「カンタータ第42番」Am Abend aber desselbigen Sabbats
小林 英夫



Am Abend aber desselbigen Sabbats: BWV42 (NBA I/11, p63-106)
カンタータ第42番   《この同じ安息日の夕べ》     【されど同じ安息日の夕べに】
復活祭後第1主日。初演1725年4月8日、ライプツィヒ。40歳。台本作者(詩人)名不詳。

1. Sinfonia

第1曲 シンフォニア



 このカンタータには冒頭合唱がなく、合奏協奏曲(コンチェルト)風のシンフォニアが置かれています。カンタータ全体も器楽パート同士のやりとり、声と楽器のやりとり、声と声のやりとりなど、コンチェルト風の仕立てです。合唱曲はやや長めの終結コラールだけですから、この年3月25日(日)(受胎告知の祝日:BWV 1初演)、3月30日(聖金曜日:ヨハネ受難曲BWV 245改訂再演)、4月1日(復活祭第1日:BWV 249復活祭オラトリオ初演)、4月2日(復活祭第2日:BWV 6初演)、4月3日(復活祭第3日:BWV 4?再演)というハード・スケジュールの中で酷使されてきた合唱メンバーにはしばしの休息となったことでしょう。

2. Recitativo (Tenor)

Am Abend aber desselbigen Sabbats,

da die Jünger versammlet

und die Türen verschlossen waren

aus Furcht für den Jüden,

kam Jesus und trat mitten ein.

第2曲 レチタティーヴォ(テノール)

さて、その同じ安息日(復活の日曜日)の夕暮れに、

 弟子たちが集まっていた。

戸に錠を下ろして

 ユダヤ人たちを恐れていたところへ、

イエスが入ってこられ、彼らの中に立たれた。

(ヨハネ福音書20章19節)



 この日の聖書朗読は、ヨハネ福音書の20章19〜31節です。全体は各自で読んでいただくこととして、カンタータのテーマとしては前のBWV 6に引き続き、最初に夕暮れの不安が提示されています。同じ19節の残りの部分に und spricht zu ihnen: Friede sei mit euch.(そして彼らに言った、あなたたちに平安あれ)があるにもかかわらず、Friede(平安・平和)の言葉が終結コラールまでお預けにされていることからも、イエスの登場で一件落着というような、安直な解決が用意されているのではないことがわかります。

 ヘブライ語に由来するサバトという語は、聖書の文脈の中では週(=日曜日から土曜日まで)またはユダヤ教の安息日=土曜日(天地創造の際に神が7日目に休息したという創世記の記述によってユダヤ教では労働が禁止される)の意味で用いられるのが通例ですが、ルター訳のこの箇所ではキリスト教的な安息日=日曜日として読むことになります。ヨハネ福音書原文のこの章では、第1節:週の最初の日の、以下に、復活の日曜日の朝の出来事が描かれ、この19節:その週(サバト)の同じ最初の日の、以下に、その日の夕方の出来事が描かれるのですが、ルター訳ではここで、最初の日、に相当する言葉を省略しているため、原文では週の意味のサバトを、安息日として読まざるを得なくなるためです。キリスト教徒の習慣の中では日曜日を主日(主であるキリストの復活の記念日)と呼んで安息日とすることが定着していましたから、文脈の中で間違える心配は少ないのですが、19節だけ取り出すと誤解の恐れがあります。なお、1956年改訂の現代語版では、Am Abend aber desselben ersten Tages der Wocheとなって原文に忠実な訳となっています。

 弟子たちがユダヤ人たちを恐れたのは、大罪人イエスの一味として逮捕されるのではないか、あるいはイエスの遺体を盗み出したという嫌疑を受けて危害を加えられるのではないか、という疑心暗鬼にとらわれたためといわれています。この朝の女性たちの大胆な行動(ヨハネ福音書20章の前半部、および、マタイ福音書28章、マルコ福音書16章、ルカ福音書24章の並行箇所)に比べると、男性陣はどうも臆病だったようです。


3. Aria (Alto)

Wo zwei und drei versammlet sind

 in Jesu teurem Namen,

da stellt sich Jesus mitten ein

 und spricht darzu das Amen.

 

Denn was aus Lieb und Not geschicht,

 das bricht des Höchsten Ordnung nicht.

 

Wo zwei und drei.........

第3曲 アリア(アルト)

二人あるいは三人が集まり、

 イエスの尊い名のもとに留まっているなら、

彼らの中にイエスは姿を現わし、

 アーメンという同意の言葉を与えて下さる。

 

愛と苦悩とから生じたことがらが

 いと高き神の摂理を破ることはないのだから。

 

二人あるいは三人が . . .



押韻:2 Namen−4 Amen, 5 geschicht−6 nicht

 この詩の前3行はマタイ福音書18章20節のイエス自身の言葉「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのだから」 Denn wo zween oder drei versamlet sind in meinem Namen, da bin ich mitten unter ihnen.を韻律詩に展開したものです。後3行も逐語的ではありませんが、同19節の「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの二人が地上で心を合わせて願い求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる」に対応しています。

 この詩がカンタータの文脈の中に置かれることによって、閉じこもっていた弟子たちの不安にもイエスの理解と同意が与えられたことになります。前の第2曲の聖書の言葉や、この曲自身の歌詞を描写するかのように、合奏の中からアルトのメッセージが浮かび上がってきます。



4. Choral-Duetto (Soprano & Tenore)

Verzage nicht, o Häuflein klein,

obgleich die Feinde willens sein,

 dich gänzlich zu verstören,

und suchen deinen Untergang,

davon dir wird recht angst und bang,

 es wird nicht lange währen.

第4曲 二重唱(ソプラノとテノール:コラール詩)

ひるむな、おお、小さな群れよ、

確かに、敵の狙いは

 あなたがたの心を乱すことにあり、

あなたがたを自滅させるために

不安と心配とに落ち込ませることにあるけれど、

 それは決して長続きしないのだから。



押韻:1 klein−2 sein, 3 verstören−6 währen, 4 Untergang−5 bang

 第4曲はコラール詩(ヤーコプ・ファブリツィウス Jakob Fabricius 1593-1654 作の同名のコラール1632全3節中の第1節)を歌詞とするものではありますが、会衆に馴染みのある定旋律は用いられず、二重唱アリアのように書かれています。定旋律の不使用は、この詩の役割がこの時点での会衆のカンタータへの参加にではなく、複数の説教者(あるいはイエスと、彼の出現に力を得た弟子たち)によるメッセージの発信にあるためです。馴染みのある定旋律が聞こえてくれば、会衆は実際に声に出さなくとも、条件反射的に各自の頭の中で歌い始め、その結果、メッセージを聴き取る力が弱まる可能性があるということで、バッハはあえて定旋律を用いず、会衆の耳に集中力を要求しているものと思われます。

 歌詞の意図するところは不安の除去ではなく、不安の容認にあるようです。生身のイエスに接することのできない信徒たちに不安があるのは当然であり、そんなことはすでに神の摂理の中に織り込み済みだから、不安に駆られてイエスから離れてしまうなどの自滅行為に走らないように、という当座の心構えが示されています。こうすれば不安から抜け出せるという解決策を提示するのでもなく、不安を強い信仰ではね返せというような頭ごなしの説教でもありません。復活の日にすでに弟子たちが不安に襲われていたように、現世に生きる信徒たちは常に不安にさらされています。その不安と付き合いながら、やがてやってくるイエスの出現に備えるように、という一見消極的な、しかし粘り強さの要求されるメッセージが込められています。



5. Recitativo (Basso)

Man kann hiervon ein schön Exempel sehen

 an dem, was zu Jerusalem geschehen;

denn, da die Jünger sich versammlet hatten

 in finstern Schatten

 aus Furcht fur denen Jüden,

so trat mein Heiland mitten ein,

zum Zeugnis,

 daß er seiner Kirche Schutz will sein.

Drum laßt die Feinde wüten!

第5曲 レチタティーヴォ(バス)

今の私たちにもよくわかる実例が、

 かつて、エルサレムで起こっていたのです。

つまり、その時弟子たちが集まっていたのは

 暗い物陰の中であり、

 それは、ユダヤ人たちへの恐れのためでした。

しかし、救い主はその中に現れることによって、

証明して下さったのです、

 主はどんな時もその教会の保護者であると。

敵には勝手に吠えさせておけばよいのです。



押韻:1 sehen−2 geschehen, 3 hatten−4 Schatten, 5 Jüden−9 wüten, 6 ein−8 sein

 第2曲で引用された聖書の記述が、バッハ当時の現代にも通用する前例となっているという主旨の説教で、これがこのカンタータの本当の主題であり、当時の会衆たちへの謎解きにもなっている部分なのですが、たぶん現代の日本では読み取りにくい内容でもあります。キリスト教徒は何らかの不安があっても、孤立しないで教会に行けば(みんなでいれば怖くない)、きっとキリストがなんとかしてくれる、という気休めではありませんし、キリスト教徒は聖書と現代(あるいは自分自身)とを対照させながら生きるものだという処世訓でもありません。

 聖書に書かれた弟子たちは自分自身がユダヤ人であるにもかかわらず、他のユダヤ人たちを恐れていました。それはキリストの弟子となったことによって、他のユダヤ人とは異なる存在(キリスト教徒)となり、そのために、他のユダヤ人(ユダヤ教徒)から常に非難と攻撃を受ける立場に置かれたからです。この詩はその弟子たちのところにプロテスタント教会を、他のユダヤ人たちのところにカトリック教会を重ね合わせて読むように作られています。この日の礼拝に来たライプツィヒの人々には即座にわかったはずですし、まるで捨て台詞のように、敵(カトリック教会)には言いたいだけ言わせておけ、という言葉が繰り返されるのを聞いて、拍手喝采したかもしれません。暗い物陰、という表現も、イタリアのような太陽の恵み豊かな土地に対する、森に覆われた日陰の土地(ドイツ)を指しているように思われます。

 当時の国際関係はカトリック対プロテスタントという図式で動いていたのではありませんし、ドイツの中でプロテスタント諸邦とカトリック諸邦が敵対していたということでもないのですが、ルターの宗教改革から200年を経てもなお、相互の口撃は止まず、双方とも夕暮れの不安の時代の中にいたわけです。

6. Aria (Basso)

Jesus ist ein Schild der Seinen,

 wenn sie die Verfolgung trifft.

Ihnen muß die Sonne scheinen

 mit der güldnen Überschrift:

 

Jesus ist . . .

第6曲 アリア(バス)

イエスは信徒たちの盾となって、

 迫害の嵐を身をもって防いで下さる。

信徒たちを照らす太陽には、

 黄金色に輝く銘が掲げられている。

 

イエスは信徒たちの盾 . . .



 押韻 : 1 Seinen−3 scheinen, 2 trifft−4 Überschrift

 太陽としてのイエスの強調は光と闇の対比というパターン化された表現であるとともに、自然の太陽に恵まれないドイツにもイエスという太陽が輝いているぞ、という自負心の表現でもあるでしょう。

 銘と訳した Überschrift は、キリストが十字架に付けられた際の罪状書きとしても用いられている語で、ここではそれが輝いて現れ、キリストの復活を象徴しています。Jesus ist . . . 以下の繰り返しは、その銘の内容としてリピートされているわけです。

7. Choral

Verleih uns Frieden gnädiglich,

 Herr Gott, zu unsern Zeiten,

es ist doch ja kein ander nicht,

 der für uns könnte streiten,

denn du, unser Gott, alleine.

 

Gib unsern Fürsten und aller Obrigkeit

 Fried und gut Regiment,

daß wir unter ihnen

 ein geruhig und stilles Leben führen mögen

in aller Gottseligkeit

 und Ehrbarkeit.

Amen.

第7曲 コラール(合唱)

慈しみ深く、私たちに平安をお与え下さい、

 主なる神よ、今の時代を生きる私たちに。

もはや他の誰もあてにはできません、

 私たちのために戦って下さる方は、

私たちの神よ、あなたしかいないのです。

 

私たちの君主たちと公務を担うすべての者たちに

 平和と善政との道を示して下さい。

私たちがその下にあって

 安らかで静かな生活を送り、

神のもとにある幸福と

 誇りとをもって暮らすことができますように。

アーメン。



押韻:(2 Zeiten−4 streiten, 6 Obrigkeit−11 Ehrbarkeit)

 詩は前半がラテン語聖歌(祈N文:平和を求める祈り)“Da pacem, Domine” のマルティン・ルターによるドイツ語訳 1529 。後半がヨハン・ヴァルターJohann Walter 1496-1570 による付加(新約聖書テモテへの第1の手紙2章2節に基づく為政者のための祈り)1566。定旋律も、前半はアンブロジウス作として知られるラテン語賛歌(グレゴリオ聖歌)「来たれ、諸民族の救い主よ」 “Veni redemptor gentium” に当てられた旋律をルター自身が手直ししたとされるもの、後半がヨハン・ヴァルターによる付加。

 コラール原旋律はBWV 6の解説の末尾に付けたコピーを御覧いただくことにして、詩のほうは、前半のルターのものが、ほぼ強弱の規則的な交替に基づくドイツ語的な韻文、後半のヴァルターのものが、聖書からの引き写しの多い不規則な散文となっています。宗教改革初期の激動の時代を反映する詩であり、後半には多数の領邦国家群であったドイツの、領主の信仰(ライプツィヒなどの自由都市では市参事会の選択:カトリックかプロテスタントかだけでなく、ルター派かカルヴァン派かなどの選択も)によって領土内で許される信仰が決定するという、バッハ時代にも通用する、個人の信仰のあやうさが垣間見えています。


<付記>
 復活祭からの7週間が復活節という期間で、当時のライプツィヒでは3日連続(日、月、火)の復活祭から、復活祭後の第1〜第6の主日(日曜日)、それに第5主日からの週の木曜日(復活祭当日から40日目)の昇天祭にカンタータが演奏されていました(復活節後には再び3日連続の聖霊降臨祭があります)。

 当時は復活節中の主日の通称として、主に宗教改革前のラテン語典礼時代の入祭唱の歌い出しを用いていたため、新バッハ全集版では表題前にKantate zum Sonntag Quasimodogeniti のように、このカンタータの演奏されるべき日が指定されています。このラテン語を翻訳しても無意味ですので、日本では第何主日のように数で表示されるわけですが、その際、復活節後(杉山好氏など)とするのは間違いであり、復活祭後(樋口隆一氏など)とするのが正確な表記となります。以下、復活節中の主日名を対照しておきます。
Sonntag Quasimodogeniti 復活祭後第1主日
Sonntag Misericordias Domini   復活祭後第2主日
Sonntag Jubilate 復活祭後第3主日
Sonntag Cantate 復活祭後第4主日
Sonntag Rogate 復活祭後第5主日
Sonntag Exaudi 復活祭後第6主日

 他にも、四旬節前後などに同様のラテン語名が用いられていますが、それらはまた出てきた機会に。

2001. 02. Koba.







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