蓮花








あ、あれは…。


廊下の向こう側から歩いてくる人影に陸遜の心が踊る。そしてその心の変化に
眉を顰めた。


今の私は…?
私は冷静に物事にあたって行くべき軍師の筈。
彼女の姿を見ただけで心が踊るなんて…。


心の中で自分を戒めつつも、近づいてくる彼女に表情は笑顔へと変わっていく。
陸遜に気付いた彼女が礼を施すともはや笑顔を押さえる事も叶わない程心が踊った。
「暑い日々が続きますね、殿。」
「…え?…あ、はい。左様でございますね。」
陸遜に話しかけられると思っていなかったのか、歯切れの悪いにくすりと笑う。
殿は姫様以外の方とはあまりお話にならないのですか?」
「…いえ、そういう訳では…。」
「伯父上の黄蓋殿は別でしょうけど…そうですね。あまり機会がないといった
所でしょうか?」
「…はい。」
続かぬ会話に苦笑しながら目の前のを見る。何故、自分に話しかけるのか
計りかねているのだろう。不思議そうな表情が見え隠れしていた。このまま
ここに引き止めても、困らせてしまうだけ。そう思うと少し寂しそうに
微笑み軽く頭を下げる。
「他愛ない会話で足を止めてしまって申し訳ありません。」
「そんな…私こそ…。」
「いえ…さあ、どうぞ…。」
陸遜の言葉を不思議に思いながらも は頭を下げ、自分に課せられた仕事を
こなすべく廊下を歩いていく。そんな を見送りつつ、彼女の背中に陸遜は
小さくため息をついた。


…馬鹿ですね。
私が話しかけても彼女は困惑するだけでしょうに…。


自嘲的に笑うとまっすぐと前を見、小さくなった背中を目で追う。無自覚の内に
視界の中に彼女を探してしまう。そんな自分なんて今まで知らなかった。
陸家の当主になるべく幼い頃から学問に励んできた。もちろん智のみならず、
武においても精進を重ね、そんな自分に自信を持って呉軍へと参列したつもりだった。

だが、今の自分はどうだろうか?まるでその辺りに居る普通の少年のように
少女へ淡い気持ちを抱き、甘い夢に浸っていないだろうか。

──姿を見るだけで心が踊り、声を聞きたいと願い、笑顔を望んでしまう。

これが自分なのだろうか?若年ながらも軍師という職についた…陸家の
当主の姿だろうか?

ため息をつくと庭の方へと足を運ぶ。庭の中にある池の前に来ると自らの姿を
映し、その表情を改めて確認する。陸遜の表情はまるで年齢相応の少年の
笑顔であった。
「これが…私…ですか。」
ため息をつくと表情を正し、もう一度水面に映る自分を見る。水面に映ったのは
いつもの自分。
「そしてこれも、私…。」
そして水面の自分が眉間に皺を寄せる。


「陸遜様…?」
「… 殿…。」
ふと気が付くと自分の後ろに彼女が居た。不思議そうに首を傾げるその
仕草に愛しさを覚えながらも、冷静に振る舞おうと表情を作る努力する。
「…どうか致しましたか?」
弾みがちな声音を押さえつけ、なんとか平静を装った。すると が自分よりも
奥の風景を見つめ、遠慮がちに微笑む。彼女を視線を追うべく、振り返ると
水面に浮かぶ睡蓮が視界に飛び込んできた。そして陸遜の耳に の声が届く…。

「綺麗ですね…。」

──睡蓮をうっとりと眺める から視線を外せなかった。

「…陸遜様は睡蓮がお好きなのですか?」
嬉しそうに微笑む にうなずき返す。話しかけられただけで、夢心地だ。
自分に微笑みかけてくれている…そう思うと心臓が早鐘を打つ。
自分から視線を外すと、睡蓮を見ながら が再び微笑む。そしてややあってから
何かを思い出したように瞳を大きく開いた。
「も、申し訳ありません!」
殿?」
突然頬を赤らめた が頭を下げる。
「私、呂蒙様に陸遜様が何処にいらっしゃるか訊ねられて…。」
「…探しに来て下さったのですか?」
「…はい。」
申し訳なさそうに下を向く彼女に優しく微笑み返すと一歩近づく。
「ありがとうございます。」
「…陸遜様?」
恐る恐る顔を上げる 殿に軽く頭を下げると再び微笑んだ。

貴女に話しかけられたのは初めてです。
そして、たったそれだけで私は甘美な夢に浸る事が出来る…。

「では、呂蒙殿の執務室に行って参りますね。」
「あ、はい。…申し訳御座いませんでした。」
「いいえ。貴女が謝る事ではありませんよ。それに…。」

貴女とこういう時間を持てた事の方が嬉しいのですから。

「…感謝していますから。」
「陸遜様…。」

背を向けると庭を出ていこうと歩き出す。だが急に笑顔のまま立ち止まり、
振り返った。そこにはまだ が居る。そして今までとは違う自分が
生まれ、こう言葉を紡いだ。

殿、またこうしてお話しましょうね。」と。



<あとがき>
片思い陸遜の続きですね。時系列としては「報春花」→「蓮花」→
「星夜の逢瀬」となっています。

ゲーム中ではあまり幼い感じを見せない陸遜。年齢相応な少年の
心を胸の奥に閉じこめていたら…と思って書きだしたものです。
この二人、見事くっついたらきっと陸遜がヒロインちゃんを
困らせているんでしょうね(苦笑)