映画を見た帰り道、話しながらいつも通る公園へと立ち寄る。萌の手には さっき貰ったばかりの赤い手袋が、滝川の手にも紺色の手袋がある。しかも 滝川が貰った手袋は手編みだ。 公園のベンチに座ると白い息を吐き出す。空に昇っていく白い息を見上げた後、 隣に座る萌の顔を覗き込んだ。 「寒いけど大丈夫?」 頷き返す萌に一度は頷いて納得しかけたが、すぐに立ち上がる。 「やっぱ、何か温かいモン買ってくる!」 自動販売機へと走る滝川の背を見送ると自分の手にある紙袋を覗き込んだ。 さっきまではクリスマスプレゼントの手袋がここに収められていたが、 今は今朝焼いたばかりのパウンドケーキがあるだけ。 本来なら手袋のプレゼントだけのつもりだったのだが、とある女性からの 助言でケーキまで焼くことになった。何でも女の子の手作りケーキに 感激しない男はいないとのことらしい。別にそんな事をしなくても 手編みの手袋をプレゼントした時点で滝川は十分感激していたし、 その感激のしように萌も凄く幸せな気分になれた。ただ、あまりにも 真剣に助言をくれた為、それを無視してしまうのも気が引けて、 結局こうして助言の一つに従ったのである。 「石津?」 戻ってきた滝川の手には紅茶の缶が二つ握られている。紙袋を 覗き込んでいた萌に首を傾げながら手にある缶を一つ手渡した。 「どうかした?」 あまり周りに気を配ったりその人の状態を探る事は不得意な滝川だが、 萌に関してだけは勘が働くようになっていた。左右に頭を振った今の 反応は少し変だ。何と言うかぎこちないような気がする。が、滝川も滝川で 実はちょっと実行にうつしていいかどうか迷っている事がある。 とある人の助言で自分の部屋へ彼女を招けと言われているのだ。確かに ここ2、3日は親友の速水のお陰で部屋も綺麗だったし、何よりこんな 寒い中公園でずっと話しているよりは風邪の心配もなくいいとは思う。 だが、自分の部屋に誘うなんて簡単に出来る筈がない。しかも助言には 続きがあってムードを盛り上げてキスをしろとも言われている。 …出来るわけねーじゃん。 そんな事出来たら俺だってとっくにしてるってば。 簡単に言ってくれるよなぁ…。 こっそりため息をつくと温かい紅茶の缶を持ったまま、何やら思案顔の 萌を見る。そもそも出だしからして普段とは違うことをしたから 何処か調子が狂うのだ。これまた助言の一つで映画はラブロマンスもの。 しかしうっかり自分が泣いてしまうというポカをやらかして、萌に ハンカチを借りるハメになった。更に昼食も普段なら味のれんや適当な 所に入るつもりだったのが、やはり助言の一つで市内に残る最後の洋食屋に 入ったのはいいのだが、頼んだセットに嫌いなピーマンを見つけて 避けていたら笑われてしまったり…等と、とにかく調子は狂いっぱなしだった。 これじゃ、男を上げる所か下げてる気がするんだけどさ…。 ふと気付くと服の袖を引っ張られていることに気付く。 「な、何?」 「…あ…のね…」 おずおずと差し出されたのは朝からずっと彼女が持っていた紙袋だった。 首を傾げつつも何だろうかと受け取って中を覗く。透明な袋に入った パウンドケーキがそこに見える。 「…これって…もしかしてお前が作ったの?」 ケーキと言えば中村や速水の十八番だと思っていたが、やはり女の子の作る ケーキはどこか違う。何が違うとは具体的に言えないが、とにかく凄いのだ。 しかもこれを自分にくれるという。こんな嬉しいことがあっていいのだろうか。 「サンキュー!手袋だって貰ったのに俺、こんなに貰いっぱなしでいいのかな。 へへへ、ホントに嬉しいよ」 衝動的に抱きしめたくなるのをぐっと抑えつつ、感謝の気持ちを伝える。 あーあ、ここで師匠とかだったら上手く言って抱きしめたりすんのかなぁ? あー、くそ…いっぺんでもいいからやってみてぇ…。 眺めようと袋から取り出すと大きなパウンドケーキが視界の中でキラキラ 光ってみえた。もちろんそれは彼女が自分の為に作ってくれたという思いが そう見せてくれているのだろうけど、本当に幸せが一杯詰まった最高の ケーキだと思う。 「…これってかじって食うんじゃないよな…」 ふと浮かんだ疑問。確かテレビでは切り分けて食べていた気がする。 もちろんケーキを丸かじりなんて聞いたことがない。 「…滝川…くん?」 萌にはまだ言っていない事だが、実は包丁は苦手だ。苦手というか 昔の記憶が蘇るので触れないというのが本当の所。まだ母親と一緒に住んでいた 頃の事。あれからもう大分立つのに克服したと思っていた閉所恐怖症だって 大きな闇を伴って自分を襲ってくる。別に周期がある訳ではないが、年に何度か それはやって来て自分を何処かへ追い込もうとする。 そして包丁は閉鎖された闇と似た物だ。あの刃先の光がどうしても恐怖を蘇らせる。 だから寮の自室に取り付けられたミニキッチンには最初から備え付けられていた 包丁も綺麗な物で一度も触ったことがない。たまに遊びに来た速水が使うぐらいだ。 「あ、あのさ?これ、切って貰ってもいい?」 自分の口からついたのはそんな言葉だった。気のせいか自分の手が微かに 震えているような気もする。視線を落としぎゅっと目を瞑って唇を噛みしめた。 まさか、連想的に思い出しただけでこんな風になるなんて今までなかったのに。 「…今?」 こんな時に…何もこんな時に来なくても良いだろ…っ! 「…頼む…な?」 力なく、そう答えるだけだった。 誰かと居なければ、きっとまた飲まれてしまう。 抜け出したと思っていた闇にまた飲まれてしまうから。 ごめんな。俺、お前の前ではもっと強い奴で居たいんだけど今日は無理みたいだ。 お前が頼れる奴になりたいんだけど…これじゃ駄目だよな…。 寮に戻るまでの道すがらずっと沈黙が続いていた。ただひたすら萌の 手を握って前を見るだけで精一杯で会話をする余裕なんてなかったのだ。 萌も何か感じ取っていたのか、余計なことはしようとしなかったし 普段のように口を噤んだまま自室へと戻ってきた…。 鍵を開け、部屋の電気を灯すと少しだけ発作的なものが治まった気がした。 狭い空間だが、ここは自分の部屋でそこに萌がいることに安堵感を覚えた からかもしれない。 「そ、その…ごめん」 ゆっくりと首を左右に振る萌に少しだけ笑うとゲーム機用の机からゲーム機、 ソフトなどをどかし場所を作る。 「えっと…その…」 「お皿…どこ…?」 「へ?…あ、ああ、えっとこっち」 どうやらケーキを切り分けてくれるのだと悟るとミニキッチンの横の棚を示す。 まな板とかあっただろうかと考えようとしたが、萌が背中を押し、机の前にと 追いやられる。 「…石津?」 「…大丈夫…多分…わかる…から。…待ってて…」 机の側に腰を下ろしながら萌の後ろ姿をじっと見る。公園に居た時に比べると 心拍数も安定しており、自分自身落ち着いているのがわかった。 昔、母親と住んでいた頃。四六時中まとわりついていた。例え以前のように 微笑みかけてくれなくても、いつかまたそれが見られるんじゃないかと いつも後ろを追いかけ続ける。その結果恐怖を伴うこともあったが、それでも ずっと追いかけていた。たまに精神的に落ち着いている時なんかは 台所に立って料理を作ってくれたりして、そんな時はこんな風にじっと その後ろ姿を見ていて、作り終わった母親が振り向いて笑ってくれるのが 一番の幸せな時だった。 かちゃかちゃと皿やフォークを準備する音が聞こえる。 そうだ、取りに行こうと思って立ち上がった瞬間だった。 「…滝川…くん」 振り向いた萌が微笑んでいて…思わず座り込む。 机に皿とフォークを置いた萌は不思議そうに、そしていつものように服の 袖をそっと引っ張った。萌のその仕草は心配そうな時によくする仕草だった。 その手を握ると笑う。視界が何故か滲んでいたけど、萌の顔だけははっきり見えた。 「あのさ…怒らない?」 突然の言葉に再び萌は不思議そうな顔をする。首を傾げた後、ゆっくりと頷いた。 「じゃ、目瞑ってて」 瞳を閉じた萌を見て頷くと距離を縮め、そっと唇を重ねる。 そのまま萌を抱きしめるとほっと安堵の息を漏らした。 「俺、さ…」 「…?」 「『萌』が好きだよ」 耳元に聞こえる声に微かに萌が頷く。 小さく笑うともう少しだけ抱きしめる腕に力を込めた。 「…私…も…『陽平くん』が…す…き」 「…サンキュ」 落ち着いてきたと思った心臓が五月蝿くなるのは、自分が何をしているのかと 自覚した5分後。泣きながら真っ赤な自分を持て余しつつ、この次は どうしようかと悩んだらしいとか。 それはある少年と少女の特別なクリスマスの事── |