夢で逢えたら…






もやがかかったような視界。真っ白な視界にぼんやりと人影が浮かぶ。

そう、今、自分は夢を見ている──そう納得すると夢の中の自分が
頷き、一歩一歩人影の方へと歩いていく……。

「ここは…」
人影に近づきながらそう独語する。すると人影がゆっくりとこちらを振り返り、
姜維を見て微笑んだ。
「姜維様」
殿」
愛しい人の呼びかけに嬉しそうに笑みを零すと走り寄る。だけれども、走っても
走ってもその距離は縮まらない。焦りが心に黒い影を落とし、眉を潜めながら、
ただ足を動かす。足下を見ても何かが自分を妨げている様子もない。焦りながら
顔を上げると──彼女の姿はなかった。
「……殿…?」
ぞくりと急激な寒気が襲い、足下の見えない枷が重みを増す。不安が心の中に
満ちあふれ、彼女の名前を何度も呼ぶ。

そして突然、自分を妨げていた何かが消えた…。

殿!」
投げ出されるような衝撃を何とか両足で留めると辺りを何度も振り返る。真っ白な
世界にはだれ一人の人影も見えない。
殿!」
もう一度彼女の名前を叫んでみるが返事は返ってこない。
広い、誰もいない世界に空しく自分の声だけがこだましていた。


「姜維様」
微かに聞こえる愛しい彼女の声に何度も辺りを振り返る。…そして泣きそうな表情の
彼女を見つけた。
殿…?」
「私、呉に帰ることになりました…」
「え……殿?」
悲しそうに顔を歪ませた彼女が背中を向け、一歩一歩遠ざかっていく。
「ま、待って下され!…殿っ!…お願いです、どうか…!」
彼女の元へ走り寄りたい──気持ちはとっくに彼女に追いついている筈なのに
鉛のような見えない足枷に邪魔されている。
殿!…殿!…私はまだ貴女に…」
小さくなっていくその背中に声は届かず、やがて彼女の姿は見えなくなってしまった。
「…貴女に何も伝えていないのに…」
ただ一人残されたその場で涙を流し、今までの自分の態度に後悔する。

どうして、もっと早く気持ちを伝えなかったのだろう。
何故、ずっと側にいられると思っていたのだろう。

いつ、別れてもおかしくない筈なのに…。



「夢…か…」
体を起こすと眉間に皺を寄せながら、大きく息を吐き出す。自分の寝室に
注ぎ込む朝日は明るく柔らかであるのに、心の中は深い闇に覆われていた。
「…夢だけれど…現実になってもおかしくない…」
一人呟きながら文机へと向かう。眉間に深い皺を刻んだまま、椅子に腰掛けると
再び大きく息を吐き出した。

彼女が故郷に帰る。
自分が戦場に倒れる。

いずれもその時がいつ訪れてもおかしくない。なのに、今まで自分は彼女に
会えるだけで十分だと思っていた。いや、今でも会えればそれだけで嬉しい。
だけど、もし何らかの理由で会えなくなったら?

自分は後悔するだろう。彼女を愛しいと思うこの気持ちを伝えぬまま、別れれば
必ず後悔するに違いない。
「でも…」
大きなため息をつくと瞳を閉じたまま椅子から立ち上がった…。


丞相府へと馬を歩かせている最中、頭の中で何度も繰り返す今朝の夢。
思い出さぬようにとしても、その映像は途切れる事がない。胸が締めつけられたかの
ように痛む。
「…嫌だ」
小さく呟きながら、ようやく着いた丞相府の門を見上げる。馬から降りると見慣れない人物が
建物から出てきた所だった。見慣れない──ここ丞相府に居る筈のない彼女が
そこに居る。下を向いていた彼女が自分に気づくといつものように柔らかく微笑んだ。
「あ…おはようございます、姜維様」

嬉しい筈なのに…その笑顔、声、仕草も愛しい筈なのに胸の痛みは増すばかり。

「…姜維様?」
心配そうに覗き込む彼女に辛うじて笑って見せると、いつものように彼女の名前を呼ぶ。
「…おはようございます、殿」
自分なりに精一杯取り繕ったつもりだった。だけれども…目の前の彼女はその笑顔を曇らせ、
悲しそうに自分を見上げる。
「…殿…?」
「何か…良くない事でもおありでしたか…?」
「いえ…そういう訳では…。申し訳ありません。ご心配をおかけしてしまったようですね」
何とかその綻びを直そうと試みるが、彼女は首を横に振っただけだ。
「本当に…何もないのです」
「…姜維様…」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。どちらも次の言葉を飲み込んでしまい、相手の
言葉を待つ。時間だけが過ぎていき、気まずい沈黙の所為で視線を合わせることも出来ない。

「あ、あの!次のお休みはいつですか?出来れば早い方が良いのですが。
わ、私の休みは貴女に合わせますゆえ…そ、その、遠乗りに行きませんか?」
何とか沈黙を破ると切羽詰まったように早口で言葉をまくし立ててしまう。不甲斐ない
自分が恥ずかしくて、頬がかぁっと熱くなっていく。すると下を向いていた彼女が
自分を見上げ、不思議そうに首を傾げた。
「次のお休み…ですか?」
「は、はい!」
「あの…」

──急に彼女の表情が変化した。

「次のお休みはいつになるか分からないのです…」
「…殿…?」
「明後日には成都を立つことになって…」
目の前が真っ暗になる──そんな比喩を聞いた事がある。今の自分にはまさに
ぴったりだ。彼女の口は動いていて言葉を紡いでいる筈なのに声が耳に届かない。
「呉に帰られるのです…ね?」

頭の中で延々と流れる今朝の夢。

「…嫌です!」
咄嗟に彼女の両腕を掴むと何度も首を左右に振る。夢が延々と繰り返される度
心の中には後悔の念が刻み込まれていた。

あれは夢だと思っていた。現実になるとしてもまだ先だと思っていた。
──決意したばかりなのに。

「嫌です!駄目です!」
「…姜維様…?」
「私が今、すごく勝手な事を言っているのは重々承知しています。でも、嫌なのです。
貴女が離れていってしまうのが…辛い。私は…私…は…」
自分を見上げる瞳が大きく見開かれていた。驚いている──今までの自分とは
違った自分を見た所為だろうか。彼女は言葉を何か紡ごうとして止まったままだ。

不意に自分の耳に不自然な咳払いが聞こえた。感情の渦に飲み込まれていた自分を
現実の世界に引き出すには十分な人物が視界に入ってくる。
「…落ち着きなさい、姜維」
「丞相…」
静かな声が耳に届き、現実へと引き戻す。
「軍師たるもの、常に冷静にあるべきでしょう?…さて、続きは私の部屋の奥を貸しますから
そちらでなさい。朝から人目も憚らず、こんな所で…」
「も、申し訳ありません!そ、その…」
殿、申し訳ありませんね。不甲斐ない弟子で」
「いえ、私は…」
頬を赤らめたまま笑う様はいつもとはまた違った表情だった。彼女の…その表情は
今まで見たものの中で一番幸せそうな笑顔で…。


師の執務室の奥にある…私室の扉を開ける。何処か呆れたような、でも温かく
見守っているような師の視線に下を向くと小さくため息が漏れた後に優しい声が
聞こえてきた。
「ここをお使いなさい。但し話は簡潔に、ですよ」
「は、はい」
扉を閉めながら頷いた師に首を傾げる。閉まる間際に残した言葉に更に首を傾げると
共に居た彼女から小さく笑い声が聞こえてきた。
「あ、あの…何か…?」
「…も、申し訳ありません…でも…」
殿?」
「姜維様が…まだお話を聞いてみえなかったとは思っていなかったものですから…。
あの…丞相様の仰った『誤解』とはこういう事なのです…」

そして彼女の口から紡がれた真実は…。

彼女は確かに呉に帰ること。
但し、それは一時的な帰郷であること。
また彼女の帰郷は殿の奥方である尚香の計らいで決まったということ。

それに…

「私は明後日に成都を立つ予定なのですが…丞相様の名代である姜維様は一日遅れて
こちらを立たれる…と私は聞いております」
「…丞相の名代で…?」
「はい、私も今日丞相様にお聞きするまでは一人だと思っておりました」
「…私も呉へ?」
「…はい」
二人の間を沈黙が流れる。だが先程の沈黙とは違い、どちらの表情も恥じらったように
互いを見ているのだ。そして何方ともなく笑い声が漏れる。
「…すみません、変な早とちりをしてしまいましたね」
「いいえ…大丈夫ですから…それに…」
「はい?」
「あ、いえ…どうぞ」
真っ赤に染まった頬を隠すように両手で顔を覆う彼女に首を傾げる。何が彼女の頬を
こんな風に染めているのか…その原因を探ろうとした途端、先程の自分の
言動を思い出す。
「…あ!…そ、そうですよね…。すみません…あの…その…先程の私の言葉の続き、
ここで口にしても良いでしょうか…?」
黙ったまま頷く彼女の手を取ると愛しそうに両手で包み込む。


私は…誰よりも貴女を愛しいと思っています──




<あとがき>
メインのラスト、そして企画SSのラストは姜維でした。
企画開始直後から練っていたネタとは違うものが完成したのですが、
こちらで良かったと思っています。どうせなら、幸せなラストの方がいいですものね。
途中の駄々をこねる姜維が書きたかった…それだけだったりします(苦笑)