花鏡
今日は朝からどこか落ち着かない自分が居た。 自分がいつもの自分でなくなる時…それは彼女が絡んだ時だ。 文机で執務に精を出しながらも頭の中ではまったく別の事を考えている。 いつ彼女に声をかけようか、何といってこの…。 「陸遜?」 「は、はい!?」 突然の声に慌てて椅子から立ち上がると執務室に入ってきた人物を見た。 「…姫様でしたか」 女性特有の高目の声に一瞬でも期待した自分に呆れながら、拱手をする。 彼女が自分の執務室を訪れる訳がないのに、そう考えてしまう心に少しだけ ため息をついた。 「何よ、私じゃ悪い?」 「いえ…何か?」 「ちょっと鍛練に付き合ってもらおうと思って来たの」 相変わらずこの姫様は鍛練を、と言う。仮にも公主たる身でありながら その自覚はあまりないようだ。大体世の女性は…という理屈には当てはまらない 孫家の公主に深々とため息をついて見せるといつものように小言を並べる。 「お言葉ですが、姫様」 「お説教なら聞かない」 「ですが、姫様」 「…」 「姫様が鍛練なさる必要はないでしょう?それとも姫様はお父上である孫堅様や 兄上の孫策様、孫権様を信じていらっしゃらないのですか?」 「そんな訳ないじゃない。私は信じてるから、信じてるからこそ一人だけ 宮廷に閉じこもって待っていたくないの」 どんなにその決意が強固なものでも自分はそれをあっさりと認めて しまう訳にはいかない。もちろん簡単に論破されるつもりもないが…。 「姫様のお気持ちも分かります。ですが、姫様が戦場へと足をお運びに なるという事は……姫様、聞いていらっしゃいますか?」 「ねぇ、陸遜」 「姫様」 俯かせていた顔を上げると楽しげに笑って見せている。こういう表情の姫様は 大抵良からぬ事を考えている。嫌な予感を覚えながら口を開くとやはり 姫様の口調は先程のものとは打って変わり茶化すようなものになっていた。 「私ね、知ってるのよ」 ここでのってはいけない。努めて冷静に言葉を紡ぐ。 「何をですか?…そんな風に話題をそらすという事はご自分が不利だと自覚 なさっていますね」 「あら、それに関しては陸遜も同じでしょ」 確かに否定出来ない。でも最初に自分が話をしていたという事は話題を戻そうと しているだけの事。話題を戻そうとするのは自然な事の筈だ。だけど、それ以上に 何を言われるのかわからないから話を戻そうという感情の方が強い。 「先に話題をそらそうとしたのは姫様です。私は話を戻そうとしているだけですよ」 「そうね、確かにそう」 「ならば…」 「貴方が持ってる綺麗な櫛は渡せたの?」 「…っ!?」 たった一言で形勢が逆転してしまう。 だから姫様と話すのは苦手なのだ。 どこでそんな情報を手に入れているのかわからない。 殿に…姫様付きの女官に渡そうと思っているこの贈り物。 今日が誕生日だと彼女の伯父がそう言っていた。 別に自分は彼女と何ら関係のある訳ではない。 ただ一方的に好意を抱いているだけ。 「ねぇ、鍛練に付き合ってくれたらをこちらに来させてあげる。 ちゃんと口実を作ってあげるわよ?」 そう言って笑う姫様に大きくため息をつく。見えてしまった勝敗に今は ため息をつくことしか出来ない。 「どう、鍛練付き合ってくれる?」 「…私が首を縦に振るしか選択肢がないのでしょう?」 その選択肢は確かに2つあるようにみえる。 だが、それは見かけだけだ。 選ぶ事が出来るのは1つだけ。 選ぶ事が出来ない選択肢は…自身の小さな気持ちを宮廷中に 知らしめる事になる。姫様なら本当にやりかねない。 だから最初から決まっていたのだ、この勝負が姫様の勝利だと。 「そうね。一応貴方次第なんだけど…その選択の方がいいと思うわ」 自分からそんな選択肢を突きつけておきながら笑って済ませてしまう。 「まったく、姫様にも困ったものですね」 「私にそんな事言っていいの?」 大袈裟にため息をついて見せると部屋を出、鍛練場に向かった…。 『じゃあ、後でに届ものでもしてもらうわ』と言って姫様が 満足そうに鍛練場から出て行く。 「…まったく…」 そう呟きながら手にある小さな巾着を見つめる。 ──受け取ってもらえるだろうか そんな不安に眉を寄せると自らの執務室に入り大きくため息をつく。 「あ、あの…陸遜様…」 「え?あ、殿!」 戸惑ったようなか細い声に気づくと椅子に腰掛けようとしていた中途半端な 姿勢から急に姿勢を正す。 彼女の手にある竹簡に気づくと早速姫様が適当な用事を見繕ってくれた のだと理解した。 「すみません、その考え事をしていたものですから」 「いいえ…あの…尚香様からこちらをお渡しするようにと」 おずおずと差し出される竹簡を受け取ると笑顔で頷く。 ここまで来てしり込みは出来ない。覚悟を決めてしまうと小さな巾着を 彼女に差し出した。 「陸遜様?」 「今日が誕生日でいらっしゃるのですよね?」 自分の言葉に驚いたように目を見開く。そんな彼女を他所に手をとると巾着を 乗せてしまう。 「おめでとうございます、殿」 手を取られたまま、巾着と自分を見ている彼女にもう一度微笑む。 「わ、私…あの…」 「どうか受け取って下さい」 ここでもし彼女が…殿が受け取って下さらなかったら…。 気持ちまで受け取ってもらえない、そんな気がしてならない。 こんなに不安な気持ちを殿は知っているだろうか? 不安げに見上げる視線に笑顔で返すものの、胸中は不安で一杯だ。 「陸遜様…」 頬を桜色の染め上げた彼女が一瞬目を伏せると小さく笑顔を形作った。 「…そのありがとうございます…」 「受け取って頂けるのですか?」 「…はい」 彼女のその一言が嬉しくて仕方なかった。 だから、少し浮かれてしまったのだろう。 自分を見上げる彼女の視線を不思議に思い、視線を落としてみると… 彼女の手をしっかりと握ってしまっていた。 「あ…も、申し訳ありません。その…」 自分の贈った巾着を両手で持ったまま彼女が首を左右に振る。 桜色の染まった頬と小さな笑顔にほっと安堵の息をつくと仕切り直しとばかりに 言葉を紡いだ。 「殿、開けてみて下さい。その自分で何度も店に足を運んで決めたのですが、 貴女に気に入って頂けるのか不安なのです」 「え、陸遜様自ら…?」 「はい。だってそうでしょう?贈り物に精一杯の気持ちを詰め込みたいのですから」 自分の言葉にますますその頬を染め上げると上目遣いにちらりとこちらを見た後、 小さく頭を下げる。 そして巾着の中から出てきた櫛と小さな鏡を見ると嬉しそうに彼女が笑った。 「気に入って頂けましたか?」 殿、その笑顔に答えを期待してもいいですか? 私の気持ち…少しでも貴女に届いたと…。 <あとがき> 勝手に捧げ物創作です。誕生日という概念はないと思うのですが、 そこはまぁ無双ですからと…パラレルだからと逃げさせてください(苦笑) どうも陸遜とのお話は尚香ちゃんが出張ってしまいますね。ヒロインちゃんの 出番よりも多かったような…。 最後に…私信ですが、こまつ蒼衣さんお誕生日おめでとうございます。 |