星夜の逢瀬〜陸遜〜







尚香の部屋から辞して廊下を歩いていると向こうから人影が見えた。
決して大きくない細身のその人影は…陸遜である。を見るなり、
人の良さそうな笑顔を浮かべると嬉しそうに声をかけてきた。
「仕事は終わりましたか?」
「はい…。陸遜様は今からお帰りでいらっしゃいますか?」
「ええ…そのつもりだったのですが…。」
陸遜が言葉を濁すとが不思議そうに首を傾げ、その言葉の続きを待っていた。
殿の仕事が終わられたようですから、予定を変更する事にしました。」
「…陸遜様、あの、何を…?」
にっこりと笑う陸遜に対し、 の方は困ったように首を傾げたままだ。
「今日は一際星空が綺麗なのです。如何ですか、一緒に散歩など。」
「…私と…でしょうか?」
困惑気味の に今度は不思議そうに陸遜が首を傾げる。
「今、この場には 殿しかおりませんよ?」
「…そう、ですね…。」
たまに言葉を交わす程度の者をこうして気軽に誘うのだろうか? にとって
陸遜は雲の上の人間だ。簡単に彼の誘いにのっていいものか迷っている。
断れば気を悪くしてしまうだろうし、だからといって彼の誘いにのれば
彼と会話をしなければならない。普段会話を交わすことのない陸遜と何を
話していいのか、また何故彼が自分を誘うのか分からず はその場で
考え込んでいた。
「宜しいのでしょうか?」
「はい?」
の沈黙を肯定の意としてとって良いのかと不安そうに聞いてくる。
普段の陸遜から想像できぬ姿だ。
「ですから、散歩を御一緒して頂けるのかとお聞きしているのですよ。」
「…私で宜しければ…。」
「そうですか!一緒に来ていただけるのですね!では、早速…綺麗な夜空を
眺めるのに最適な場所があるのですよ。」
妙に嬉しそうな陸遜の笑顔を見ていると曖昧に笑うことしか出来ない。
の知る陸遜とはこういう人物だっただろうか?否、彼はもの静かで
冷静な人物だった気がする。年齢こそ とそう変わらぬが、軍師として大都督周瑜、
呂蒙らと戦をくぐり抜けてきた人物の筈だ。慎重に物事を推し進め、会話にも
知性を感じる…そういう印象を は受けていたのに、今目の前にいる
陸遜は年齢相応の少年だ。感情を素直に表に出す…どこにでも居る普通の
少年のように見える。
殿、早く行きましょう。」
にこにこと笑う陸遜を見ていると徐々に の表情にも本物の笑顔が浮かび
始める。たまにはこんな風に年齢相応に戻る…それは彼なりの息の抜き方
なのかも知れないと一人納得する。
「どちらに行かれるのですか?」
「その場所に着くまで内緒です。きっとびっくりしますよ。」
「…楽しみです。」

厩の近くまで来ると陸遜が自分の馬を連れてくる。 もその馬に一緒に乗ると
ゆっくりと馬を歩かせながら星空の下を歩く。
「今日は本当に星が綺麗ですね。」
「ええ、きっと寒さの所為でしょう。」
「寒さが関係しているのですか?」
「私の主観ですが、空気が澄んでいるから星の輝きが増して見える気がしまして…。」
手綱をひく陸遜の前で横乗りになっている所為か、普段よりも近い距離に互いが居る。
妙にお互いを意識してしまい、二人の間に沈黙が流れた。そしてぎこちない沈黙の中
不意に陸遜が口を開く。間近に見る陸遜は頬を上気させ、どこか緊張したように
言葉を紡いだ。
「あ、あの!」
「…陸遜様?」
「すみません…少し強引でしたよね…?」
「え?」
先程までの勢いはどこに行ったのだろうかと思うほど、陸遜の様子は変わっていた。
「その…普段の私と余りに違うので驚きましたか?」
「…え、あ…はい…少しだけ…。」
「そうですよね…。あの、でも言い訳をするようですが、今居る私が本来の私です。
…その、 殿と一緒に過ごせるのが嬉しくて…舞い上がってしまって…。」
「…私と…?あの陸遜様…今…。」
陸遜の言っている意味をどういう意味でとって良いものか迷いながら、彼の
瞳を見つめる。
「はっきり言います。…私は 殿が好きなのです。」
「…陸遜様…。」
じっと瞳を見つめられ、自らの頬が紅く染まっていくのがわかる。視線を
合わせられなくなり、俯くと手綱を握っていた陸遜の左手が の手の上に
重ねられた。
「私に着いてきて下さったという事は…貴女の答えを期待してもいいのでしょうか?」
陸遜の言葉に心が揺れる。好きと言われて悪い気はしない。でも簡単に頷いて
良いとは思えないのだ。何故なら は陸遜に対し好きという感情はない…まだ。
「陸遜様、私…。」
「…すみません…別に貴女を困らせたい訳ではないのです。ただもし貴女の心に
まだ誰も住んでいないのでしたら…私を住まわせていただけませんか?…私たちには、
まだ幾時も時間があります。だから…答えを今すぐ出さなくとも構いません。」
の手に重ねられた手を優しく包む。見上げると星空を背景に優しく微笑む
陸遜がこちらを見つめていた。
「これからの私を見て、私を好きになって下さい。」
「陸遜様…。」
言葉を続けられなくなり、ただ陸遜に向って頷く。
「…だから…貴女の心に私が住まう事が出来たなら…私の事をこう呼んで下さい。」
「?」
「…『伯言』と。それを合図にしましょう。」
重ねていた手が離れ、 の髪を優しくなぜる。
「…さあ、今日は星を見に来たのです。綺麗な星空を見なくては星に失礼ですね。」
「…そうですね。」
陸遜の明るい声に笑って見せた。彼の言う通り時間はまだ幾時もある。今すぐ
答えを出さなくてもいいのだ。安心した様に笑う にくすりと陸遜が笑みを漏らす。
「ええ。…でも 殿。」
「はい?」
「星だけでなく、私も見て下さいね?」
「は、は、はいっ!」
赤面する に楽しそうに声をあげて笑うと左手でそっと抱き寄せる。ほんのり
紅く染まった頬に唇を寄せた…。




<あとがき>
何故、陸遜だけ片思い設定なんでしょうか。いや、浮かんだネタがたまたま
片思いだっただけで…。私の中で陸遜は無邪気で押しの強い…と勝手に
イメージされています。なので大人しいだけの少年ではないのですね。