偽らざる想い
特に他意はないのだ。他意はないのだが… …私はどうも彼女が苦手らしい。 渡り廊下から鍛練場の辺りを見下ろすと外で兵卒達に稽古を付けているが 目に入ってくる。優美だが、鋭さも含むその槍さばきに目を奪われながら ため息をついた。 決して、彼女に嫌な思いをさせられた訳ではない。 だが…彼女と話していると…落ち着きが無くなるのだ。更に、何を 話していいのかわからなくなり、言葉を失ってしまう。 その槍術もさることながら、巧みな戦術も身に付けている彼女はまさに 才色兼備だった。当然そんな彼女に淡い気持ちを抱いている兵たちは 少なくない。凛とした美しさは軍師諸葛亮の妻、月英にも似た雰囲気を 持っている。 そんな事を考えながらため息をつくと稽古をつけている筈のと視線が ぶつかった。柔らかく微笑む彼女になんと返していいものか解らず、顔を 背けると足早にその場を去る。 ああ、まただ。 きっと殿は不愉快に思った事だろう。 眉を顰めながら歩き、着いた所は愛馬の元だった。何処か不安そうに見つめる その瞳に苦笑すると背に跨がる。 「お前にまで心配されてしまったな…気晴らしに付きあってくれるか?」 街を抜け、人が少なくなると徐々に走らせる速度を上げていく。風と緑の匂いが なんとも気持ち良い。だが、その心地よさも一時のものですぐに先程の記憶が 蘇った。愛馬と共に風になっている間も気分は浮かない──こんな事は初めてである。 自分を過信している訳ではないが、そこそこ人と付き合う事には慣れていた筈だ。 例えそれが女性であっても、自分なりに誠意を持って付きあって来たと思う。 だけど、だけは他の人に接しているようには出来なかった。 ──自分が自分でないような感覚に陥る。 何故、彼女だけ違うのか。考えれば考えるほど、答えから遠のいているように思えた…。 ふと開けた草原に手綱を引くと走る速度を落とす。ゆっくりと馬の足をすすめると 小さな水音が聞こえてくる。草原の中に流れる小さな清流。愛馬から降りると、 その水を飲む事が出来るように歩かせる。美味しそうに飲む愛馬に微笑むとその場に 腰を下ろし、自らも水をすくうと口に含んだ。冷たく、でも柔らかい味わいに 大きく息を吐き出すと空を見上げる。雲一つない青空はただ自分を見下ろすばかりだ。 そもそも、何故だけが自分にとって他の人々と違う存在なのだろうか。 彼女は自分と同じく五虎大将である馬超の一族に仕えている。幼い頃からの 付きあいらしく、側仕えとしての将というよりは兄と妹の様な関係にも見えた。 その兄妹の関係も時として姉弟の様な関係にも変わるが…ともかく彼女は 端から見れば、馬超の家族のような存在と言っても過言ではない。 自分と馬超、また姜維らは同じ得物を携える者同士として、他の者に比べると 一緒にいる時間も多い。すると馬超と共にあるが混ざる機会も少なくない。 幼い頃からの付きあいである馬超は彼女が共にある事に何も疑問を抱く筈がない。 人好きのする笑顔で普段と何ら変わらぬ姜維もまたがいる事に疑問を抱いて いるようには見えない。そんな二人に比べると自分は彼女に随分と失礼な態度を とっていないだろうか。 大きくため息を零すと青空を見上げる。考えても、やはり答えは出ない。 ただ解るのはは他の誰とも違う存在なのだという事だけだ。 「こんな所に居たのか」 突然後ろからかけられた声に驚き振り返るとそこには愛馬に跨がる馬超がいた。 「…何か用が?」 「いや、俺はないな」 「?」 その言葉に首を傾げていると馬超は口の端を上げ、何かを楽しむような表情のまま 鼻先で笑う。 「まぁ、いいだろう。こんな所に何か用があるのか?」 「…何が言いたい」 他人の様子を悟るのが上手いとは言えない自分だが、相手が馬超であれば 何かを探ろうとしているという事くらいは分かる。ただ、この様な態度を取る 馬超は珍しい。余程親しい相手でも他人に干渉することは少ないからだ。 「俺の質問に答えてからだ」 「…気分転換だ」 いつもと違った馬超の雰囲気を怪訝に思いながらも一応答える。こちらの答えに 何度か頷いた後、また何かを思い付いたように言葉を紡いだ。 「何か嫌な事でもあったか?」 またも不思議な言葉に心の中の疑問を口にする。 「…何故お前が気にする?普段のお前なら『他人は他人』と割り切っているだろう」 「俺は、な。だが、俺じゃない奴がお前を気にしている…俺はあくまで代理だ」 「代理…?」 「まぁな、姜維も心配していたぞ。お前の様子がおかしいってな」 「…そういう事か…」 それならば納得出来る。誰かの代理であれば、今までの態度の謎も解けるというもの。 「で、本当の所何が原因なんだ?」 「特に口にするような事でもない。気にするな」 「気にするなと言われてもな、俺は代理だと言ったろう。俺はお前がどうであろうと 気にしてはいないさ」 先程から延々と繰り返される同じ質問に、ついため息がこぼれる。 「ならば構わないだろう。一人にしておいて貰えないか」 「子供ならいざ知らず『わかりませんでした』で済むと思うか?」 「姜維には私から話しておく」 その言葉に馬超は呆れたようにため息を零すと再び楽しそうに笑みを浮かべる。 「…お前、人の話はちゃんと聞いておけよ。俺は『姜維も』と言ったんだぞ」 「…お前に頼んだのは別の人間か」 「勘違いしたのはお前だ。俺は敢えて名前を挙げなかった…それだけだろう?」 笑みを浮かべた馬超はまるで悪戯を成功させた子供のようだった。時折見せる この表情は彼と親密になってきたのだなと思うが、今回ばかりはそんな余裕は ない。 「お前にそんな事を頼める人間など他に思いつかないが…」 ふとそう一人呟いてから、ある人物が頭の中に浮かんできた。眉を顰め、目の前で 笑う馬超を見ると実に楽しそうに頷く。 「ま、そういう事だ。俺に頼み事など出来る奴なんて、そうそう居ないからな」 「…何故私の事など気にするのだ。お前ならともかくとして、私は…」 「本気で言ってるのか?」 楽しそうに笑っていた筈の馬超の声色が変わった。 「どういう意味だ」 「…まぁ、いい。俺が口を挟むべき事ではない。口を挟めば、あいつに 文句を言われるのは目に見えているしな」 急に不機嫌になった馬超はそう言うと後ろを振り返った。 「だから俺に頼むのは間違いだと言っただろう」 そして馬超の声に被さって聞こえてきたのは彼女の…の声だった。 「本当、間違いね」 「最初からお前が直接聞けば良かったんだ」 「ええ。孟起がこんなに使えないと思わなかったわ」 普段から見慣れている二人のやりとりを黙って見ていると視線に気付いた がにこりと笑った。 「申し訳ありません、趙雲殿。孟起が失礼な事を」 「失礼なのはお前だろう。仮にも…」 「あら、主たる自覚をお持ちでない孟起様に似たんですのね」 「…ったく…。まあ、いい。お前が来たのなら俺は帰るさ」 「ええ、速やかにお帰り下さい。馬岱殿が手ぐすね引いてお待ちですよ。 孟起様にお聞きしたい事が山のようにおありの様子でしたから」 の言葉に舌打ちをすると愛馬に跨がり城の方へと駆けて行った。残された自分は 彼女の見つめる視線に絶えられず下を向くと小さいため息が聞こえる。 「…やはりご迷惑でしたか?」 「殿…?」 顔を上げると悲しそうに眉を寄せたがこちらをまっすぐと見ていた。 「趙雲殿はいつも目線を逸らされるのですね…」 「それは…」 「私は愚かですから…直接お聞きしなければ諦められないのです」 まっすぐな視線は何かを訴えているように見えた。 「迷惑だと…思っていらっしゃいますか?」 凛とした美しい彼女しか、今まで知らなかった。 馬超と小気味の良い会話をする彼女。 姜維と楽しそうに会話をする姉のような彼女。 だが、自分と話す時の彼女は…いつも…。 「…申し訳ない」 「…趙雲殿…」 自分の言葉に彼女は瞳から滴を伝わせた。 知っていたのだ、自分は。 彼女がどれだけ優しい笑顔を向けていたくれていたのか。 そして知らなかったのだ。 自分が目を逸らす度に彼女がどれだけ傷ついていたのか。 「…私は…貴女にずっと酷い事をしていた」 そして…知らないふりをしていた。 自分が持つ感情を。 胸に潜んでいた気持ちを。 何故なら、どう接していいのか、分からなかったから。 馬超のように気軽に声をかける事など出来なかった。 姜維のように笑いながら優しい言葉を紡げなかった。 何を口にして、何をすればいいのか…分からなかったから。 「本当に…申し訳ないと思っている」 「…いいえ…」 首を振った彼女は何かがふっ切れたかのように微笑むと涙を拭き 頭を下げた。 「私こそ、申し訳ありませんでした。でも、これで諦めが…」 「 殿!」 気付くと自分は彼女の腕を掴んでいた。 「…趙雲…殿…?」 潤んだ瞳が見上げている。悲しみを堪えようと、涙を堪えようとしている 彼女の腕を掴んだまま、自分の言うべき言葉を必死に探す。 「…違うんだ」 「…?」 心の奥にしまい込んでいたのは『愛しい』という気持ち。 打ち明けたら、きっと今までのように彼女は微笑んでくれなくなるだろう。 だから、自分の気持ちに気付かないふりをした。 打ち明けるという方法しか知らない自分が突然彼女に愛を告げても 受け入れてくれないだろうと勝手に最悪の事態を予想した。 今の関係を失うくらいなら、気付かなければいい。 あの微笑みを見る事が出来るなら…それでいい。 『愛しい』と思う気持ちをどう表現していいのか、わからないから。 ならば、『親しい』この現状に満足しようと自分を騙した。 「私は卑怯だ」 「…趙雲殿…何を…」 自分の様子がいつもと違う事に驚きながらも、彼女はそう口にする。 「 殿、貴女に私は謝らなければいけない」 まっすぐと見る視線を受けながら、彼女の前に跪く。 「ちょ、趙雲殿…!?」 慌てて立たせようとする彼女の手を取りながら、意を決するとずっと 口にしたくても出来なかった言葉を口にした。 「私はずっと貴女を好きだった」 「…え…?」 「なのに自分が傷つきたくないと逃げてばかりいた。貴女との今の関係を 失いたくないと、どうやって貴女に愛を告げればいいのかわからないからと 貴女から逃げていた」 突然の言葉に彼女はそのまま立ちすくんだままだ。 「私はずっと貴女を好きだった…いや過去の想いではないのだから正しくは ないな」 「…趙雲殿…だって…」 「私はこれからも貴女を想います、ずっと、ずっと」 見上げると大粒の涙が降り注ぐ。 「 殿…」 「だっていつも…私から目を逸らして…」 泣き顔を見るのは辛かった。 そうさせたのは自分なのに泣いている彼女を見るのは辛くて、 立ち上がると抱きしめてしまう。 「趙雲殿は…狡いです…」 「…そうですね」 「でも…」 「… 殿?」 腕の中にいた が顔を上げる。 「…嬉しいです」 そう言って笑う彼女は今まで見た笑顔の中で一番輝いて見えた。 幸せそうに笑う に自分もまた笑いかけると額にかかる前髪を 払ってやる。 「 殿、もう一度言わせて下さい」 「…はい」 今度はきちんと目を見て、彼女に告げよう。 彼女を想っているとはっきり言おう。 自分は貴女を想っていると。 殿、貴女が好きなのだと…。 <あとがき> 長い間書きかけのままだったのですが、ようやく完成しました。 私が書くとどうして趙雲はいつも自信ないんでしょうねぇ(苦笑) いつも馬超や姜維に対してコンプレックスを抱いている様子。 何となく趙雲は他の事が何でも出来る割に不器用なイメージがあります。 決して馬超や姜維が恋愛面に置いて器用かと問われれば器用では ないのですが、趙雲は何をしていいのかわからなくて一人で悶々と してそうな…そんな感じです。 |