君を恋う





初めて逢った日、貴女は周りを気にしては俯いていました。
貴女にとっての大叔父上である黄蓋殿と彼女のこれからの主、孫家の姫君に
連れられながら、とても怯えているように私には見えたのです。

貴女に話しかけたのは、ほんの偶然。中庭に降り立った貴女の背中が
酷く頼りなくて、今にも消えてしまいそうだったから。
…だから、思わず声をかけてしまいました。

声をかけるとゆっくりと貴女は振り向きました。
そして、その瞬間私は声を失ったのです。

振り向いた貴女は先刻見た貴女とは全くの別人のようでした。
ほんのりと頬を染め、控えめに微笑んでいる貴女に私は言葉を飲み込んで
しまったのです。不思議そうに私を見る貴女の視線に気づき、慌てて言葉を
紡いだ事を今も覚えています。

殿。覚えていますか?
初めて逢ったその日を。

あの日は何処までも青い空が続く、そんな日でした。
太陽が優しく木々を照らし、花はそれぞれを主張するように咲き誇っていましたね。
時折風に乗った甘い香りが中庭に満たされていました。
そんな中で貴女はとても幸せそうに微笑んでいましたね。

私はずっとあの時から貴女を見ていました。
ずっと、ずっと貴女だけを。

普段の私は陸家の当主として、また呉軍の軍師の一人として、常に
公人としての鎧を纏っていました。もちろん、それは今でも変わりません。
それはこの世を生きていく上でとても重要な事ですから。

だけど、その鎧を常時身につけていれば、いずれ自分自身を失って
いく事もあるでしょう。身に纏っていた鎧が本来の自分自身だと錯覚を
起こしてしまうのです。

私は…私らしさを失いかけている時に貴女に出逢いました。

貴女の笑顔に心を奪われてから、ずっと貴女の前で私は私でした。
飾らない一人の少年として、貴女と接してきました。
きっと貴女はとても戸惑った事でしょう。

私の振るまいに、いつも貴女は少し困ったように小首を傾げていましたね。
困らせるつもりはなかったのですよ。ただ、貴女といるとどうしても…
私は何処にでもいる普通の少年になってしまうのです。

何故でしょうね。

きっと、私にとって貴女がとても愛しい人だから…
だから、貴女の前でまで自分を偽りたくないのです。

誰かを、一族以外の誰かを愛しいと思ったのは初めてで、その気持ちを
どのように伝えれば良いのか、私にはよくわかりませんでした。
そんな事、誰も教えてはくれませんでしたし、先人達の残したどんな書にも
参考になりそうな事は載っていませんでした。
だから、私はただ、貴女に想いを伝えようとひたすらに突き進みました。
玉砕覚悟の突撃と称しても可笑しくないものでしたよ。

ふふ、可笑しいですね。
普段の私なら先陣を切って単騎で飛び込むような事はしないでしょうに。

でも、私にはそれしか策がありませんでした。
何の知識もなければ、経験もない私にはそれ以外の策を取ることが
出来なかったのです。いいえ、思いつかなかったのです。
結果、貴女をとても戸惑わせてしまった事、本当に申し訳なく思っています。

でも…、殿。私がこんな事言ったら怒ってしまいますか?

実は、貴女の困り顔と小首を傾げるその仕草がとても好きなのだと。
だからわざと貴女を困らせていたこともあるのです、と言ったら…。


中庭の池のほとりに立っていると草を踏む、小さな音が聞こえた。
青い、自然の木々の香りに春から初夏へと変わりつつある事を実感すると
振り返る。視界には一人の少女微笑みながらこちらに小走りに駆け寄って来る
様子が飛び込んできた。

殿、急がなくとも大丈夫ですよ」
笑ってそう答えると少女も花を思わせるようなそんな笑顔で返してくれる。
両手を拡げて彼女が辿り着くのを待った。頬を染めた彼女が少しだけ
困り顔で首を傾げたが、それでもおずおずと手を伸ばす。
その手を取ると誰にも、一族にも見せぬ笑顔で陸遜は彼女を抱き寄せた。

殿、大好きです」

陸遜の言葉にが頬を紅く染める。そして俯いた後、再び顔を上げると
少しだけ困ったような表情を見せた後、恥ずかしそうに頷き返す。それが彼女の
最大の表現だ。言葉にするのは苦手らしい。

「ありがとうございます。…でもね、殿」
「?」

見上げた空は出逢った日のように何処までも青い空が続いていた。
中庭の木々も花もみんなあの時と同じ。違うのは陸遜と彼女の距離だけだ。

「たまには貴女の口から聞きたいな」
「え?」

途端にその頬は真っ赤に染まる。先程よりもずっと赤く染まったその頬を白い
華奢な手が隠すように覆う。

「…これは私の本音ですが、あまり貴女を困らせてしまうのも嫌なのも本音です。
ですから、もし貴女さえ良ければで結構ですよ」

くすりと悪戯っぽく笑うと腕の中の彼女は少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
強い自己主張が少ない彼女の最大の自己主張。とても可愛くてより一層愛しさが
込み上げているとは本人は露ほども知らないだろう。

「意地悪です…」
「はい。私は優しくなんてありませんよ。意地悪なんです」

上目遣いに見上げるその視線に笑いかけると頬に唇を落とし嘘ですよと
小声で耳打ちする。

「貴女に意地悪をするつもりなんてありませんよ。ただ、たまにはそんな言葉も
聞きたいと思っただけです」
「陸遜様…」
「さあ、今日はどうしましょうか。遠乗りは先日とっておきの花畑に行った所ですし、
市を巡るとしても毎度毎度行く所は限られてきますしね…」
「あ、あのっ!」
「はい?」

腕を解き、手を繋いでいた彼女が上気した頬のまま陸遜を見つめていた。彼女の言葉を
促すように笑って頷くとじっとその小さな口から何が紡がれるのかと待ち続ける。
何かを言おうとしてすぐに言葉を飲むと小さく頭を振る彼女の行動の意味を図りかねて
首を傾げているとか細い声が耳へと届いた。

「…私…陸遜様が…大…好き…です」

驚いて目を見開くと、彼女がこれ以上にないくらいに真っ赤になって俯く。
「…驚いた…いや、嬉しい驚きですが…。ありがとうございます、殿。ああ、今日は
なんていい日なんでしょう。そうだ、行き先を決めていませんでしたね」
手を繋いだまま歩き出すと俯いていた彼女が慌てて付いてくる。
「決めました!今日はご挨拶に伺う事にしましょう!」
「…り、陸遜様?」
嬉しくてもう気持ちを抑えていられない、そう思いながら足早に厩へと急いだ…。



<あとがき>
久しぶりの陸遜です。そして珍しく片恋のままではありません。
両想いでもやっぱりヒロインちゃんを若干振り回している所ありますね。
私の中の陸遜は公では冷静沈着でも私では年相応の少年なんです。
よって感情表現も豊かですし、優しいばかりではありません。

ああ、本当に久しぶりの陸遜は楽しかったです。最近こういう優しい物腰で
甘い事を言う少年なんて書いてませんでしたから新鮮でした(苦笑)