehre.

Indes, mein Herz, bereite

noch heute

dem Herrn die Glaubensbahn

und räume weg die Hügel und die Höhen,

die ihm entgegen stehen!

Wälz ab die schweren Sündensteine,

nimm deinen Heiland an,

daß er mit dir im Glauben sich vereine!

第2曲 レチタティーヴォ(テノール)

もしあなたが自分を神の子供であり、

 キリストの兄弟でありたいと思っているなら、

その心と口をもって

 救い主への信仰を包み隠さず表明すべきです。

そうです、人よ、あなたは生きることのすべてを

 信仰の証しとしなければならないのです。

たとえキリストの言葉と教えを

 血によって証明しなければならないとしても、

 あなたは喜んでそうすべきです。

これこそがキリスト者の冠であり、名誉なのですから。

それゆえ、わが心よ、整えなさい、

 しかも今日のうちに、

 主のために信仰の広き道を。

丘や高台があるなら取り除いておきなさい、

 主の歩みの妨げとならないように。

重い罪の石を砕いて平らにならし、

 あなたの救い主を迎え入れなさい、

主があなたと信仰において一体となって下さるように。



押韻:2 nennen−4 bekennen, 5 Leben−6 geben, 7 Lehre−10 Ehre, 8 sein−9 drein, 11 bereite−12 heute, 13 Glaubensbahn−17 an, 14 Hohen−15 stehen, 16 Sündensteine−18 vereine


 第1段落(1行目〜4行目)、キリスト教徒が「神の子」(ただし、キリスト自身を意味する「神の子」とは区別されることは
BWV91の解説4(編者注:解説5の誤り?)に書きました)とか、「キリストの兄弟」とかを称することができるのは、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子である welche der Geist Gottes treibet, die sind Gottes Kinder 」(ローマ人への手紙8章14節)などを根拠とするものですが、この詩では、単に洗礼を受けて教会に籍を置いているクリスチャンであるかどうか、ではなく、本当に神の霊に導かれて生きているか、が問いかけられています。

 「心と口」をセットにした表現は、同じくローマ人への手紙10章8〜10節に、「御言葉はあなたの近くに、すなわち、あなたの口と心にある Das Wort ist dir nahe, namlich in deinem Munde und in deinem Herzen 」、「口で告白し、心で信じ mit deinem Munde bekennest … und glaubest in deinem Herzen」、「心で信じて義とされ、口で告白して救われる so man von Herzen glaubet, so wird man gerecht; und so man mit dem Munde bekennet, so wird man seligのように集中して見られます。

 第2段落(5行目〜10行目)の Leben は生命、生活、生涯、生き方、生きざま、など、訳語の選択に迷う語のひとつですが、ここでは単純に「生きること」としました。「キリストの言葉と教えを血によって証明」したのは、まずキリスト自身であり、殉教者と呼ばれる人々がそれに続きます。もはや迫害を受ける心配はないはずの当時の一般信徒に向かって、喜んで殉教することが、キリスト者の冠、名誉であるという厳しい説教をするのは、やや時代錯誤とはいえ、宗教改革前後の弾圧の中で実際に血を流してきた記憶を持つプロテスタント教会の覚悟の反映であり、治にあって乱を忘れずという戒めとして見ることができます。

 第3段落(11行目〜18行目)は、第1曲の歌詞に対応する内容で、信徒は再びキリストの到来に備えるよう促されます。降誕祭直前の待降節第4主日らしく、「しかも今日のうちに noch heute 」という一句が、わずか3音節という短さながら、これだけで独立した1行となるように押韻されて、強調されています。


3. Aria (Basso)

Wer bist du? Frage dein Gewissen,

da wirst du sonder Heuchelei,

ob du, o Mensch, falsch oder treu

dein rechtes Urteil hören mussen.

Wer bist du? Frage das Gesetze,

das wird dir sagen, wer du bist,

ein Kind des Zorns in Satans Netze,

ein falsch und heuchlerischer Christ.

第3曲 アリア(バス)

あなたは誰か、それを良心に問いかけるなら、

 あなたはもう自分を偽るわけにはいきません。

たとえあなたが、人よ、嘘つきでも正直でも、

 あなたへの正しい判決を聞くしかないのです。

あなたは誰か、それを律法に問いかけるなら、

 律法はあなたが何者であるかを言い渡します。

サタン(悪魔)の網にかかった怒りの子、

 まやかしの、偽キリスト教徒だ、と。



押韻:1 Gewissen−4 mussen, 2 Heuchelei−3 treu, 5 Gesetze−7 Netze, 6 bist−8 Christ

 1行目、5行目に並行して出てくる Wer bist du? は、当日の聖書朗読箇所の冒頭部、ヨハネ福音書1章19節において、洗礼者ヨハネがユダヤ教の祭司などから問い詰められる場面からの引用で、聖書朗読の際には他人事として聞いていたかもしれない信徒たちに、良心に照らし、律法に照らし合わせて、同じ問いに答えるよう仕向けるものです。

 律法 (Gesetze) というのは、狭い範囲ではいわゆる十戒(汝殺すなかれ、など)を意味する言葉ですが、ユダヤ教では、追加された様々な細目規定(安息日に何歩以上歩いたら罪になるか、などなど)が含まれ、キリスト教では、キリストの言行に応じた精神規定(色欲をもって異性を見るなら、姦淫の罪を犯したに等しい、など)を含みます。また教会文書の中では、教理問答の中で教えられる、日曜日には礼拝に行け、とか、教会の仕事や費用を応分に負担せよ、とかの信徒心得をも加えた意味で用いられることもあります。

 キリストは、律法を廃止するためではなく、完成させるために来た(マタイ福音書5章17節) と言って、形式的な外面規定として解釈されていた律法を、動機を重視する内面規定として解釈し直しており、そこでは個々の規定との一致不一致の問題よりも、すべてにおいて神と一致しているかどうかが問われます。人を殺したかどうかを形式的に問われるだけなら、私などでも、殺していない(少なくともこれまでは)、と答えることができます。しかし、人を憎んだことはないか、人を無視したことはないか、神の愛をもって人々に接してきたか、と問われたら、もうお手上げで、白旗を振って降参するしかありません。従って、罪を自覚させるために律法がある(ローマ人への手紙3章20節) というのが、いわば真相であり、それが罪の増し加わるところに恵みも増し加わる(同5章20節:罪を深く自覚すればするほど、罪をゆるす神の愛を深く感じ取ることができる) ための前提でもあるわけです。

 他の人も同じだ、神に背くつもりではなかった、などの言いわけを許さないのが、良心や律法への問いかけであり、ここで説教者は信徒たちに、深く罪を自覚するようにと厳しい言葉を連ねているわけです。

 「怒りの子」というのは、親(神)の怒りを招かざるをえない不従順な子供、という意味で、エフェソ人への手紙2章3節に見られます(新共同訳が「神の怒りを受けるべき者」としている語句が、直訳で「怒りの子」となるものです)。「怒り」の語に、罪とか悪とかの意味があるわけではありません。

 末尾のChrist(単数1格)の語は、キリストのもの=キリスト教徒の意味になります。ラテン語で「キリストの(形容詞)、キリストのもの(名詞)」として用いられていたChristianus(女性形はChristiana)をドイツ語化してChristenという不変化詞(従って、単数1格でもChristen)としたのが本来の形ですが、やがて -enがドイツ語の変化語尾とみなされ、単数1格ではChrist、その他の格ではChristenを用いるようになったものです。合成語のChristen という場合には、キリストの、キリスト教徒の、の両用になります。なお、聖書でキリストを意味する場合には、ラテン語形のChristusとその語尾変化形であるChristi, Christo, Christumなどを用いるのが通例です(韻律詩などではまれにキリストの意味でもChristが用いられます)。


4. Recitativo (Alt)

Ich will, mein Gott,

dir frei heraus bekennen,

ich habe dich bisher

nicht recht bekannt.

Ob Mund und Lippen gleich

dich Herrn und Vater nennen,

hat sich mein Herz doch von dir abgewandt.

Ich habe dich verleugnet mit dem Leben!

Wie kannst du mir

ein gutes Zeugnis geben?

Als, Jesu, mich dein Geist und Wasserbad

gereiniget von meiner Missetat,

hab ich dir zwar stets

feste Treu versprochen;

ach! aber ach! der Taufbund ist gebrochen.

Die Untreu reuet mich!

Ach Gott, erbarme dich,

ach hilf, daß ich mit unverwandter Treue

den Gnadenbund im Glauben stets erneue!

第4曲 レチタティーヴォ(アルト)

私は、わが神よ、

 あなたに包み隠さず告白します、

これまで私はあなたを信ずる者として

 正しい道を歩んではおりませんでした。

たとえ口と唇を揃えて

 あなたを主と、また父と呼んできたとしても、

私の心はあなたに背を向けておりました。

私は実生活においてあなたを否認してきたのです。

私のような者がどうしてあなたから

 良い評価をいただけましょう。

しかも、イエスよ、私はあなたの霊と水とに洗われて

 この罪深さから清められたとき、

あなたにいつも変わることのない

 確固たる真実を捧げると約束したはずなのです。

ああ、しかし、ああ、洗礼の約束は破られてしまった。

不実への後悔が私をさいなみます。

 ああ、神よ、あわれみたまえ。

ああ、助けて下さい、どうか私が揺るがぬ真実を生き、

 常に新たな信仰の恵みの約束を受けられますように。



押韻:2 bekennen−6 nennen, 4 bekannt−7 abgewandt, 8 Leben−10 geben, 11 Wasserbad−12 Missetat, 14 versprochen−15 gebrochen, 16 mich−17 dich, 18 Treue−19 erneue

 前の問いかけを受ける形で、信徒の告白がなされます。告白という漢語が、告(言葉として口で言い表す)+白(あからさまに、すっかり)であるように、聖書中での用法も基本的に、心の中にあるもの(隠していたかもしれないもの)を包み隠さず言い表すことで、罪の告白、信仰の表明などのほか、神への賛美や感謝を意味する場合にも用いられます(愛の告白という表現が聖書の中にあるかどうかは、未確認です)。ここでは最もわかりやすい罪の告白、いわゆる懺悔(ざんげ)です。

 「口」と「唇」は対句表現の中での言い換えとして用いられる(「舌」も同様)ことが多く、「口と唇」のように直接並べられることはまれです。ここでは第2曲で見た「心と口」という表裏一体の組み合わせを、わざと「口と唇」という同類の組み合わせに変更して、心が欠けていることを強調したものでしょう。

 洗礼は、罪の穢れを清める象徴としてヨルダン川で洗礼者ヨハネが始めたものですが、そのヨハネが「私は水で洗礼を授けたが、その方(キリスト)は聖霊で洗礼を授ける」(マルコ福音書1章8節)と言い、キリスト自身も「誰でも水と霊とによって新たに生れなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ福音書3章5節))と言っていることから、キリスト教での洗礼は、目に見える水と、目に見えない霊(洗礼式中の言葉、あるいは象徴としての聖油の塗布)によって授けられます。ヨハネの洗礼によって罪を清めただけでは、再び罪に陥ったとき、前より悪くなる(ルカ福音書11章26節)かもしれませんので、キリストの洗礼によって神の霊を受け、神の子とされる(第2曲で引用したローマ人への手紙8章14節および後続の15節参照)必要があるからです。

 この曲の歌詞では、2つの ~bund"Taufbund洗礼の約束、Gnadenbund恵みの約束)を始め、多くの語句が教理問答に用いられている用語と関連しているものと思われますが、残念ながら手元で確認することができませんので、やり残しの宿題とさせていただきます。


5. Aria (Alt)

Christi Glieder, ach bedenket,

was der Heiland euch geschenket

durch der Taufe reines Bad!

Bei der Blut- und Wasser-quelle

werden eure Kleider helle,

die befleckt von Missetat.

Christus gab zum neuen Kleide

roten Purpur, weiße Seide,

diese sind der Christen Staat.

第5曲 アリア(アルト)

キリストの身体となった者たちよ、よく考えなさい。

救い主はあなたがたに何を贈って下さったか、

 あの洗礼の清らかな水によって。

血と水の源であるキリストによって、

 あなたがたの衣は潔められたはずです、

 かつては罪深さに穢れていた衣だったのに。

キリストはさらに新しい衣として

 真紅の王衣と純白の絹布を与えて下さいました、

それはキリスト教徒の盛装となるものです。



押韻:1 bedenket−2 geschenket, 3 Bad−6 Missetat−9 Staat, 4 -quelle−5 helle, 7 Kleide−8 Seide

 長々と続いてきた説教もようやく最終部に到達します。洗礼者ヨハネの登場する聖書を導入として、洗礼についての教理問答に基づく説教を行う、というこの日のテーマに沿って、前曲に引き続き洗礼が取上げられています。ソプラノ(説教)、テノール(説教)、バス(説教)、アルト(告白)と歌ってきて、もう一度アルトが歌うというのは、アルトにも説教をさせてあげようということかもしれませんし、罪を悔い改めた者が次には説教者になるという、ルター的な万人司祭主義の表れかもしれません。

 血と水の源Blut- und Wasser-quelleというのは、ヨハネ福音書19章34節において、十字架上で死んだキリストの脇腹を兵士が槍で突いたところ、血と水が流れ出た(ヨハネ受難曲なら36)、と書かれていることを受けて、洗礼(水)によって罪を赦されるのは、キリストの受難(血)のおかげなのだということを表現したものです。同様に、衣を潔める(漂白する)のもキリストの血であり、ヨハネ黙示録7章11節の「彼らはその衣を小羊(キリスト)の血で洗って白くした」という記述に基づいています。

 Purpurというのは紫の衣で、本来なら(正式に紫貝の体液で染められたものなら)王の身に着ける衣服です。キリストは受難の際に、たぶんまがい物の、紫色の衣(あるいはマント)を着せられ、ユダヤ人の王として嘲弄されます(ヨハネ福音書19章2節、同受難曲21a、マタイ福音書27章28節、同受難曲53a)。ここではさらにroten(赤い)という形容詞が付いていますので、ヨハネ黙示録19章13節において、「神の言葉」として最後の審判の場面に登場するキリストが身に着けている血染めの衣へと関連が広がります。

 次の「白い絹」は、その直後(同14節)において、キリストに従う天の軍勢の身に着けている衣のことで、新共同訳聖書では(他の現代の聖書でも一般に)絹ではなく麻とされていますが、バッハ当時は絹だったはずですので、関連付けられることは確かです。手元のルター訳聖書では1545年版がSeiden、1875年版がSeideで、いずれも絹、1956年改訂の現代語版がLeinwandで亜麻布(=麻)となっていますので、バッハ時代は絹であり、現代語版ではより正確な訳語ということで麻に変更されているわけです。

 こうして、ヨハネ黙示録との関連で見てくると、roten Purpurはキリストの衣であり、weiße Seideがその他大勢の衣であるわけですから、そのままですとキリスト教徒の盛装とはいっても、キリスト以外の者は白を着るしかないことになります。ここで、はたと困りました。が、

 別の方向から考えると、ルター派の牧師は礼拝の際には祭服を着用することになっています。おおむねカトリックの司祭と同様に、貫頭衣のような頭だけ出して身体の前後を覆う幅広の布を着て、首の後を通って両肩から前に垂れ下がる帯状の布をその上に着けるわけです。そして待降節の祭服の色は紫とされていますので、幅広の布を赤味の強い紫、帯状の布を白とすれば、roten Purpur, weiße Seideの条件が満たされることになります。つまり、カンタータが歌われる前に説教していた、あの牧師さんの服装が誰でも着られる(万人司祭主義の)キリスト教徒の盛装なんだよ、と、この歌詞は教えてくれていることになるわけです。

6. Choral

Ertödt uns durch dein Gute,

erweck uns durch dein Gnad!

Den alten Menschen kränke,

daß der neu leben mag

wohl hie auf dieser Erden,

den Sinn und all Begehrden

und G'danken hab'n zu dir.

第6曲 コラール(合唱)

あなたの良き思し召しのままに私たちを死なせ、

 あなたの恵みによって私たちを復活させて下さい。

私たちが古い人を脱ぎ捨てて、

 新しい人として生きられるよう、

今この地上にある間にも、

 心の思いと望みのすべてを、

 考えることのすべてをあなたに向けさせて下さい。



 押韻:2 Gnad−4 mag, 5 Erden−6 Begehrden, 7 dir−他詩節(nach dir / von dir)との押韻

 詩はエリザベト・クロイツィガーElizabeth Kreuziger 1505-35作のコラール「主キリスト、神の独り子」“Herr Christ, der einig Gotts Sohn” 1524全5節中の第5節。定旋律は15世紀頃のものと推定され、Erfurt Enchiridion 1524に上記の詩とともに印刷出版されています。

 「古い人」、「新しい人」というのは、罪に従う生き方と神に従う生き方とを対比させたもので、エフェソ人への手紙4章22〜24節に見えるものです。古い人として死に、新しい人として復活する(=罪から清められ、神の霊を受ける)ことが洗礼の意味でもあったわけですから、この終結コラールも洗礼を受けた信仰の原点に立ち帰ることができるようにという、信徒の側からの祈りになっているわけです。

 このコラールはフランクの台本にあって、バッハの楽譜にはないということで、バッハが作曲しなかったとか、書いた部分が失われたとか、いろいろ仮説が立てられているようです。実際に演奏する際には同じ歌詞を持つBWV 164の終結コラールを移調して転用することが慣習となっており、いただいたヴォーカルスコアでもそのようになっているはずです。


<付記>

 バッハは1708年7月に宮廷楽師兼オルガニストとしてヴァイマルに着任し、1714年3月に楽師長(宮廷楽長、副楽長に次ぐ地位)に昇進するとともに月1曲程度の教会カンタータの作曲上演の義務を負い、1717年12月に次の任地ケーテンに赴くため、ヴァイマルを離任しています(この移籍に際して、ゴタゴタがあったらしいことは、いろいろな本に書かれていますので省略します)。

 詩人のフランクは、当時のヴァイマルで宗教局秘書官の地位にあって、すでに1694年頃から宮廷礼拝堂のためにカンタータの詩を提供していた人物です。従って、バッハのヴァイマル時代のカンタータ(現在わかっているもので23作品:1712年ないしは13年のバッハの最も古い世俗カンタータBWV 208=狩のカンタータを含み、BWV 147のように一旦ヴァイマルで初演され、ライプツィヒで改作されたものも含みます)の歌詞の大部分(18作品)はフランクの詩によるものです(参考書を読み合わせて数えましたが、見落としがあったらゴメンナサイ)。その後、ライプツィヒでもバッハはフランクの詩による新作カンタータを3作品書いていますが、あるいはそれらはすでにヴァイマル時代に構想されていたものかも知れません。

 このカンタータの歌詞は、『福音主義礼拝の捧げ物』Evangelisches Andachts-Opferというタイトルで、1715年にヴァイマルで印刷・出版されたフランクの詩集(カンタータ用歌詞集)に収められています。フランクの詩を歌詞とするバッハのカンタータ作品には、詩集として出版される前(ないしは出版されなかったもの)に作曲されたものがありますので、バッハがフランクから直接に詩を提供されていたことは確かですが、どの程度の共同作業であったかは不明です。後のライプツィヒ時代に再演された作品では、その際に歌詞の改変などもなされています。逆に見ると、ヴァイマル時代には歌詞に手を付けることを遠慮していたのかもしれません。


2000. 12. Koba.







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