「カンタータ第131番」Aus der Tiefen rufe ich, Herr zu dir
小林 英夫



Aus der Tiefen rufe ich, Herr zu dir: BWV 131
カンタータ第131番   《深き淵より われ汝に呼ばわる、主 よ》    【主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ】
教会暦外(悔い改めの礼拝用?)。初演1707年頃と推定、ミュールハウゼン。22歳

1. Coro

Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir.

Herr, höre meine Stimme,

laß deine Ohren merken

auf die Stimme meines Flehens!

第1曲 合唱

深き淵から、主よ、私はあなたに呼びかけます、

主よ、私の声を聞いて下さい。

どうかあなたの耳を傾けて、

私の嘆き祈る声を聞き取って下さい。

(詩編130番1-2節)



 バッハは1707年夏から1708年夏までミュールハウゼンの聖ブラジウス教会の オルガニストを務めています。1703年8月(18歳)より在任していたアルンシュ タット新教会オルガニストの職を辞したのが、1707年6月29日付け、ミュール ハウゼンの職を辞したのが、1708年6月25日付け(次の任地はヴァイマルで宮 廷楽師兼オルガニスト)ですから、差し引き1年足らずの短期間ですが、この 間がバッハのカンタータ作曲の最初期にあたり、5作品(研究者によっては6 作品)が現存しています。ついでながら、1707年10月17日には最初の妻、マリ ア・バルバラ(1684年生。1720年7月歿)と結婚しています。


 このBWV 131にはバッハ自筆の総譜が残されており、その末尾には、ミュール ハウゼンの聖マリア教会の牧師アイルマー(Georg Christian Eilmar 1665-1715)の要請によって書いた、という旨がやはり自筆で記入さ れています(樋口隆一氏の目撃証言)ので、初演の日付こそ確認できないもの の、ミュールハウゼン時代の作品であることは疑いなく、初演日付けのはっき りしたもうひとつの作品(BWV 71 Gott ist mein Konig:1708年2月4日初演) とともに、初期カンタータの様式研究の指標となっているものです。

 BWV 131の歌詞は旧約聖書詩編130番と既存のコラール詩節で、詩編は5分割 されて全5曲の各曲に、コラールは第2曲と第4曲に配置されています。この カンタータには自由な創作詩を歌詞とする曲がなく、結果的に全体は、第1曲 =聖書(合唱)、第2曲=聖書(独唱)+コラール、第3曲=聖書(合唱)、 第4曲=聖書(独唱)+コラール、第5曲=聖書(合唱)となり、聖書をもっ て語り、コラールをもって答えるという、正統的ルター派の聖書カンタータの 伝統を踏まえた音楽が、バッハ好みのシンメトリックな枠組みの中から聞こえ てくるようになっています。

 実際に演奏された機会がどのようなものであったのかは不明で、一説によれ ば、バッハ着任前にミュールハウゼンで大火があり、聖マリア教会で悔い改め の礼拝をすることになったためと言われています(もはや現代では通用しない でしょうが、災害を人間の罪深さへの神からの警告と解釈するわけです)。こ の説を裏付ける資料はなく(かといって否定する資料もなく)、歌詞の内容か ら連想されたこじつけに過ぎないのかもしれませんが、他の説が見当たらない ので紹介しました。

 詩編130番は、中世以来7つの悔い改めの詩編と呼ばれてきた詩編群のひと つで、自己の罪深さを自覚した絶望の深淵からの神への呼びかけに始まり、神 による救済を信じてイスラエル(罪に苦しむ全同胞、全キリスト者)への希望 の呼びかけとなって終わる上昇的な構成の詩です。ルターはこの聖書としての 訳のほかに、コラール詩としての翻訳Aus tiefer Not schrei ich zu dir(全5節、旋律もルター自身による)を残しており、バッハも後 に(1724年、ライプツィヒ時代2年目)、このコラールをもとにした同名のコ ラール・カンタータBWV 38《深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる》【深き苦 しみの淵より、われは汝に向かって叫ぶ】を作曲しています。

第1曲には器楽の序奏が置かれ、そこですでに最初の言葉のための音形が先取 りされています。特徴的な5度下降に始まる旋律はもちろん「深さ」を暗示す る音画書法ですが、上述のルター作のコラール旋律も冒頭に5度下降を持って おり(下図)、こじつけるなら、詩編130番を歌詞に用いると決まった瞬間か らバッハの頭の中で繰り返し鳴り響いたであろう5度下降音程をこの序奏のモ チーフにしたと考えられます(歌に入ると4度上昇に転回された音形のほうが 優勢になってしまいますが)。



序奏に引き続いての合唱は深さを暗示する下降音形を基本とする(しかもあえ て瀕死状態のような途切れ途切れの)ゆっくりした部分から、それと対照的な テンポの速い、フーガ的な手法を交えた部分に移りますが、テンポの速い部分 でも神に向かうHerr, höre meine Stimmeは上昇音形が基本、自分自身の 内面に向かうauf die Stimme meines Flehensは下降音形が基本(しかも、広 音域の超下降の約束事として、途中でのシフトダウン=7度上昇を含む)とい うように、言葉の内容に合わせた音画書法が用いられています。

なお、ブライトコプフ社のヴォーカルスコアでは、表題部の表記が古語風の Tiefen、音符に付いた歌詞の表記が現代語風のTiefeとなっていますので検討 を要するところですが、私の手元のルター訳聖書資料では1545年版がTiefen側、 1875年版がTiefe側(語尾変化の仕方がこの間に変わったもので、どちらも出 版時点では正しい)となっているため、BWV 40の場合のような挟みうちで結論 を出すことができません。最終的には本山先生が使われるであろう新全集版の スコアで確定していただくとして、ここではとりあえず、樋口隆一氏(新全集 版のこのカンタータの校訂者)がその著書で表題をAus der Tiefenと再三にわ たり書いていることから、Tiefenを本文として仮採用しておきました。なおな お、歌詞表記のruf / rufeの併用はバッハ自身による音楽的な韻律調整と思わ れます。本文には聖書と一致するrufeを採用しています。





2. Aria (Baß) & Choral (Soprano)

So du willst, Herr, Sünde zurechnen,

Herr, wer wird bestehen?

Erbarm dich mein in solcher Last,

nimm sie aus meinem Herzen,

dieweil du sie gebüßet hast

am Holz mit Todesschmerzen,

Denn bei dir ist die Vergebung,

daß man dich fürchte.

auf daß ich nicht mit großen Weh

in meinen Sunden untergeh

noch ewiglich verzage.

第2曲 アリア(バス)とコラール(ソプラノ)

もしあなたが、主よ、罪を咎めようとなさるなら、

主よ、いったい誰が耐えられるでしょう。

−私をあわれんで下さい、罪の重荷を負う私を、

− この重荷を私の心から取り去って下さい。

−あなたは私の罪を償って下さったのですから、

− 十字架の木の上で、死の痛みに耐えて。

あなたのもとには赦しがあるはずです、

誰もがあなたを畏れ敬うほどの。

−それゆえ私は大きな苦痛を抱えて

− 自分の罪の中に沈み込むことも、

−永遠に絶望したりすることもないのです。

(詩編130番3-4節とコラール詩)



コラール詩の押韻:3 Last−5 hast, 4 Herzen−6 Todesschmerzen, 9 Weh−10 untergeh,(11 verzageは脚韻外)


 コラール詩は、バルトロメウス・リングヴァルトBarthromus Ringwaldt c1532-1600作のコラール「主イエス・キリスト、汝こよな き宝」“Herr, Jesu Christ, du hochstes Gut” 1588全8節 中の第2節。定旋律はDresden Gesangbuch 1593。ただしEK Gには並列してGorlitz 1587という記載(たとえばリピートが ないなど、わずかな違いのある、原旋律と思われます)があります。このコラー ルも1724年作曲の同名のコラール・カンタータBWV113《主イエス・キリスト、 汝こよなき宝》【汝、至高の善なる主イエス・キリスト】となっていますので、 EKGのコピーはそちらを扱う際に。

 第2曲はバスのアリア(あるいはアリオーゾ)が詩編の後続節を歌い、それ に重ねてコラールが歌われます。詩編とコラール詩との重ね方は絶妙で、罪の 赦しの根源は神のあわれみとキリストの十字架にあるという神学的テーマが、 何ら説教めいた押し付けなしに聞き手の耳に届くようになっています。

この曲の中で絶望から希望への転換がなされるわけですが、音楽的には「喜び」 Freudeのモチーフとされるリズム・パターンがすで に第1曲末尾から見えており、そのままこの曲のバスの歌い出しに引き継がれ ています。この曲の後半でそれは16分音符の連続へと変化し(喜びのグレー ドアップ)、第3曲の器楽パートで繰り返されるリズム・パターン(BWV 172でふれた「至福」Seligkeitのモチーフのヴァ リエーション)へと発展します。

3. Coro

Ich harre des Herrn,

meine Seele harret,

und ich hoffe auf sein Wort.

第3曲 合唱

私は主を待ちこがれる、

私の魂は主を待ちこがれ、

 私は主の御言葉に希望を置く。

(詩編130番5節)



 全曲の中央に置かれたこの合唱曲は、短いIch harre des Herrn,(トッカー タ風?)+meine Seele 〜のフーガ+短いコーダという3つの部分からなり、 それ自体もシンメトリーを作っています。長い下降音形が歌われるメランコリッ クなフーガの響きの中で、器楽が至福のモチーフを繰り返すのは、まだ至福が 絵に描いた餅に過ぎないという焦燥感でしょうか。「主の言葉」は第2曲でコ ラール詩と重ね合わされた結果、「御言葉=キリスト」という新約聖書的な意 味も併せ持つことになります。


4. Aria (Tenor) & Choral (Alt)

Meine Seele wartet auf den Herrn,

Und weil ich denn in meinem Sinn,

wie ich zuvor geklaget,

auch ein betrübter Sünder bin,

den sein Gewissen naget,

von einer Morgenwache bis zu der andern.

und wollte gern im Blute dein

Meine Seele wartet auf den Herrn,

von Sunden abgewaschen sein

von einer Morgenwache bis zu der andern.

wie David und Manasse.

第4曲 アリア(テノール)とコラール(アルト)

私の魂は主を待ちわびる、

−なぜなら私はこの心の中では、

− 前からずっと嘆き続けてきたように、

−あわれむべき罪びとのひとりに過ぎず、

− いつも良心にさいなまれているのですから。

夜明けを告げるわずかな光も見逃すまいと、

−だからこそ私は、あなたの血の中で、

私の魂は主を待ちわびる、

−罪から洗い清められたいと願うのです、

夜明けを告げるわずかな光も見逃すまいと、

−ダビデとマナセがそうであったように。

(詩編130番6節とコラール詩)



コラール詩の押韻:2 Sinn−4 bin, 3 geklaget−5 naget, 7 dein−9 sein,(11 Manasseは脚韻外)

 第4曲は再び、詩編を歌うアリアとコラールの組み合わせで、コラール詩は、 第2曲と同じものの第5節、定旋律も同じです。8分の12拍子で、アリア+ コラールというと、ヨハネ受難曲の第32曲(バスのアリアと合唱コラール) が思い出されます。受難曲のほうがむしろ明るく(救いが実現した)、この曲 は暗い(夜明けが来ない)印象を与えるのは、這い上がろうとしては落ち込む バス音形のせいもあるのかもしれません。

 Morgenwache(朝の見張り)は、かつてエルサレムなどで行 われていた、未明から塔の上で東の空を見つめ、少しでも東の空に明るみが差 したら夜明けを告知するという職務です(目覚めよと呼ぶ声が聞こえるのはこ の時です)。この告知を受けて町の門が開かれ、神殿では罪の赦しを求める儀 式のために最初の犠牲の小羊が屠られていました。

 ルター訳のvon einer Morgenwache bis zu der andernは直 訳すれば、ひとつの朝の見張りから他の[朝の見張り]まで、で、「朝から晩 まで」ならぬ「未明から未明まで」、つまり、待てど暮らせど来ない夜明け (=罪の赦しの時)を今か今かと待ち続ける、ということになります。この部 分は旧約聖書の原文(ヘブライ語)では、ほぼ同語句の反復(私的に直訳すれ ば「朝を見張る者以上に朝を見張りながら」とでもなるような)で書かれてお り、現代の大部分の聖書は反復を強調と解釈して、同語句の単純な(あるいは 強調的な)繰り返しで訳しています(新共同訳では「見張りが朝を待つにもま して」の繰り返し。ルター訳の改訂現代語版ではmehr als die Wachter auf den Morgenの繰り返し)。ルターはその同語句の反復を andernでまとめてしまったわけですが、〜から〜まで、という 読み方は、古代のギリシャ語訳(通称七十人訳)とその流れを受けたラテン語 訳(通称ヴルガタ訳)の「朝の見張りから夜まで」という解釈を踏襲したもの です。

 歌詞として並べたとき、詩編の「朝の見張り」は、犠牲の小羊へのリンクを 介して、コラール詩の「あなたの血=キリストの血」に結びついてゆきます。 また、コラール詩の最後で引き合いに出されたダビデとマナセは古代ユダヤ民 族国家の王で、どちらも罪を犯し、神の前に悔い改めて罪の赦しを受けた者で す。ダビデ(前1000〜961イスラエル・ユダ統一王国の王)は家臣の妻に横恋 慕してその家臣を最前線に送って戦死させ、その妻を自分の妻とし、預言者の 叱責を受けて悔い改めています(旧約聖書サムエル記下11〜12章)。その際の 悔い改めの祈りとされているのが、詩編51番で、7つの悔い改めの詩編のひと つです。マナセ(前687〜642ユダ王国の王)のほうは、偶像崇拝(自分だけで なく全国民に強制した)の罪を犯し、バビロン捕囚の憂き目に遭って悔い改め ています(旧約聖書歴代誌下33章)。マナセの悔い改めの祈りは、新共同訳聖 書の旧約聖書続編つき、という版をお持ちの方なら旧約聖書続編の部の381〜 382ページで読むことができます(以前にも書きましたが、バッハ時代の聖書 にはこの続編部も含まれていました)。


5. Coro

Israel, hoffe auf den Herrn;

denn bei dem Herrn ist die Gnade

und viel Erlösung bei ihm.

Und er wird Israel erlösen

aus allen seinen Sünden.

第5曲 合唱

イスラエルよ、主を待ち望め。

主のもとにはあふれるほどの恵みがあり、

 主のもとには豊かな贖(あがな)いがあるのだから。

主はきっとイスラエルを贖い、

 そのすべての罪から救って下さる。

(詩編130番7-8節)


 終曲はまたしても合唱です。Israel, / hoffe auf den Herrn; / denn beidem Herrn ist die Gnade / und viel Erlosung bei ihm.と 小さな部分を順に積み重ね、Und er wird 〜aus allen 〜との二重フーガに移行し、最後にコーダを置くという構成は、 オルガン音楽であればその都度ストップを変え、音色を対比させてゆくところ でしょうから、それと同じ効果が合唱に対して期待されているのだろうと思い ます。二重フーガの一方の主題となっている半音階の上行旋律は、第3曲のフー ガの下降旋律に対する応答であり、着実に救いに近づいてゆく、という結論に ようやく到達したことになります。



 「贖う」と訳される言葉は、本来「買い戻す」という意味で、聖書的文脈で は特に「罪の奴隷状態に置かれた人間を、代価を支払って買い戻し、再び自由 の身とする」という、神の人類救済プロセスです。旧約聖書では、まだ代価が 何であるかは限定されず、気前の良い神様がたっぷりと買い戻し資金を用意し ている(上の2〜3行目)はずだけれど、まだ実現していないという状態です (預言的には新約聖書が先取りされているように読まれますが)。新約聖書に なると限定されて、支払われる代価はキリストの命であり、十字架上の受難と 死によって実現されたことになります。「贖う」は、日本語ではキリスト教関 係専用の用語のようですので、別の分かりやすい訳語があればと思ったのです が、「救う」としてしまうと、「贖う」と「救う」が並列されている時に困る かもしれないと考えて、結局「贖う」を使うことにしました。あしからず。

<付記>

 ミュールハウゼン時代の作曲とされるカンタータ作品(いずれも教会カンター タ)を列挙しておきます。
BWV 4 Christ lag in Todes Banden(復活祭第1日用)
  推定初演:1707年の復活祭(4月24日:着任前の就職試験演奏)、または 翌年の復活祭(4月8日)
BWV 71 Gott ist mein Konig(教会暦外、ミュールハウゼン市参事会員交替式 用)
  初演:1708年2月4日
BWV 106 Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit(教会暦外、葬儀用?)
  推定初演:可能性として1707年8月14日、諸説あるものの、いずれも実証 されず
BWV 131 Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir(教会暦外、悔い改めの礼 拝用?)
  推定初演:1707年、1707/8年であることは確実、日付などは実証されず
BWV 196 Der Herr denket an uns(教会暦外、結婚式用?)
  推定初演:可能性として1708年6月5日、他に説はないものの、実証されず
BWV 150 Nach dir, Herr verlanget mich(用途不明、詩編主体の作品)
  推定初演:1708-10年、あるいは1708年以前、あるいは1706年、いずれも 実証されず

 バッハが勤めたミュールハウゼンの聖ブラジウス教会の牧師フローネ (Johann Adolf Frohne 1652-1713)は、BWV 131の作曲を依頼 した聖マリア教会の牧師アイルマーと異なり、教会音楽に冷淡であった(詳細 は省略)ため、バッハは聖ブラジウス教会ではカンタータの作曲を期待されて いなかったようです。それもあって1年足らずでの離職となったのでしょう。


以上   2001. 09. Koba.



<補遺> 最近出版された本の中にBWV 131の図版が掲載されており、Tiefen / Tiefeの問題があっさりと解決しましたので、もはや演奏会も済んだ「後の 祭」ながら、御報告かたがた本の案内をしておきます。

 本の名前は「バッハ=カンタータの世界T」、副題『教会カンタータ アル ンシュタット〜ケーテン時代』というもので、東京書籍2001年9月4日第 1刷発行(税別 3,800円)。原著はトン・コープマンのバッハ・カンター タ全曲録音に付随して計画された全3巻の(入門的)論文集でクリストフ・ヴォ ルフ / トン・コープマン編。翻訳は礒山雅氏を中心とするグループの分担 (最終的に礒山氏がチェック)で、引き続き第2巻『世俗カンタータ』、第3 巻『ライプツィヒ時代のカンタータ』が翻訳・出版される予定とのことです。

 その本の30ページと190ページと274ページにBWV 131の自筆譜の写 真があり、それぞれ自筆総譜の第1ページ(第1曲冒頭)、第9ページ(第3 曲末尾と第4曲冒頭)、第15(最終)ページ(第5曲末尾)となっています (なぜか第9ページの分だけ、断片、と記載されていますが)。

 右はその図版から第1曲のソプラノとアルトの歌い始めのところを取り出し たものですが、スクリーン(網目)製版されたものですのでアップに耐えない かもしれません。下はタイトル部分で、こちらは読みやすくなっていますので、 両者を併せて読み取ると、歌詞のほうはAus der Tieffen, の ように、タイトルのほうはAus der Tieffen ruffe ich Herr zu dirのように読むことができそうです(ウムラウトでないuには〜を縦 にしたような付加記号が付いています。zu dirのすぐ下は、楽器編成の「2つ のヴィオラ」にあたる部分です)。

 ということで、Tiefen / TiefeはTiefenに軍配が上がることになります。そ れどころか、バッハの自筆を尊重するならTieffen ruffeのように、ほとんど ルター時代と変わらない綴り字を用いることになるわけですす(テキスト解説 の2ページに載せた1545年版参照)。新全集版といえども、そこまでは再 現してくれませんが、発音に影響しない範囲で綴り字を現代化したTiefenを採 用しているはずです。古いものは古いと割り切って、バッハの綴り字をそのま ま活字に直してくれるほうが資料としての価値は高いのですが、実用面を考え るとそうもいかないというあたりが新全集版の限界のようです。

 一方のTiefeはおそらく旧全集版の表記に由来するものです。バッハ作品を 網羅することと普及させることに主眼を置いた旧バッハ全集ではドイツ語歌詞 がすべて現代語(19世紀後半当時の)に書き変えられており(コラール詩な どもバッハ時代と異なるものが載せられていたりします)、旧全集版のライセ ンスのもとにバッハ作品の実用版を出版していた出版社は、新全集版時代にな るとライセンスなしで自社版を新全集版にそって改訂しながら、売り続けてい ますので、改訂作業が不十分だったりする可能性があるわけです。また、ドイ ツ語圏では、新全集版のバッハ当時のドイツ語を正しく歌うと、変な顔をされ る(間違いだと思われて)という事情もあるようですので(片野耕喜氏の論文 から)、出版社によっては、音楽は改訂しても歌詞は現代語のまま押し通す (必要ならタイトルだけ変更)ほうが売れ行きがよいと見込んだ確信犯もある かもしれません。

以上   2001. 10. Koba.







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