「カンタータ第6番」Bleib bei uns, denn es will abend werden
小林 英夫



Bleib bei uns, denn es will Abend werden: BWV 6 (NBA I/10, p45-68)
カンタータ第6番   《われらと共に留まりたまえ》     【われらのもとに留まりたまえ、はや夕べとなれば】
復活祭第2日。初演1725年4月2日、ライプツィヒ。40歳

1. Coro

Bleib bei uns,

denn es will Abend werden,

 und der Tag hat sich geneiget.

第1曲 合唱

どうか私たちのところに留まって下さい、

もう夕暮れが迫っておりますし、

 太陽も傾いてきましたので。

(ルカ福音書24章29節)



 復活祭はバッハ当時のライプツィヒでは3日連続の祝日で、それぞれの日にカンタータが上演されていました。この1725年には、復活祭第1日(4月1日日曜日)に復活祭オラトリオBWV 249初期稿の初演、第2日(4月2日月曜日)にこのBWV 6の初演がなされています。第3日(4月3日火曜日)に演奏されたカンタータは不明で、おそらく旧作の再演(例えば、《キリストは死の縄目につながれたり》【キリストは死の絆につきたまえり】 Christ lag in Todes Banden BWV 4 )であっただろうと推測されています。

 復活祭第2日の聖書朗読箇所はルカ福音書24章13〜35節で、かなりの長さがありますので、全体は各自で読んでいただくことにして、簡単に見ておくと、キリストが復活したとされる日曜日、二人の弟子がエルサレムから2時間ほどの距離1)にあるエマオという名の村2)に向かっています。キリストの復活について半信半疑の二人が議論をしながら歩いていると、話に割り込んできた男があります。始めは何も知らないかのように見えたこの男が、話してみるとなかなかの物知りで、二人の疑問を解き明かしてしまいます。目的の村に着いた二人はもっと先へ行こうとする男を強いて引き留めて、彼らの宿に連れて行きます。食事のときにその男がパンを割いて与えると(最後の晩餐の再現)、二人にもその男が実はイエス・キリストその人だったと分かりますが、そう気づいた途端にキリストの姿は見えなくなります。二人は急いでエルサレムに戻り、他の弟子たちに合流し、事の次第を話します。

1)聖書の記述の60スタディオンを単純計算すると11.1kmで、平地での男の並足は時速6kmとされていますので、2時間ほど。
2)エマオが、実際にどこにあったかについては諸説あって、聖書関係の地図を見ても位置がまちまちです。とりあえず、距離に見合っていそうな地図をコピーしておきます。(エマオ=Emmaus)


 おそらくこの二人の弟子はこの村の住人ではなく、過越しの祭りのために地方から上ってきて、エルサレム市内に宿が取れずに、近郊の村に宿を取ってエルサレムまで往復していたものでしょう(兄弟で同じ家で暮らしていたという可能性もありますが)。この日も朝からエルサレムに行って弟子たちの集まりに参加していたものの、墓に葬ったはずのキリストの遺体が消えるという事態になって、集会がてんやわんやの流会状態になったため、いたしかたなく宿へ戻るところだったと想像されます。

 いかに近郊とはいえ、夜道は物騒だったでしょうから、二人がイエスを引き留めた時、実際は日暮れまでまだ余裕があったはずです。イエスはもっと先へ行こうとしていましたし、二人はその日の内にエルサレムまでとんぼ返りしているのですから。(新共同訳聖書の巻末の地図6ではエマオまで2倍程度の距離になりますので、とんぼ返りは困難ですが、この際ですので、その地図のエマオとこの聖書箇所のエマオとは違う場所だ、ということにしておきます)。

 で、ようやくカンタータに戻ると、この聖書朗読の中から選ばれた冒頭合唱の歌詞は復活論争に関わるものではありません。ひたすら、イエスを引き留めようとする願いです。なぜ、イエスを引き留めておこうとするか、というと、太陽が沈むと夜になってしまうからです。まるで禪問答のようですが、 denn 以下に同じことの反復のように書かれた引き留めの理由は、現代人が受け止めている当たり前の自然現象ではなく、太陽(=キリスト)が見えなくなれば、闇(=罪)に支配されてしまうという信仰上の危機感なのです。それくらい復活したキリストは、生身の時より見えにくいわけで、星の王子様なら目ではなく心で見なければいけない、と言うところでしょうし、説教風に言うなら、肉の目ではなく霊の目で見なければならない、ということになります。

 しかし、このカンタータでは、バッハは(あるいは氏名不詳の詩人は)あまり説教をするつもりはないようで、ひたすら祈りを積み重ねて、神に迫ろうという姿勢を感じさせるテキストの構成です。前日の華やかな復活祭オラトリオから手のひらを返すように、祝祭的な雰囲気のないカンタータを持ってきた理由を、第2日だからというワンパターンで説明するわけにはいきません。テキストの内容は決してキリスト復活の意味について説教するという方向で書かれているのではないからです。

 冒頭合唱がフーガに転じた時、細かい音符の重なりの中から、長く尾を引く Bleib bei uns が聞こえてきます。そして同じ音形が楽器だけで奏されると、バッハの音楽では楽器も言葉を話すのだということがよく分かります。すがりつくような、などという演歌調の形容詞を使ってはいけないのかもしれませんが、必死に引き留めている様子が目に見えるようです。

2. Aria (Alto)

Hochgelobter Gottessohn,

 laß es dir nicht sein entgegen,

daß wir itzt vor deinen Thron

 eine Bitte niederlegen:

Bleib, ach bleibe unser Licht,

 weil die Finsternis einbricht.

第2曲 アリア(アルト)

いと高き祝福された神の御子よ、

 どうか拒まないで下さい、

私たちが今、あなたの玉座の前に

 差し出そうとしているたったひとつの願いを。

ここに、ああ、私たちの光として留まって下さい、

 暗闇が迫ってきましたから。


押韻:1 Gottessohn−3 Thron, 2 entgegen−4 niederlegen, 5 Licht−6 einbricht

 冒頭合唱とほとんど同じ内容が、現在の信徒の立場から玉座のキリストに向けての祈りとして表明されています。太陽は光に凝縮し、夕暮れは闇となって危機感を増しています。光と闇の対比は旧約聖書創世記の第1章から描かれており、神の「光あれ」という最初の言葉によって、混沌の世界に秩序がもたらされたことになっています。夕暮れならまだ少しの光が残っていますが、闇となったら絶望状態です。

3. Choral (Soprano)

Ach bleib bei uns,

 Herr Jesu Christ,

 weil es nun Abend worden ist,

dein göttlich Wort, das helle Licht,

 laß ja bei uns ausloschen nicht.

In dieser letzt'n betrübten Zeit

 verleih uns, Herr, Beständigkeit,

daß wir dein Wort und Sacrament

 rein b'halten bis an unser End.

第3曲 コラール(ソプラノ)

ああ、私たちのもとに留まって下さい、

 主イエス・キリストよ、

 もはや日は暮れてしまいました。

どうかあなたの聖なる御言葉が澄んだ光となり、

 消えることなく私たちとともにありますように。

こうして世の終わりの悲しみの時を生きている

 私たちに、主よ、耐え忍ぶ力を授けて下さい。

どうか私たちがあなたの言葉と愛の模範とを

 最後まで清く保ち続けることができますように。



押韻:2 Christ−3 ist, 4 Licht−5 nicht, 6 Zeit−7 Beständigkeit, 8 Sacrament−9 End

 このコラールの来歴はややこしく、しかも不明な点も少なくありませんが、一応書き出しておきます。

 詩の第1節はフィリップ・メランヒトン Philipp Melanchthon 1497-1560 作のラテン語賛歌「時は夕暮れに及びたれば」 “Veapera iam venit” 1551 の、訳者不詳のドイツ語訳 “Ach bleib bei uns, Herr Jesu Christ” 1579 の第1節。第2節はニコラウス・ゼルネッカー Nikolaus Selnecker 1528-92 作のコラール「この末なる悩みの時に」“In dieser letzt’n betrubten Zeit” 1572 全8節中の第1節です。EKG(エーカーゲー:正式名称はBWV91の解説参照)も “Ach bleib bei uns, Herr Jesu Christ” として全9節(つまりメランヒトンからの1節+ゼルネッカーの8節)を歌詞に掲げていますので、この歌詞の合成はバッハの手によるものではなく、以前からの習慣であったものと思われます。(ゼルネッカーは作曲もする人物ですので、“In dieser letzt’n betrubten Zeit” には独自の旋律があったものと思われますが、EKG所載の旋律は韻律の合う他の曲からの借用です。メランヒトンには初期プロテスタント教会のために書かれたラテン語の詩がいくつか残っていますが、いずれも既存の旋律を借用して歌うように韻律を合わせたもののようです)。

 定旋律は古い降誕節ラテン語賛歌「みどりごわれらのために生まれ」“Parvulus nobis nascitur” のもので、印刷出版されたものとしてはゼートゥス・カルヴィジウス Sethus Calvisius 1556-1615 編のラテン語讃美歌集 Hymni Sacri 1594 に初出します。その歌詞のドイツ語訳(訳者不詳)はそれより早く「われらの御子はきょう生まれたまえり」“Uns ist ein Kindlein heut geborn” 1579 として出版されています(旧バッハ全集版系資料によればルーカス・ロッシウス Lukas Lossius 1508-1582 編の讃美歌集 Psalmodia 所収。なお、ラテン語からのドイツ語訳であることと、出版年次からすると、上の “Ach bleib bei uns, Herr Jesu Christ” 1579 も同じ歌集に収められていたという可能性がありますが、確認は取れていません)。バッハは4声コラール編曲として、この “Uns ist ein Kindlein heut geborn” を残しており(BWV 414)、それによれば原旋律が前半を繰り返すAAB形式(8音節の6行詩用)であったことがわかります。この旋律を繰り返しのないAB形式(8音節の4行詩用)にして、“Ach bleib bei uns, Herr Jesu Christ” の歌詞と組み合わせたのは、おそらくバッハ自身であると考えられますが、これも確認は取れていません。

 第1節が冒頭合唱と同じ聖書箇所を下敷きにしていることは、ラテン語の初行だけでは不明瞭ですが、ドイツ語訳されたことによって明瞭になっています。言葉と光を並列するのは、前掲の創世記第1章であるとともに、ヨハネ福音書第1章の「初めに言葉があった」以下の、言葉〜神〜命〜光の連鎖の一部です。光が消えるということは、この連鎖のすべてが失われることになるわけです。

 第2節はマタイ福音書24章3〜14節など、キリスト自身による終末預言「多くの者がキリストに逆らい、キリストから離反してゆくが、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」を踏まえた表現で、第1節とは、世界の夕暮れ=世の終わり、という関係で結びついています。 Sacrament という語は秘跡(あるいは秘蹟)などと訳される、キリスト教徒が生きてゆくための基盤のようなもので、プロテスタント教会では洗礼と聖餐を意味しますが、ここではその内容が主題ではありませんので、棚上げにしておきます。


4. Recitativo (Basso)

Es hat die Dunkelheit

 an vielen Orten überhand genommen.

Woher ist aber dieses kommen?

Bloß daher,

 weil sowohl die Kleinen als die Großen

nicht in Gerechtigkeit

 vor dir, o Gott, gewandelt

und wider ihre Christenpflicht gehandelt.

Drum hast du auch

 den Leuchter umgestoßen.

第4曲 レチタティーヴォ(バス)

重苦しい暗黒が

 いたる所にのしかかってきた。

いったいどこからこんなものが湧いてきたのか。

それはただ、

 子供から大人まで誰もかもが、

正義をわきまえて

 神であるあなたの前を歩もうとせず、

キリストの示した愛の模範に従わないためなのだ。

それゆえ、あなたもまた

 彼らを照らす燭台を取りのけてしまった。



押韻:2 genommen−3 kommen, 5 Großen−10 umgestoßen, 7 gewandelt−8 gehandelt

 第4曲はこのカンタータの中で唯一の、理屈っぽい、解説的な詩になっています。闇の原因は神の正義(=キリストの示した神の愛)から離反した人間の行いにある、だから神も燭台(光)を取りのけてしまう、というのはヨハネ黙示録2章4〜5節を踏まえた表現ですが、この詩の主眼は黙示録にあるのではなく、読む者(聴く者)に、キリスト受難のクライマックス場面(地上が暗闇となって十字架上でイエスが息を引き取る:マタイ福音書27章45節以下、マルコ福音書15章33節以下、ルカ福音書23章26節以下、ヨハネ福音書には暗闇の記述はない)を連想させることにあります。つい先日済んだばかりのキリストの死を、復活祭の第2日に思い出させるというのもバッハならではの仕掛けです。そう思ってみると、第1曲冒頭合唱のフーガ前の重厚な3拍子(サラバンド風でしょうか)も、マタイ・ヨハネ両受難曲の末尾(近く)に置かれた哀悼の大合唱曲と共通した雰囲気を持っているように聞こえてきます。

 Dunkelheit は闇の同義語で、ニュアンスとしてはどんよりとした暗さ、第2曲に出てきたFinsternis (漆黒の闇)とはしばしば対句表現の中で並べられる言葉です。

 Christenpflicht は直訳すればキリスト教徒としての責務ですが、それは何なんだ、と問い詰められても困りますので、前掲ヨハネ黙示録2章4節から「愛」を借りて訳しています。

5. Aria (Tenore)

Jesu, laß uns auf dich sehen,

daß wir nicht

 auf den Sündenwegen gehen.

Laß das Licht

 deines Worts uns helle scheinen

und dich jederzeit treu meinen.

第5曲 アリア(テノール)

イエスよ、あなたに目を向けさせて下さい、

そうすれば私たちは

 罪びとの道を歩まずに生きてゆけるでしょう。

光となった

 あなたの言葉が私たちの上に明るく輝くなら、

いつもあなたを心から信じてゆけるでしょう。



押韻:1 sehen−3 gehen, 2 nicht−4 Licht, 5 scheinen−6 meinen

  交叉する右上がりの2音と右下がりの2音が次々に(あるいは異なる声部で同時に)聞こえてくるように配置するのは、ものの本によれば×型の、最も単純な十字架の音形なのだそうです。(他にも+型とかZ型とかがあるらしい)。従って、この第5曲は前の第4曲に引き続いてのミニ受難曲ということになりますが、詩は再び祈りとなり、しかも希望が見えてきています。人間の心の闇を払いのけ、希望で満たすには、やはりキリストの十字架を仰ぎ見るのが一番の特効薬とでも言うかのように、信徒の中で光=キリストが復活し始め、同時に信徒自身も復活し始めています。

6. Choral

Beweis dein Macht, Herr Jesu Christ,

 der du Herr aller Herren bist;

beschirm dein arme Christenheit,

 daß sie dich lob’ in Ewigkeit.

第6曲 コラール(合唱)

あなたの力を現して下さい、主イエス・キリストよ、

 あなたこそすべての主に勝る真実の主であると。

あなたに従う弱いキリスト者たちの信仰を保護し、

 永遠にあなたを賛美させて下さい。



 押韻:1 Christ−2 bist, 3 Christenheit−4 Ewigkeit

 詩はマルティン・ルター Martin Luther 1483-1546 作のコラール「主よ、われらを汝の御言葉のもとに留めたまえ」 “Erhalt uns, Herr, bei deinem Wort” 1542 全3節中の第2節。定旋律はアンブロジウス作として知られるラテン語賛歌(グレゴリオ聖歌)「来たれ、諸民族の救い主よ」 “Veni redemptor gentium” に当てられた旋律をルター自身が手直ししたとされるもの(1543年)で、1524年の「いざ来ませ、異邦人*)の救い主よ」 “Nun komm, der Heiden Heiland”(待降節の定番コラールでバッハによっても繰り返し扱われています)、1529年の「恵みもてわれらに平和を賜らんことを」 “Verleih uns Frieden gnadiglich”(今回一緒に演奏される予定のBWV 42で終結コラールとして扱われています)の旋律と兄弟関係にあるものです。

*)私見ですが、バッハ関係の日本語資料が Heiden を異邦人あるいは異教徒と訳しているもののうちの相当数は、諸民族あるいは諸国民(現代語の辞書の訳語にはありませんが、聖書中にしばしば見られます)とすべきものと考えます。

 終結コラールは、三位一体の神に1節ずつの祈りを捧げる3節構成のコラール詩の、キリストに向けられた部分です。 Herr aller Herren はメサイアでもお馴染みのヨハネ黙示録19章16節などに見える「主の主」で、他の主と呼ばれる者たちを下僕扱いにしてしまうほどの、桁外れの最高位にある主という意味。このカンタータの文脈の中では、信徒の心に生じた闇(罪)がどれほど大きく、たとえ絶望状態と思えるほどであっても、キリストの光は闇を圧倒する明るさと輝きを持っているということになります。

 闇に襲われて、その中で手探り、足探りしている間は見えない光が、絶望して(肉の目で光を探すことをやめて)十字架のキリストを見上げる(霊の目を開く)と明るく輝いて見えてくる、しかし現世にある人間の弱さで、どうしても肉の目に頼って生きようとする、だから神の加護を必要としているといったところでしょうか。

 夕暮れが迫る中でキリストを引き留めようとする聖書箇所の引用で始まったカンタータは、キリストが留まってくれてめでたしめでたし、という祝祭的な方向へではなく、意外にもキリストの受難を再現するという方向へ発展してゆきます。闇の中でのキリストの死は信徒自身の肉の体への絶望であり、そこを通らなければ、キリストの復活も信徒自身の霊の体への復活もない、ということを、聞き終わった者の心に気付かせようとする配慮がなされているように感じられます。教えてやるという説教調がない分だけ、聴く側に多くのものが要求されているカンタータです。

 もし、お手元に聖書があったら、もう一度、この日の朗読箇所を読み返して下さい。このカンタータの隠しテーマ、「キリストは苦しみを受けて、栄光に入る」(26節)がおそらく目に留まるだろうと思います。

 冒頭合唱の切実な引き留めの繰り返しを見た時、バッハ自身の、人生の半ばを過ぎた、という思いが込められているのではないか(当時40歳)という印象を受けました。第2曲で夕暮れが暗闇になって、ひょっとしてバッハの眼に病気の兆候が出たのではないか(バッハは65歳で眼疾の手術の失敗の繰り返しがもとで死亡したとされる)とも思いました。が、そんな余計なことは考えなくてもよさそうです。

2001. 02. Koba.




見開きの片面を白紙にするのはもったいないので、コラール旋律関連のコピーを貼り付けておきます。

 グレゴリオ聖歌:Veni redemptor gentium



 EKG:Erhalt uns, Herr, bei deinem Wort(BWV 6-6)


 EKG:Verleih uns Frieden gnädiglich(BWV 42-7)







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