「あのさ…俺、転属命令貰ったんだ」
そう唐突に言い出したのは整備員詰め所に彼が顔を出した時だった。
ちょうど今朝、彼は善行に呼び出され何処かに行っていた。きっと
その時に辞令をもらっていたのだろう。昼食を一緒に食べていた時も
何か言いたげで、だけど言い出せないのか、いつもよりも饒舌だった。
「……いつ…行くの…?」
「まだわかんねぇけど…多分来月くらい」
部屋の入口で立ったままの彼に小さく頷き返すと医療品の在庫チェックを
再び始める。微かに手が震えていた。包帯を詰めようとして取りこぼし
床に転がしてしまう。転がる包帯を拾おうと手を伸ばすと彼の手が
先にそれを拾った。
「…ん」
「…ありが…とう…」
自分たちの間に流れる沈黙が怖いと思ったことなんてなかった。
…違う、きっとそうじゃない。
沈黙が怖いんじゃなくて…彼の口から出てくる次の言葉が怖い。
一緒に居られれば、ただそれだけで良かった。
別に何を求める訳でもない。ただ彼を見ていられれば、彼の傍にいられれば
それだけで良かった。
だけど、それはもうすぐ叶わないものとなる。
ぎゅっと唇を噛んだまま、受け取った包帯を救急箱へと入れ、脱脂綿や消毒薬や
他の治療薬のチェックを再び始める。入口に立っていた彼はゆっくりと
歩きながら、いつもそうしているように椅子に座って肘をつく。
顔を上げなくともその視線が自分に向けられていることはわかった。
「任地さ、広島の山ん中だって」
彼の声だけが部屋の中に響く。在庫チェック用ノートに数を記入しながら
その言葉に頷き返す。いつもの彼の雑談を聞くように。手が震える今、
迂闊に話せば声も震えるだろうから、ただ頷くだけ。
「山岳騎兵のいる部隊なんだってさ。…パイロットの俺が行って役に立つのか
よくわかんねぇけど。あー、でも芝村も同じ所に配属なんだよな。新型の
人型が配備されるとか、そんなんかな…。ほら、一応俺撃墜王だし」
少しだけ茶化すようなそんな調子で彼が笑う。きっともう気付いてる。
自分の手が震えているのも、泣きそうなのに堪えている事も。
以前誰かが言っていたけれど、彼は空気が読めないんじゃない。読まないように
わざとそう振る舞う事が多いのだ。実際の彼は…見る所は見ている。
だから、自分が今一生懸命泣くのを堪えていることなんて、とっくに知っているに
違いない。でもわざと気付かない振りをしてくれている。
何故か、って…自分のために。
だって気付いていると彼が自分を慰めれば、きっと泣いてしまうから。
泣くのを堪えようとしている自分を彼は尊重してくれている。
彼は…とても優しい。
でも、その優しさがとても…辛い。
優しいその温もりにずっと触れていたくなってしまうから。
離れ難くなってしまうから。
「…何か、ここも人数少なくなっちまうな。委員長も俺と同じ所に転属だし…
他の奴等も別の所に配属されるみたいだ」
静かな彼の声はどこまでも優しかった。優しさに、もっと泣きたくなった。
一人置いて行かれるようで、寂しいと。そう言えたらどんなにいいだろう。
そんなことをしたら、きっと彼は困ってしまう。辞令に学兵が逆らえる筈もない。
学兵と言えども自分たちは軍人の端くれ、辞令に逆らう事は命令違反だ。
いつまでも、ここに居られるなんて思ってなかった。
でも、それは嘘だ。
ずっとここに居たいと、彼の傍に居たいとそう思って止まなかった。
いつか、こんな日が来ると分かっていた筈。
いつまでもこのままじゃないと分かっていた筈。
泣きたいのを堪えつつ、顔を上げると外を見ている彼が視線をゆっくりと
戻す。交差する視線に静かに彼は笑顔を湛えた。
いつも教室で友達と話す貴方はどこか子供のようでその笑顔はとても眩しい。
まるで青空に映える太陽のように眩しい笑顔。
だけど自分と居る時の貴方はいつも優しい静かな笑顔。
もちろん、太陽のような眩しい笑顔も見せてくれるけど、視線が合うと
貴方は優しく微笑む。まるで春の静かな海のように。
何処までも優しい海のような、そんな貴方。
静かに押し寄せる波。じっと立ったまま、貴方は私を振り返る。
太陽のような眩しい笑顔を持つ貴方は、海のように広い心で私を受け入れてくれる。
部屋の中を時を刻む、秒針の音だけが響いていた。
そして彼が息を飲むと「あのさ…」と言葉を紡ぎ出した。
不思議とその言葉に恐怖は感じない。
さっきまでは彼が紡ぐ言葉に脅えていたのに。
もうすぐお別れだと、そう告げられてしまうかもしれないと。
何故か、わからない。
ただ彼のその笑顔が全てを安心させてくれていた。
何もかもを許すような、包むような…そんな際限ない優しい彼の笑顔が
自分の恐怖を取り除いてくれた。
「あっちな、歩兵が殆どなんだって。だから、推薦したんだ。ごめんな、枠が
まだ一個空いてたからさ…委員長にお前のこと推薦しといた」
思い掛けない言葉に手にしていた消毒薬を取り落とす。転がったそれを拾い上げ
彼が静かに笑った。
「歩兵が多いならお前みたいな腕の良い衛生兵が居ないと追いつかないだろ?」
ことんと消毒薬が机に置かれ、彼は笑ったまま、また謝った。
「ごめんな、お前が戦闘に出るの嫌いだって分かってる。でも…お前が居たら
助かる奴もたくさんいる」
零れてしまった涙を彼が指で拭う。温かいその手は不器用だけど、優しく涙を
拭ってくれる。
「…それに」
涙で滲んだ視界に彼の笑顔が映った。
「俺、お前と居たいから」
堪えていた涙は堰を切ったかのように溢れて止まらない。
謝る彼に何度も首を振って、意思を伝えようとする。
頷いた彼にますます涙が止まらなくて、ぎゅっと瞳を閉じる。
頬に伝う涙を拭っていた彼が手を伸ばし、自分を包んだ。
「こんな俺だけど、誰かの助けになるなら、俺は俺なりに頑張りたいんだ」
腕の中で頷くとゆっくり顔を上げる。
そこに居るのは誰よりも優しく笑う彼が居る。
「…私も…私が…誰かを救う事が…出来るなら…そう…したい…」
それは本音。こんな自分でも誰かの役に立つなら、と思う。
そして…もう一つの本音も、彼は知ってる。
「うん、だからさ…新しい所でも、頑張ろうぜ」
自分を包んでいた腕が解かれると、顔を覗き込んだ彼と目が合う。
彼の笑顔につられるようにゆっくりと微笑み返すと手を繋いだ…。
<あとがき>
元ネタがガンオケ緑の萌ちゃんからの滝川評からだったりするので、すこーし
微妙なところですが、いいです。熊本時代ということでマーチに。
いつも可愛い可愛いと言ってますが、こういう優しいこの子も当然ながら
好きですよ。特に萌ちゃん相手の優しい滝川は好物(笑)です。