"Have a (not so) Very Merry X'mas"
亀田 寛



クリスマスというと、路上でのケーキ売りと、尖った防止をかぶった酔っぱらいサラリーマンしか知らなかった私が、アメリカに渡って初めて経験したクリスマスは、まさに驚きの連続でした。

11月25日の感謝祭を過ぎると、街はクリスマスの飾り付け一色になり、家々の外壁はイルミネーションで飾られてゆきます。百貨店やショッピングモールでは、大きなクリスマスツリーの点灯式が毎週末行われて、繁華街ではクリスマスキャロルが鳴り響き、テレビでは、クリスマスプレゼントのコマーシャルがはじまって、あらゆる番組がクリスマスカラーの赤と緑におおわれ出します。ほとんどの人はクリスマスの前の週末から休暇をとるので、会社はお休み。全米中に散らばっていた家族がクリスマスを目指して集まるので、25日が近付くと飛行機はほぼどの便も満席状態になります。クリスマスまでの1ヶ月間で、いつもとは違う興奮状態が徐々に高まってゆき、街は、何かしらうきうきするような、独特の雰囲気に包まれて行きます。そしてその興奮が頂点に達したクリスマスの日、街は突然静寂に包まれます。人々は外に出歩くこともせず、家族とともに一日を過ごし、普段はロックばかりかけているラジオ局も、この日はずっとクリスマスソングをかけて、それまでの興奮が嘘のように、街は静まり返ります。でも、その静けさは決して寂しいものではなく、落ち着いた明るい感じの静けさなのです。

日本のクリスマスとの余りの違いに、最初のうちはとまどっていた私も、年を重ねる内にいつしかアメリカ流のクリスマスを当たり前のように過ごすようになりましたが、日本の元旦の静けさとはまた違ったあのクリスマスの日の静けさは、いったいどこから来るのだろうかと、ずっと疑問に思っていたものでした。



その答えが見つかったのは、実は今年(1999年)の「ヨハネ受難曲」に取り組んでいる時です。「人々を救うために、あえて十字架につけられる道を選んだイエス。その行動を見て、我々はどうするのか」というのがバッハの受難曲の大きなテーマですが、イエスの誕生は、常にその受難と一対になったものであり、我々は、その誕生について考える時、同時に、彼が十字架につけられたことと、その目的を考えざるを得ない。そして、誕生のお祝いは、同時に、彼の死によって救われた我々自身と向き合う機会になるのではないか。クリスマスは単なるセレブレーションではなくて、同時に自分を見つめなおす内省的な時期になり、アメリカでのクリスマスの日のあの静けさは、そのあらわれなのかなぁ、と考えるようになりました。

今回のクリスマスコンサートでとりあげるレスピーギの曲にしてもサン・サーンスの曲にしても、手放しの祝福というよりは、その後の出来事を暗示させる影のようなものが感じられるように思います。特にレスピーギの曲では、イエスの誕生を告げる天使にしても、イエスの母マリアにしても、あるいは祝福に訪れる羊飼い達にしても、後にイエスの身におこる事を、その誕生の瞬間に無意識の内に感じていたのではないかと思えるような、喜びと悲しみがないまぜになった、一種物悲しい旋律で表現されているように感じます。私も、私なりに彼の生きざまを感じ考えながら、今回の演奏会を迎えたいと思っています。

(1999年12月23日 書き下ろし寄稿)




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