こぼれた涙






ぼんやりと浮かんだ月を見上げ、ため息をつく。
霧のかかった自分の記憶は未だ戻る様子もなく、ただ好意に甘え、衣食住を
与えられるままに日々を過ごしていた。

自分の所為で生活環境を変えざるを得なかったあの人を思って、小さな声で歌を
歌う。記憶のない自分が歌を覚えていた訳ではない。何もない日々は退屈だろうと
あの人が土地を彷徨い、歌を生きる糧としているという旅人を屋敷へ呼んでくれた。
歌に魅入られ、一月にわたり楽を習い…今に至る。

元から楽に関した職についていたのか、すんなりと体に音が吸収されていく。
自らの声が楽器。歌を紡ぐことで寂しさを紛らわせようとした。…否、本当は
歌を歌うとあの人が少しだけ微笑んでくれるから、嬉しかったのだろう。

この屋敷は本来ならば遠方にいるお母上と住まう為にと準備していたものだと
数少ない世話役の一家が言っていた。世話役の一家はあの人に恩義があるのだと
いいながら、様々な事を教えてくれた。あの人は見た目からは想像も出来ぬほど、
腕の立つ武人なのだと、そして同時にこの国を支える丞相の片腕でもあると。

何故、そんなあの人が自分によくしてくれるのか。
全くわからなかった。

責任感の強い人だと、世話役の一家は言う。そうかもしれない。だが、赤の他人を
それも記憶すらない自分を何故…そう思わずにはいられなかった。

歌を紡ぎながら、流れ落ちる滴に気付く。何故、涙するのかわからない。
紡ぐ歌に覚えは無い。この景色も知らぬもの。今ある記憶はここに来てから
あの人に与えられた優しさだけ。

「夜風は体によくありませんよ」
優しい声に振り返るとあの人がいた。自分の歌声が彼の安眠を邪魔したのかと思うと
自身を責めた。日々を忙しく過ごす彼の安息の地である自宅ですらも、自分は
奪ってしまっているのだと。
「…焦らないで下さい。いいのですよ、ゆっくりで」
優しく差し伸べる手、柔らかい言葉。何もない自分はそれに縋りたくなる衝動を
押さえながら、首を左右に振る事しか出来ない。
殿…」

、それは記憶のない自分に彼がつけてくれた呼び名。

「…ごめんなさい」
流れ落ちる涙を止める事が出来ずに何度も拭いながら頭を下げた。
際限ない不安は記憶がないからか、それとも目の前にいる彼が悲しそうにこちらを
見ているからなのか、わからない。

「何故、謝るのですか」
「…ごめんなさい」

謝ることしか、謝罪の言葉しか口に出来なかった。

さくさくと草を踏む音が聞こえたかと思った瞬間、右手に何かが触れた。涙で滲む
視界でよく見ると彼が両手で右手を包み込んでいる。

「不安なのはわかります。記憶がない貴女は全てに対し猜疑心を持っているでしょう。
でも安心して下され。私は貴女に害を為すつもりはありませぬ。縁もゆかりもない
私が貴女に何故味方するのかと疑わなくともよいのです。ただ、私は貴女の力に
なりたいだけ。それだけです」

そう言って笑うと彼は右手を解放し、頬を伝う涙を拭う。

「で、でも…」
「私はもう十分貴女から頂いています。たまに見せる貴女の笑顔、そして美しい歌声を。
だから、どうぞ気になさらないで下さい。一方的に与えるだけではないと」

不思議だった。自分によくしても何の利益もないと思っていたから。
だが、彼はそんな事はないと言う。

「さあ、部屋に戻った方がいいですよ。夜も遅い」
「あ、あの…っ!」
「はい?」

世界が…怖いと思った。記憶のない自分にとって周りはあまりにも完璧のように見えた。
記憶のない自分は不完全で何も出来なくて、何も知らなくて、ただ感情のうねりに
押しつぶされそうだった。

だけど、歌を歌っている時は不思議とそんな不安から解放されて、本当の自分に
戻っているような気がした。本当の自分がどんな人物かだったのかわからないが、
そんな気分だった。そして歌を紡ぐ度に優しく微笑む彼が居たから…今日まで
こうしてこられた。

「…ありがとう…ございます」
たったそれだけの感謝の言葉。なのに目の前の彼は優しく微笑むといいえ、と言う。

不安な自分をいつも支えてくれるのはこの人の優しい笑みと声…そして言葉。
こぼれた涙とともに不安な心を流して、明日、また歌おう。

だって、この人がそれを望むなら。
自分に出来るのは…きっと歌うことしかないから…。




<あとがき>
本来なら連載の最終話を書くつもりだったのですが(書き出してはいます)
このお話に。記憶喪失の歌姫ヒロインが宮廷楽師になる前の話です。
徐々に出逢いのシーンも書こうかと思っていますが、段々当初の出逢いと
変わってしまいそうな予感です…(苦笑)
姜維にとって彼女への想いはまた次の話で書こうかと思案中。
多分、この時の姜維は…という形になるかと思います。