報春花
軍議を終え一息を付くように廊下を歩いていた陸遜は何気なく庭へと視線を 映した。天気の良い日に栄える梅の花。そして瞳に飛び込んできたのは …一人の少女の笑顔。 梅の木を見上げながら嬉しそうに笑うその少女から瞳を逸らす事が 出来なかった。それ程焼き付いてしまったのである。きっとこれが 世に言う『一目惚れ』なのだろう。 しかし今の陸遜にはそんな事頭になく、ただ彼女の笑顔を見るだけだった。 まるでその場に縛りつけられたかの様に足が動かない。思考ですら 止まっている。少しでもその笑顔を見ていたい…それだけしか頭になかった。 「陸遜、どうした?そんな所で立ち止まって…。」 呂蒙の声にふと我に帰る。怪訝そうに見ている呂蒙に一呼吸置いてから 破顔した。 「…庭の花があまりにも綺麗で…見惚れていました。」 「…確かに見事だな。」 庭に目線を映した呂蒙を追うように再び庭へと向き直るが、あの少女の 笑顔はそこになかった。居なくなってしまった少女を想い、小さくため息を つくと呂蒙に気付かれないよう再び笑みをたたえる。 「呂蒙殿、先程の話の続きなのですが…。」 「ああ、言うと思った。俺の部屋で聞こう。」 申し出に頷きながらも心は何処かへと飛んでしまっていた。 庭に咲いた清楚な花。 陸遜の心はあの少女の笑顔に捕らわれたままであった…。 「…陸遜?」 「姫様!?」 夕暮れ時、人の少なくなった鍛練場の隅で考え事をしていた陸遜の目の前に 孫呉の公主、尚香が姿を現した。壁にもたれ掛かった陸遜のすぐ目の前で 手の平をひらひらさせながら驚いた顔をしている。気さくすぎる公主の態度に たじろぎ、壁に頭を軽く打ち付けた。 「…どうしたの、貴方らしくないわね。」 「姫様が驚かせたのではありませんか。」 ようやく距離を取るとほっと安堵の息を漏らす。 「あら、私何回も声かけたのよ。ぼーっとしてて聞いてなかったわね?」 「…え?」 「本当に気付いてなかったみたいね。」 呆れたように肩をすくめる尚香に自らを振り返ってみる。誰の声も耳に 入っていない。幾ら人が少なくなったと言えども、ここは鍛練場である。 ありとあらゆる雑音が耳に入る筈なのだ。 「何を考えてるか知らないけど、わざわざこんな所で考え込まなくても いいんじゃない?」 「…はぁ…。」 「大体こんな所で考え事する方が変よ。…それとも…そんな事も気付かない程 だったのかしら?」 「…何がですか。」 尚香の勘ぐるような言葉に眉を寄せる。図星を指されれば表情にも出よう。 「軍議を終えてからずっと変だって…呂蒙が言ってたわよ。」 「呂蒙殿が…?」 自分では平静を保っていたつもりだったのだが、他人に見抜かれて しまっていたらしい。 「そう…それでね…っといけない。」 楽しそうに続きを話そうとした尚香が自らの口を手で覆う。 「何がいけないのです。」 「呂蒙にね、言わないようにって言われてたのよ。…だから続きは内緒。」 「ここまで言って内緒も何もないでしょう。」 他人に何を勘ぐられていたのか、気にならない訳がない。尚香から何と してでも聞きだそうと更に言葉を紡ごうとしたその時だった。 鍛練場の入口付近から騒めきが耳に入る。つい目線をそちらに投げ掛けると 入口に立っている人影が陸遜の瞳に飛び込んできた。 …庭で見つけた可憐な花。 「あら、 ?どうしたの?」 尚香が首を傾げながら陸遜より離れていく。少女は尚香の姿を見ると控えめに 微笑み返した。 「貴女がここに来るなんて珍しいわね。…もしかして私を呼びに来たの?」 「孫権様が尚香様をお呼びでしたので…。」 陸遜の耳には周りの兵達の囁き声など耳に入っていなかった。神経は全て 入口で尚香と話している少女… に集中しているのである。そして自分でも 無意識のうちにその場から離れ、彼女の元へと足を進めていた。 「陸遜?」 尚香の言葉にはっと我に返る。目の前にいる彼女の驚いた表情と首を傾げる 尚香には自分の行動は不思議に映っただろう。とっさに笑顔を浮かべると 取り繕うように言葉を紡いだ。 「霧が晴れましたので、自分の部屋に戻ります。そこを宜しいですか?」 「あ、あの申し訳ございません!」 陸遜の言葉に頬を赤く染めると入口をあける。そんな の様子に尚香は 軽くため息をつくと陸遜を軽く睨んだ。 「 、良いわよ。もう、確かに今日の貴方は変ね。そうそう、貴方にも一応 紹介してあげる。黄蓋の遠縁の子でね、最近私付きの女官になった 。 貴方に会う事もあるだろうし。あ… はいい子なんだから、変な事 しないようにね。」 尚香の紹介に後ろに隠れるようにしていた が一歩だけ前に出る。 「…宜しくお願い致します。」 近くで見ればますます確信が持てる。間違いなくこの少女が庭で見た 少女なのだ。 「…姫様、私は甘寧殿ではないのですから、そのような仰り様はあんまりです。 まったく… 殿に不審がられてしまうではありませんか。…改めて、陸伯言と 申します。宜しくお願いしますね。」 陸遜の完璧な笑顔に尚香が何か思い当たったかのように何度も頷く。そして次の 瞬間その表情を笑顔に変えると を振り返った。 「今から兄様の所に行ってくるけど、 にお願いがあるの。」 突然の尚香の言葉に一瞬驚いた だったが、すぐに真剣表情に変わる。 「はい、何なりと。」 「部屋の卓にあった書簡を陸遜に渡してくれる?ずーっと借りたままだったの 今思い出したわ。…じゃ、陸遜、 から受け取ってね。」 尚香はそれだけ言うと二人を残し小走りに駆けていく。残された二人はあっけに 取られたように尚香を見送っていた。 「姫様…?」 尚香のあの言葉は恐らく陸遜の心中を察した所為であろう。頬を赤く染めると 口許に手をやる。 他人には悟られぬようにしたつもりが… 「あ、あの陸遜様?」 の言葉に我に返る。どうやら彼女は引っ込み思案らしい。恐る恐る 話しかける様子でそれくらいの事はわかる。 参りましたね。 姫様に悟られるとは…。 そして…私がまさかたった一度見ただけの女性にこんな気持ちを 抱くなんて…思いもしませんでしたよ。 まったく…恋は盲目とは良く言ったものです。 鍛練場に居る兵達の視線を背後に感じると入口を閉めるため、彼女を 自分の方へ寄せる。 「り、陸遜様…!?」 「入口を閉めるだけですよ。」 「…あ、…も、申し訳ありません!」 「いいえ。」 随分と華奢で控えめな方だ。 おかしいですね。こんな些細なことでも胸が熱くなる。 笑みを浮かべたまま中々離れない陸遜に は頬を赤らめたまま、 何度も彼を見上げる。 の視線に気付くと心からの笑顔を見せた。 「いえ、 殿から何やら良い香りがしましたので。」 を解放すると悪びれずそう答える。 「さて、参りましょうか。」 陸遜の変わり身に驚きつつも素直に頷く。尚香に言われた事をこなす…それが 彼女の仕事だからだ。そんな彼女を見つめながら歩き出す。 殿、貴女は一目惚れを信じますか? 私もね、昨日までは信じてませんでしたよ。 でも、今は信じています。 何故か、ですか? 私の心を貴女はいとも簡単に掴んでしまった。 楽しみですよ。これからが。 貴女はどんな女性なのでしょうね。 貴女の事なら何でも知りたい。 どんな色が好きなのか。 どんな花が好きなのか…。 些細なことも全部。 庭に咲いた梅は私に春をもたらした。 ええ、そうですよ。 貴女という春を…ね。 「 殿。」 「はい?」 緊張した面持ちの彼女に笑みで返すと首を傾げた。 「…いえ、何でもありません。」 「…?」 本当はね、 殿。 ただ、貴女の声が聞きたかっただけですよ…。 <あとがき> 良かった…なんとか短編仕様に収まりました。フリー配布していた 星空〜の前の話ですね。…でも陸遜が何か企んでる感じで少しイメージが 違うかもしれません(苦笑) 恋をすると、きっと変わっていくのは男女ともに変わりないんですよ…多分。 |